36.ヒロポンの闇

 リュウに続いて路地に入ったたかしが見たのは、包みを後ろ手にして立つ康史郞こうしろうだった。誰かと向かい合っているようだが、暗くて顔が分からない。だが、相手には隆の顔が見えたようだ。

京極きょうごく!」

 隆に飛びかかろうとする廣本ひろもとに、包みを投げ捨てた康史郞が立ちふさがる。

「やめてくれ!」

「どけ!」

 廣本は小刀の刃を鞘から出し、康史郞の眼前に突きつける。次の瞬間、隆は康史郞を押しのけて二人の間に入っていた。

「逃げろ!」

 隆の怒号を初めて聞いた康史郞は、あわてて包みを拾い上げるとリュウの側に後ずさった。隆はそのまま廣本に呼びかける。

「廣本さんに亡霊を見せてるのは私ではなくヒロポンなんです。目を覚まして下さい」

「うるさい!」

 廣本は隆の背中に小刀を振り下ろす。作業服が切り裂かれ、血が吹き出てきた。耐えきれずうずくまる隆の背中を、廣本はさらに斬り裂こうとする。

「亡霊め……ウワッ!」

 廣本の体が倒された。隆が足首を掴み、引きずったのだ。倒れた拍子に廣本の手から小刀が離れた。隆はそのまま廣本を組み伏せる。

伍長ごちょうは、もっと強かったですよ」

 廣本はうめくように声を上げた。

「殺したはずの貴様がのうのうと生き残って、女といちゃついてる。理不尽だろ」

「私は生きたいんです。かつらさんたちと、一緒に」

 隆は絞り出すように声をあげると、背中に刺さった小刀を引き抜いて後ろに放り投げた。


 一方、隆の住む「墨田川館」に向かったカイは、建物から出てきたかつらと出くわした。

「あんた、康史郞の姉貴か」

 かつらは軍服姿の少年を見て立ち止まる。

「そうですけど、なにか」

「あの眼鏡の男を知らないか。康史郞がこのままじゃ危ないんだ」

「私も探してるの。それより康史郞はどこにいるの」

「ヒロさんの所に荷物を届けに」

「もしかして、廣本って人のこと?」

 かつらの問いにカイはうなずく。

「とにかく案内して、早く」

 かつらはカイを急かす。

「畜生、なんでいないんだよ」

 カイはそう言い捨てると早足で歩き出した。かつらは慌てて後を追う。


 路地では隆と廣本のもみ合いが続いていた。康史郞は転がってきた小刀を路地の外に蹴り出す。

「ヒロさん、ヤマさんが『ヒロさんは用済みだ』って言ってたんだ。一緒に逃げようよ」

 リュウが廣本に呼びかけるが、廣本の耳には届かないようだ。

「早く交番に行け!」

 隆が再び声を上げる。康史郞は廣本に近寄ろうとするリュウの手を掴んだ。

「一緒に行こう」

「ヒロさんが捕まっちゃうよ」

「本当に悪いのはヤマさんなんだ。警察もきっと分かってくれるさ」

 康史郞がリュウの手を掴んで路地から出ようとした時だ。さっき蹴り出したはずの小刀の刃先が眼前に突き出された。そのまま伸びた腕に二人は絡め取られる。

「逃げられると思ったか」

 八馬やまは廣本の小刀を康史郞の首筋に突きつけると包みを奪い取った。


 カイの後を追ってきたかつらは、たばこ屋の隣の路地に入ろうとしたところで立ちすくんだ。康史郞と学生服姿の子どもが八馬の両腕に掴まれているのだ。八馬の右手には小刀が握られ、左手で新聞紙の包みを掴んでいる。

「康史郞!」

 かつらの声を聞いた康史郞がうつむく。八馬はにやけ顔でかつらに呼びかけた。

「残念だな、あんたの弟はヒロポンの運び屋だ」

「リュウを放せ!」

 カイの言葉にも八馬は動じない。

「おまえらにはこれからも稼いでもらうからな」

 かつらは八馬の言葉を聞くと、肩掛けカバンから財布を取り出した。八馬が哄笑する。

「よせよ、ヒロポンはズックより高いぜ」

 かつらが財布から取り出したのは、金ではなく布袋だ。中から紐に通した緑色の玉を取り出すと、八馬の前に突き出す。

「お金がいるのならこれをあげるから弟たちを放して。本物の翡翠ひすいよ」

 たばこ屋の窓から漏れる明かりに翡翠の帯玉がきらめく。その光に八馬が視線を移したのを康史郞は見逃さなかった。すかさず八馬の左手に噛みつく。

「痛っ!」

 八馬は包みを取り落とした。同時に二人を掴んだ腕が緩む。

「康ちゃん!」

 かつらが康史郞に走り寄ろうとした時だ。勢いに耐えきれず右の下駄の鼻緒が切れた。下駄は勢いよく前に飛び、かつらはそのまま側溝の蓋の上に倒れ込む。その隙を逃さず八馬は康史郞とリュウを捕まえようとする。

「だめっ!」

 かつらは転んだ膝の痛みをこらえ、片膝付きで立ち上がると残った左の下駄を投げつけた。下駄は八馬の喉元に当たる。一瞬ひるんだ八馬だが、すぐに小刀を持ったままかつらに飛びかかってきた。

「姉さん!」

 かつらに降りかかる小刀の刃が途中で止まる。駆け寄った康史郞がかつらの鼻緒の切れた下駄を差し出し、受け止めたのだ。下駄の歯に刺さった小刀はすぐには抜けない。

「交番に行こう」

 八馬の落とした包みを拾い上げたリュウが康史郞に呼びかけた。路地の奥では隆が廣本の肩を押さえつけている。

「姉さんとカイも一緒だ」

 康史郞はそう言うと、路地の外に走り出した。ようやく小刀を引き抜いた八馬は追いかけようと後を追う。

「待て、小僧!」

 八馬が路地の外に飛び出した時だ。たばこ屋の前を進駐軍のジープが勢いよく走ってきた。出会い頭にジープに接触した八馬はよろめき、かつらが転んだ側溝の蓋の上に勢いよく突っ込んだ。蓋は真っ二つに割れ、八馬はそのまま側溝にはまって動けなくなる。

「兄さん、助けてくれたの」

 思わずかつらはつぶやいた。


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