31.康史郞の依頼

 帰宅したかつらを出迎えたのは、布団を敷き終わった康史郞こうしろうだった。

「おかえり姉さん。京極きょうごくさんとは会えたの」

「ええ。京極さんの家の前に寄ってから送ってもらったわ」

 かつらは肩掛けカバンを下ろしてカーディガンを脱きながら答える。

「京極さんの家ってどこなの」

「墨田川の近くの『墨田川館すみだがわかん』って二階建ての建物の6号室よ。遅くなったので中には入らなかったわ」

「ふうん。てっきり一緒に夕飯食べたのかなって思ってたのに」

 康史郞はちゃぶ台の上に乗った新聞紙を持ち上げた。ごはんの入ったおひつと焼いたいわしの干物が乗った皿が現れる。

「明日の朝飯用にとっといたんだ」

「いつもありがとう。弁当箱を洗ってくるわね」

 かつらはカバンから弁当箱を取り出すと台所に向かう。その姿を見ながら、康史郞はかつらが元気を取り戻したことに安堵していた。


 10月9日、木曜日。康史郞は学校から帰ると八馬やまの雑貨店に向かった。裏口をのぞき込むとカイとリュウ、もとい高橋兄妹たかはしきょうだいが柿を食べている。康史郞は二人を手招いた。

「またヤマさんに呼ばれたの」

 リュウの問いに康史郞はかぶりを振った。

「ちょっとカイに頼みたい事があってさ。邪魔が入らないところで話したいんだ」

「それじゃ家に行こう。リュウは残っててくれ」

「うん」

 うなずいたリュウを残し、二人は雑貨店の倉庫になっているバラックへと向かった。カイは康史郞を防空壕跡の住まいへ案内する。

「おじゃまします」

 康史郞はカイがどけたトタンのドアから防空壕の中に入った。新聞紙の上にむしろが敷かれただけの狭い空間だ。その片隅に毛布や食器、風呂敷包みが置かれている。

「ヤマさんが『火事になったら恐いから』ってろうそくは使わせてくれないし、懐中電灯は電池がもったいないからな。だから昼間は店の方にいるんだ」

「そうなのか」

 入口を半分ほどトタンで隠し、二人はむしろの上に座った。カイが尋ねる。

「ところで、頼みって何だ」

京極隆きょうごくたかしさんの家を探して欲しいんだ」

 康史郞はカイに説明した。

「京極さんは姉さんの働くお店の常連で、眼鏡をかけた背の高い男の人。墨田川の近くにある『墨田川館』って二階建ての建物に住んでいるんだ。もちろんお金は払うよ」

 康史郞は財布から10円札を10枚取りだした。

「これってもしかして、こないだの仕事代か」

 カイはむしろの上に置かれた札束を見る。

「どうしても使う気になれなくてさ」

「そういう事なら預かっとこう。もしもの時のへそくりだ」

 カイはお札を風呂敷包みにしまった。

「でも何でその人に会いたいんだ」

「土曜にどうしても会って話したいことがあるから、家に手紙を置いていこうと思ってさ」

「家なら知ってるぞ。前にヤマさんに言われて後をつけたんだ」

 カイの返事に康史郞は驚いた。

「それじゃ案内してくれよ」

「ああ」

 二人が立ち上がろうとしたその時、防空壕の前に歩いてくる人影が見えた。二人はトタンの影に隠れて縮こまる。防空壕の前で立ち止まった人影はそのまま話し始めた。

日下くさかさん、ヒロポンの密造を請け負う代わりに頼みたいことがあるんです。キャバレーの建設予定地の住民が意外に強情で立ち退いてくれないんですよ。実力行使用の人手を貸してくれませんかね」

 八馬の声だと康史郞にはすぐ分かった。低音の男性が答える。

「分かった、上に話しとこう。キャバレーが早くできないとこちらの予定も狂うからな」

 トタンの隙間から茶色いスラックスが見える。彼が日下なのだろう。

「ところで、廣本ひろもとはこの件知ってるのか」

「まだ話してませんが、ヒロポンがもらえるのなら喜んでやりますよ。実際にここで作るのは居候のガキだから、話が外に漏れることもありません」

「頼むぞ。いずれ軍の物資には頼れなくなるからな。それでは中を案内してくれ」

 二人はバラックの入口に向かって歩き出した。

 足音が聞こえなくなると、二人はそっと息を吐いた。カイが小声でつぶやく。

「ヤマさん、俺とリュウにヒロポンを作らせるつもりだったんだ」

「そのヒロポンを運ぶのは俺の役目か」

 康史郞も小声で答える。

「それにこのままじゃ家を壊されちまう。ますます京極さんに会わなくちゃ」

「二人が中にいるうちに抜けだそう」

 カイは立ち上がった。


 「墨田川館」と書かれた二階建ての建物の前に、カイと康史郞は立っていた。

「俺が案内できるのはここまでだ」

「部屋の場所は姉さんから聞いてる。カイは怪しまれないうちに帰った方がいい」

 康史郞はそう言うと二階に上がり、「6号室」と書かれた部屋のドアに四つ折りにした紙を挟んで下りてきた。既にカイの姿はない。

「京極さん、読んでくれるといいけど」

 康史郞は足早に「墨田川館」を離れた。

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