第13話 不透明な感情


「送っていくか?」

「いえ。そんなに遅い時間でもないですし、一人で帰れますよ」

「そっか。じゃあ、また月曜日」

「そうですね。図書室でまた、会いましょう」


 書店を出た後は適当な店を見て回り、待ち合わせをしていた駅前で本倉と別れることになった。

 駅の構内に消えていく本倉の背を送って、俺も帰路につく。


 午後五時過ぎ。

 七分晴れの空を眺めながら、今日のことを思い返す。


 元々は美鈴が偽装交際をするのなら相応の振舞いを練習しておいた方が――なんてことを言っていたのが発端ほったんだった気がする。

 それに美鈴から何かを耳打ちされた本倉が乗っかったことで、今回のデート……のような外出が実現した。


 少なくとも俺は楽しかったし、本倉の反応を考えてもそれほど悪いものではなかったと思う。

 水族館も、喫茶店での昼食も、書店での本選びも。

 全部が一人よりも充実した時間だったのは確かだ。


「……偽装交際、か。いつまで続くんだろうな、これ」


 俺と本倉の関係はあくまで偽装、その場しのぎの嘘に他ならない。

 だとすれば、いつか終わりが来ると考え――胸の内に、重い雲が立ち込めた。


 偽装交際が終わるとき。

 それは、本倉が自分に好意を寄せてくる相手に真正面から向き合って返事をできるようになったときだ。


 俺がどうこう言ってどうにかなる問題でもなく、ましてや解決したときに呼び止められるはずもない。

 かけるべきは祝福の言葉だ。

 ちゃんと送り出して、この歪な関係は終わり。


 たったそれだけのことなのに。


「……わかんねえや、もう」


 自分がどうしたいのか、はっきりとしなかった。



 ■



 楠木さんと別れた私は、一直線で家に帰った。

 住宅街の中ほどにある一軒家は、いつも通りに静けさが満ちている。


 玄関に並ぶ靴は自分の物だけ。

 私は、ここで一人暮らしをしている。


 両親は長いこと一緒に暮らしていないけれど、毎月の生活に必要な額だけは振り込んでくれていた。

 必要以上に多いのは、なるべく私に関わらないようにするためだろう。


 両親にとって、私の存在は視界に入れたくないほど嫌いなものだから。


「……今日は、楽しかったです」


 暗いリビングでぽつりと零れた言葉。

 それは、紛れもなく私自身の本心だった。


 事の発端はほんの偶然。

 図書委員の仕事をしていたときに手伝ってくれた楠木さんと定期的に会うようになって、私は少しずつ会話をするようになった。

 楠木さんはお礼の内容を考えてくれているだろうか。


 私が決められれば良かったけれど、楠木さんの欲しそうなものが何もわからない。

 長いこと人と交流を持たなかった弊害へいがいが、こんなところに出るとは思わなかった。


 しかも、極めつけは楠木さんに頼んでしまった偽装交際の相手役。

 迷惑だとわかっていても、頼れる相手は少なからず会話ができる楠木さんくらいしか思い当たらなかった。

 悪く言えば、図書室で定期的に会って話をする程度の浅い関係。


 それなのに義理だと見え見えの嘘をついて、楠木さんは偽装交際を受けてくれた。


 どうして私にそこまでしてくれるのか、本当にわからなかった。


「――でも、嫌じゃない。そう思ってる私が、大嫌い」


 ぎゅっと、両手を握りしめる。


 人の善意に寄りかかって、自分だけが得をして。

 与えられるものなんて何一つ持っていないのに。


 楠木さんが嘘をついていないのはわかっている。

 何かを誤魔化そうとはしたけれど、それは私を傷つけないためのもの。


 今日のデート……デートも、事前に私が楽しめるようにルートを考えていたのだと思うと、どれだけ言葉を尽くしても言い足りない。

 楠木さんと過ごす時間が終わって欲しくないと思っていた自分がいた。


 駅で別れるのも、嫌だった。


 家に帰れば、自分が孤独であることが身に染みるから。


「……大丈夫、また月曜日に会える」


 でも、もし。

 楠木さんがお礼の内容を考えて来たら。


 私はまた、独りになる。


 これまでと何一つ変わらないはずなのに。

 本があればそれでいいと思っていたはずなのに。

 私が望んでたことのはずなのに。


 あの不愛想な声が聞きたい。

 ちょっと硬くて大きな手の温度が懐かしい。

 隣を歩いていたときの空気感が心地よかった。


 別れてから一時間も経っていないのに、遠い昔の出来事のように感じてしまう。


 ――これが惹かれるということならば。


「……恋、なのでしょうか」


 漏れ出た言葉。

 それこそ私が抱いている不透明な感情の名前なのかわからないけれど。


 きゅっと胸を締め付ける何かが、僅かに強くなるのを感じた。

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