32.傷跡と告白

 幸い、康史郞こうしろうはかつらより早く帰宅できた。あわてて夕食の準備を始めたところに隣の山本夫妻がやって来た。

「まだ横澤よこざわさんは帰って来てないようですね」

 隼二しゅんじはカバンから封筒に入った先日の地図の写しを取りだした。

「帰ったらお姉さんに渡して下さい。いやあ、まさか金ちゃんが会社に来てくれるとは思いませんでしたよ。これも横澤さんのお陰です」

「お礼と言うほどではないですが、電気パンを作ったんで朝ご飯にでもしてください」

 槙代まきよが差し出したのは当時普及していた手作りのパン焼き器で焼いた四角いパンだ。康史郞は喜んで受け取った。

「ありがとうございます」


「山本のおじさん、すごく喜んでたよ」

 帰宅したかつらは康史郎の話に地図を見ながら目を細めた。ちゃぶ台の皿には2つに割った電気パンが乗っている。

「山本さんがお昼によく食べてるパンね」

「これもらったから夕飯作らなかったんだ、ごめん」

 本当は出かけていたからなのだが、もちろんかつらには内緒である。

「うちもパン焼き器があればお弁当に持って行けるのにな。京極さんなら作ってくれるかな」

「今はとてもそれどころじゃないわ」

 かつらはそう言いながらパンを取った。

「康ちゃんも気をつけてね。怪しい人が来たら戸を開けちゃ駄目よ」

 かつらは康史郞に念押しするとパンを食べ始めた。


 翌日、10月10日は雨だった。1947年に「体育の日」は制定されていないので康史郞は普通に中学に行き、征一せいいちと共に傘を差して帰宅の途についていた。

「明日の午後なんだけど、また一緒に勉強してることにしたいんだ、頼むよ」

 康史郞の頼みを聞いた征一は真顔で尋ねる。

「そろそろ何をしてるか教えてくれてもいいんじゃない。それとも僕にも言えないことなの」

「そういうわけじゃないけどさ、できれば征一は巻き込みたくないんだ」

 康史郞は傘を持つ手を変えながら答えたが、征一はさらに続ける。

「康ちゃんが面白いことしてるのに、僕は何もできないなんてつまらないよ」

「征一らしいや。仕方ないな」

 康史郞は吹き出したいのをこらえつつ答えた。

「姉さんの好きな人に会って話したいことがあってさ。でないとまた家が壊されちまう」

「そういうことなら喜んで協力するよ。探偵漫画みたいでワクワクしてきた」

 征一は傘を小刻みに振りながら歩いて行く。康史郞はその後を付いていきながら思った。

(本当に漫画みたいに悪い奴が探偵に捕まればいいのにな)


 幸い10月11日には雨も止んだ。土曜日なので午後からは自由時間だ。

「午後は学校から帰ってそのまま征一の家で勉強するから、姉さんはお店に行ってて」

 登校前、康史郞はかつらに呼びかけた。

「夕飯は作っとくから、あんまり遅くならないでね」

 かつらの声が優しく響く。康史郞はズック靴を履きながら心でつぶやいた。

(姉さん、もう少しだから)


 康史郞は学校が終わると肩掛けカバンと学生帽を征一に預け、すぐに隆の住む「墨田川館」に向かった。自然と足も速まる。

(京極きょうごくさん、手紙読んでくれたかな。家にいるといいんだけど)

 「墨田川館」の前に立つと、二階の窓に見慣れた顔が見えた。

「京極さん!」

 康史郞は二階に駆け上がると、6号室のドアをノックした。ドアを開くと、作業着姿のたかしが立っている。

「手紙を見たよ。いらっしゃい」

「失礼します」

 康史郞は室内に入った。たばこの臭いがする狭い部屋だ。壁際に布団が畳んであり、反対側の壁には冬用のコートが掛かっている。隆は窓際の文机に背を向けて座った。文机にはたばことマッチ箱、吸い殻が入った灰皿が載っている。

「何も用意できなくてすまないが、私の向かいに座ってくれ」

 康史郞は畳に正座した。隆の体で窓からは康史郞が見えないようにしているのだろう。

「では、手紙では言えなかった事を話してくれないか」

 隆に勧められるまま、康史郞は自分が八馬やまにはめられ、ヒロポンの運び屋をやらされていたこと、カイとリュウが八馬に命じられて家を壊したこと、八馬がヤクザの日下くさかとヒロポンの密造を目論んでいることなどを話した。

「ヤマさんと組んでるヒロさん、いや廣本ひろもとさんは自分たちには優しくしてくれたってカイが言ってた。でも最近は『亡霊を見た』と言ってヒロポンを打ってばかりだって。確かにヒロポンをヤミで売ってたのは悪いけど、ヒロポンをやめさせたら立ち直るかも知れない。ヒロさんには頼れる人がいないカイとリュウを助けてやって欲しいんだ」

 康史郞の訴えを聞いた隆は落ち着かないようだ。たばこをつけようとした手を止め、代わりに口を開いた。

「廣本さんが見た亡霊とは私のことだ」

「京極さん、ヒロさんを知ってるの」

 康史郞は隆ににじり寄る。

「君と銭湯に行った時に見せた背中の傷にまつわる話だ。戦場ではきれい事だけですまないことがたくさんあった。恐らく廣本さんも、私が生きていると思ってなかったんだろう」

 隆は背中を丸め、康史郞の顔をのぞき込んだ。

「お姉さんにはヤマさんとのこと、話してないんだよな」

「姉さんには知り合いだってしか言ってないよ。これ以上心配かけたくなくて。だから京極さんから警察に連絡して欲しいんだ」

 隆は顔を上げると腕を組んだ。

「それでは私が警察に行こう。ただし、解決したら横澤さんには必ず知らせること。警察は君の話も聞きたがるだろうからね」

「分かったよ」

 康史郞は力強くうなずいた。隆が立ち上がる。

「さあ、お姉さんに気づかれる前に帰るんだ」

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