35.康史郞の怒り

 廣本ひろもとに荷物を届けに向かった康史郞こうしろうを見送った後、カイとリュウは転がった木箱を立て直して腰掛けた。

「アニキ、康史郞大丈夫かな」

 リュウは上目遣いでカイに呼びかける。

「ヒロさんがヒロポン打ってなければいいんだけど」

 カイは雑貨店の店頭をちらりと見た。八馬やまが買い物客に応対している。

「俺はヒロポン作りなんてごめんだ。リュウは?」

 カイのささやきにリュウはうなずくと答えた。

「康史郞はヒロさんの亡霊の正体を知ってるって言ってた。ヒロさんが元に戻ってくれるなら康史郞を助けたい」

「よし。リュウはヒロさんの所に行け。俺はあの眼鏡の男に知らせに行く。康史郞の味方ならきっと助けてくれるさ」

 二人は静かに立ち上がると雑貨店の裏から外に出た。


 康史郞はヤミ市を突っ切り、両国駅に向かって歩いていた。たばこ屋を見かけると、隣に路地があるか確認する。数件覗いた後、ようやく隣に路地があるたばこ屋を見つけた康史郞は、包みを握りしめて路地に入っていく。

 路地は木蓋をした側溝が中央に通る狭い道だ。康史郞がどぶの臭いに顔をしかめながら進んでいくと、たばこ屋の建物にもたれるように無精ひげの男が立っていた。

「ヒロさん」

 康史郞の呼びかけに廣本は顔を上げた。目が据わっている。

「ヤマさんからの荷物を持ってきたよ」

 康史郞は包みを後ろ手にして立った。

「渡す前に頼みがあるんだ。ヤマさんがカイとリュウにヒロポンを密造させてヤクザに売ろうとしてる。二人はいやがってるのにヒロポンを打たせてまでやらせようとしてるんだ。お願いだからヤマさんから二人を助けてくれ」

「ヒロポンは子どもが打つもんじゃない」

 廣本は壁から離れると康史郞に近づく。

「ヒロさんの体にも悪いよ。実は俺、亡霊の正体を知ったんだ」

「亡霊」という言葉を聞いた廣本の足が止まる。康史郞は廣本に必死に呼びかけた。

京極きょうごくさんは亡霊じゃないよ。背中に大けがしたけど、アメリカの捕虜になってようやく帰ってきたんだ」

「どうして捕虜になったか聞いたか」

「聞いてない」

 康史郞はきっぱりと答える。

「俺に斬られたからさ。それからずっと、京極は夢にまで出て責め立てる。お陰で俺はヒロポンを打たないと寝られない体になっちまった。早くよこせ」

 廣本はポケットから小刀を取りだす。康史郞は身を強ばらせながらも話し続けた。

「京極さんはヒロさんのこと責めてなかったよ。今のヒロさんには心配してくれるカイとリュウがいるんだ。もう昔のことは忘れてよ」

 カイとリュウの名前を聞いた廣本の顔がゆがんだ。

「勘違いさ。俺があいつらの世話をするのは惨めな自分を少しでも忘れるためだ。俺たちは軍にいいように使われて見捨てられた。物資の横流しでもしなきゃやってられん。そもそも俺たちがアメリカに負けなきゃあいつらも戦災孤児になんかならなかった」

 廣本の話を聞きながら、康史郞の胸にはくすぶっていた怒りがこみ上げてきた。亡くなった兄、羊太郎ようたろうの顔が脳裏に浮かぶ。

「苦しくても、惨めでも、一所懸命に俺たちは生きてきたんだ。去年親父の恩給が止められて貯金もなくなった時は、俺がくず鉄拾いした金でヤミの小麦粉を買ったすいとんしか食べられなかった。亡くなった兄さんたちの布団や靴も売ってお金を作ったんだ。カイやリュウだって、ヤマさんたちの仕事をして必死に生きてる。なのにこれ以上みんなを苦しめないでくれよ」

 二人はにらみ合ったまま動かない。既に日は落ち、闇が辺りを包もうとしていた。


 その頃、京極隆きょうごくたかしは駅前の交番に駆け込んで新田にった刑事と電話で話した後、近くのたばこ屋に入ろうとしていた。そこにボロボロの学生服に戦闘帽姿の子どもが走ってきた。隆を見ると驚いて立ち止まる。

「おじさん、康史郞が大変なんだ。一緒に来て」

 隆はかつらがズック靴を奪われそうになった時の子どもだと気づいた。

「カイか、それともリュウか」

「リュウ」

 リュウはそれだけ言うと路地へ向かった。隆も慌てて後を追う。

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