25.悪夢を見た夜

 日は既に暮れ始めている。

(姉さん、疑ってないといいけど)

 横澤よこざわ家に着いた康史郞こうしろうは、学生帽を脱ぐとドアを叩く。心張り棒を外した音がしてドアが開くと、かつらが心配そうに出迎えた。

「遅かったじゃない」

「ごめん」

 康史郞はそれだけ言うと部屋に上がり、学生帽と肩掛けカバンを置いた。

「ちょっと聞きたいことがあるの。雑貨店をやってる八馬やまさんって知ってる?」

 かつらの問いに康史郞は固まった。自分が留守の間に廣本ひろもとと2人でここに来たことは八馬から聞かされていたが、かつらが自分と八馬の関係についてどこまで知っているかは分からない。なにより八馬から口止めされているのだ。

「う、うん。ちょっとね」

 言葉を濁す康史郞にかつらの厳しい声が飛んだ。

「康ちゃん、何か隠してないでしょうね」

「時々くず鉄を買ってもらってたから知ってるだけだよ。姉さんこそどうしたの」

 康史郞はなんとか攻勢に転じようとする。

「昼間にこの土地を売ってくれって来たのよ。もちろん断ったわ。康史郞もあの人と仕事はしないで頂戴」

「分かったよ。でも、なんでこの土地が欲しいのかな」

「ここに進駐軍相手の酒場を作るんですって。私にも働けって言ってきたわ。康ちゃんもいるのに無理に決まってるじゃない」

 かつらはそう言いながら銭湯用具の入った風呂敷を取りだす。

「そういえば、一緒に廣本さんって無精ひげの人が来たんだけど、八馬さんの仲間なの?」

「その人のことはよく知らないな」

 康史郞は正直な感想が言えてホッとした。

「さ、銭湯に行ってスッキリしましょ」

 かつらが風呂敷を持って玄関に降りたので、康史郞もあわてて玄関に向かった。


 夕食も終わり、2人は布団を敷いていた。かつらは寝間着代わりの着古したもんぺ姿、康史郞はランニングシャツの上に寝間着を羽織っているが、学童疎開時のものをずっと着ているので小さい上にかなり痛んでいる。

「そろそろ寒くなってきたから、今年は康ちゃんの新しいセーターを買おうと思ってるの。京極きょうごくさんの都合がついたら3人で上野に行かない?」

 かつらが切り出す。

「上野まで行くの?」

「だって折角衣料切符を溜めても、肝心の品物がないんですもの。上野ならさすがにあるかなって。なくてもヤミ市で古着を売ってるかも知れないし」

 かつらの言うとおり、当時の衣料品はお金と一緒に各家庭に配られた衣料切符(クーポン)を引き替えて入手する仕組みだったが、配給の下着等はまだしも新品の服は手に入れるのが難しく、古着を繕って凌ぐ人がほとんどだった。康史郞が疎開先に持って行った学童服はさすがに大きくなって着られないが、学生服の継ぎ当て等に使われている。

「じゃ京極さんの都合がついたら教えてよ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 かつらの声を聞きながら康史郞は布団に入った。


 明かりは消えたものの、康史郞はなかなか寝付かれなかった。

(ヤマさんは俺との関係をどこまで姉さんに話したんだろう。本当にヤクザに家を壊させるのかな)

 考えるうちにどんどん不安が積もってくる。

(もし、ヤクザにヒロポンを渡したことが警察にばれたら俺も捕まっちまう。姉さんは怒るかな、泣くかな)

 康史郞は不安を無理矢理頭の隅にねじ込むと、まぶたをきつく閉じた。


 気がつくと、康史郞は白い壁に囲まれている。どうやら部屋の中らしい。目の前に鉄パイプのベッドが見える。

『ほら、お前の会いたがってた姉貴だ』

 背後から八馬の声がする。背中を押し出された康史郞はふらふらとベッドに近づく。

『姉さん』

 思わず声が出る。ベッドには青白い顔をしたかつらが横たわっている。

『康ちゃん』

 かつらは消え入りそうな声で康史郞に呼びかける。

『どうしてヒロポン運びなんてしたの。家も壊されたし、女給じよきゅうになって働くしかなかった。京極さんとももう会えないわ』

 かつらはベッドから起き上がろうとするが、右手を差し出すのが精一杯だ。骨が浮き上がった腕が痛々しい。

『ごめんよ。騙されてるなんて知らなかったんだ』

 康史郞はかつらの右手を掴むが、右手はするりと抜ける。

『私はもうすぐみんなの所に行くわ。ひとりでも強く生きて頂戴』

『姉さん、嫌だよ、かないで』

 康史郞はかつらの体にすがりついたが、その体も雪のように消えていく。康史郞の目に涙が溢れ、何も見えなくなる。


 康史郞は目を覚ました。いつもと同じバラックの暗い部屋だが涙でよく見えない。

(良かった、夢か)

 安堵したその時、康史郞の耳にかつらの声が入ってきた。布の向こうなのでよく分からないが寝言なのだろう。

「お母さん、一緒に逃げて」

「どうして来てくれないの」

「ごめんなさい、お母さん」

 かつらの苦しそうな声に康史郞はいたたまれなくなると共に、疑問がわき上がってきた。

(姉さん、『母さんは焼夷弾が当たった火傷で亡くなった』と言ってたのに、嘘だったのか? それとも俺のように悪夢を見てるのか)

 康史郞は悩みながらも眠りに落ちていった。

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