52.帰ってきた花火

 昭和23年8月1日。昭和12年から中止されていた墨田川の川開き花火大会が再開されるということで、川縁には大勢の見物客が集まっていた。横澤よこざわ家では、かつらと康史郞こうしろうたかしの到着を待ちながら支度中だ。

「康ちゃんは墨田川の花火、覚えてないわよね」

 目隠しの布の向こうでかつらの声がする。康史郞は答えた。

「当たり前だよ。まだちっちゃかったし」

「お父さんがちょうど家に帰ってきてて、一家で見に行ったのよ。ゆうちゃんが花火の音に驚いて泣き出したのに、康ちゃんはきょとんとして空を見上げてて。お父さんが『こいつは大物になるぞ』って喜んでたの。浴衣で康ちゃんを抱いてたお母さんが勇ちゃんに『大丈夫よ』って言って、よう兄さんは私に『僕はあの花火よりも高い空を飛行機で飛ぶんだ』と語ってくれたわ」

「そうだったんだ。みんな楽しみにしてたんだね」

 康史郞が答えたのと同時に、かつらが布の向こうから出てきた。青地に白と水色の花柄が入った浴衣ゆかたを着て、髪の毛はいつもの三つ編みではなく後ろでまとめている。浴衣の帯には紐を通した翡翠ひすいの帯玉が留められていた。

「どうかしら」

 かつらが呼びかけたので、康史郞はようやく我に返った。

「きれいだ。きっと京極きょうごくさんも喜ぶよ」

「ありがとう。さ、今度は康ちゃんよ」

 かつらはねずみ色の縦縞たてじまの浴衣を取りだした。

「しかし、よく浴衣の布が手に入ったね」

 着付けをされながら康史郞が尋ねる。

「仕立物の仕事と引き替えに海桐かいどう君に探してきてもらったのよ。もちろん衣料切符は払ったけどね」

「そうか、カイも頑張ってるんだな」

 カイこと高橋海桐たかはしかいどうは、現在廣本ひろもとの店で働きながら商売用の履き物や小物を仕入れている。問屋とのつながりが出来たら独立して仕入れ専業になりたいと語っていた。

「それに、花火が終わったら今度は私たちの寝間着になるから無駄遣いにはならないわ。帯も糸をほどけば再利用できるように作ったし」

「相変わらず姉さんはしっかりしてるな」

「それより、康ちゃんはあれ、忘れないでね」

「分かってるよ」

 康史郞はちゃぶ台の上の紙袋を見る。その時、外から戸を叩く音がした。

「ちょっと待って」

 かつらは玄関の戸を開けた。康史郞とお揃いの柄の浴衣を着た隆が立っている。

「かつらさん、素敵だ」

 隆はそれだけ言うのがやっとのようだ。そのままかつらに見とれている。

「隆さんも似合ってるわ」

 かつらは優しく隆に言った。

「かつらさんの仕立てがいいからですよ。少し早いですが、康史郞君の支度が出来たら出かけましょうか」

「ええ」

 かつらは康史郞の浴衣の帯を手に取った。


 三人が外に出ると、既に大勢の人がうまや橋に向かって歩いていた。かつらはいつもの下駄、康史郞は紙袋を持ってズック靴を履いている。道路に出ると、山本やまもと夫妻が家の前で涼んでいた。

「こんばんは。晴れて良かったですね」

 ノースリーブのワンピースを着た槙代まきよが挨拶したので、三人は礼をした。

「うちはここから花火を見ますよ。人混みは暑いですし」

 甚平姿の隼二しゅんじが話しかける。

「私たちは厩橋まで行ってきますね」

 かつらはそう言うと歩き出した。


 大通りに出ると、道の向こうから戸祭とまつり一家が歩いてきた。仕事場とは違い、啓輔けいすけもランニングシャツにステテコという軽装である。

「康ちゃん、その浴衣似合ってるね」

 半袖シャツに学生服のスボン姿の征一せいいちが康史郞を褒める。その手には『新宝島しんたからじま』と書かれた漫画が握られていた。

「その本、また借りたのかい」

 康史郞が尋ねると征一はかぶりを振った。

「そこの露店で買ったんだ。この『手塚治虫てづかおさむ』って漫画家、今どんどん新作を出しててさ。きっと売れっ子になるよ」

 二人が盛り上がっている間、かつらと隆は啓輔とマツと話し込んでいた。

「今日は本物の『まつり』だからな。仕事は休みだ」

 うちわで仰ぎながら戸祭が言う。

「日曜なんだから元々休みだろ」

 麻のワンピース姿のマツが突っ込んだが、戸祭はかまわず話し続けた。

「それで京極さん、新居の目処めどは立ったのかい」

「ええ、なんとかアパートを契約することが出来ました。今建築中なんですが、厩橋を渡った反対側になります」

「6畳の部屋に押し入れが付いているそうです。3人暮らしなら大丈夫かな、と」

 かつらの説明にマツがうなずく。

「そうかい。康史郞君が卒業する前に決まって良かったね」

「ヤミ市も『まつり』もなくなっちまったからな。今は露店の総菜屋で食いつないでるが、店を再開したらこいつに手伝ってもらうつもりだよ」

 啓輔は征一を見た。


「そうだ、露店と言えばヒロさんの店、出てなかった?」

 康史郞の問いに征一は指を差した。

「あっちにいたよ」

「姉さん、ちょっと行ってくる」

 飛び出そうとする康史郞をかつらが引き留める。

「はぐれたら大変だから三人で行きましょ」

「それじゃ戸祭さん、失礼します」

 隆も一礼すると、三人は道の向こう側へ渡った。


 露天商が店を並べる一角に、廣本と高橋兄妹が開く雑貨店がある。かつら達が近づくとカイが声を掛けた。タンクトップに軍服のズボン、戦闘帽を被っている。

「いらっしゃい、うちわに扇子、下駄にサンダル、替えの鼻緒もあるよ」

 カイはかつらの顔を見て驚いたように言った。

「康史郞のお姉さんじゃないか。浴衣だったんで分からなかったよ」

「失礼だぞ、カイ」

 抗議する康史郞と後ろの隆を見たカイは一礼する。

「京極さん、こないだは下駄買ってくれてありがとう」

「浴衣にはやっぱり下駄だと思ってね。ちょうど持ってなかったし」

 隆は足下の下駄を見せた。

「リュウはいないのか」

 康史郞が尋ねたその時、リュウこと柳子りゅうこが戻ってきた。両手にスイカを抱えている。

「ヒロさん、露店でスイカ買ってきたよ」

「おう。帰ったら冷やして食べような」

 日よけの付いた戦闘帽を被った廣本がスイカを受け取った。ひげをきれいに剃り、米軍用のカーキ色のTシャツにアーミーズボンをはいている。ヒロポン中毒だった頃よりはかなり落ち着いてきたが、未だに禁断症状で苦しむことがある、とかつら達はリュウから聞いていた。

「お姉さん、それ手作りですか。きれいですね」

 リュウはかつらの浴衣を褒めた。かつらも褒め返す。

「柳子さんのワンピースもよく似合ってるわよ」

「アニキからの誕生日プレゼントなんだ」

 黄色のギンガムチェックのワンピースを着たリュウはいつもより大人びた雰囲気だ。康史郎もそわそわしながら答える。

「そうか。良かったな」

「康史郞の浴衣もカッコいいよ」

 リュウに褒められ、頭を掻こうとした康史郞は手を止めた。

「そうだこれ、俺からの誕生日プレゼント」

 康史郞は手に持った紙袋をリュウに差し出す。

「開けてもいい」

「ああ」

 リュウは紙袋を開くと中身を取りだした。四角い布が広がる。

「これ、お姉さんの浴衣と同じ柄だ」

「浴衣の余り布でスカーフを作ったんだ」

 今度こそ空いた手で康史郞は頭を掻いた。かつらが補足する。

「康ちゃんがミシンを使って縫ったの。ちょっとガタガタしてるけど頑張ったのよ」

「ありがとう。ちょっとつけてみる」

 リュウは早速スカーフを頭に被り、あごの下で結んだ。

「なかなかいいじゃないか。折角だから康史郞と花火見てこいよ」

 カイが呼びかける。

「お店はいいの?」

 リュウの問いに答えたのは廣本だった。

「俺とカイがいるし、花火の間は客も来ないだろう。京極、リュウを連れてってくれないか」

「了解です、廣本さん」

 隆はわざとかしこまって答える。

「じゃ、あたし行ってくる」

 カイと廣本に手を挙げると、リュウは露店から外に出て康史郞の横に並んだ。

「『あたし』か。もうどこから見ても女の子だな」

 廣本がつぶやく。厩橋へと向かう四人を見つめながらカイは呼びかけた。

「リュウ、うまくやれよ」


 既に厩橋周辺は、花火見物の客でひしめき合っていた。かつらが声を掛ける。

「人混みが多いから手を繋ぎましょ。離さないでね」

 かつらの伸ばした左手を隆、右手は康史郞が繋ぐ。康史郞は自分の右手をリュウに差し出した。

「俺たちも手を繋ごう」

「うん」

 リュウは康史郞の右手に自分の左手を重ねた。


 ついに花火が墨田川の空に上がり始めた。見物客のどよめきの中、かつらはかつて家族と見た花火を脳裏にだぶらせていた。

(母さん、みんな、見てる?  花火が墨田川に帰ってきたわよ)

 かつらには翡翠の帯玉が温もりを持っているように感じられた。隆が空を見上げながら言う。

「来年もここで、みんなで花火を見よう」

「ええ」

 厩橋から花火を見ながら、かつらは新しい家族と暮らせる喜びを噛みしめていた。手を繋ぐ4人を見守るように、空で白い花火が横に開く。それはまるで蓮の花のように見えた。


 横澤康史郞は後に高橋柳子と結婚し、二人の稼ぎで自分のキャバレーを開店させた。

 横澤かつらと京極隆は昭和24年春に結婚し、翌年娘が生まれた。名前は戦争が終わって町にともった明かりのように皆を明るく照らして欲しいというかつらの願いで「あかり」と名付けられた。


 完

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