26.たばこの煙

 月曜日、10月6日は朝から小雨がぱらついていた。

 縫製工場の昼食時間、かつらは他の従業員から少し離れた場所で山本槙代やまもとまきよと話し込んでいた。既に弁当箱は空になっている。

「私が帰った後、そんなことがあったんですね」

 槙代はそう言うと水筒のお茶を口につけた。

「まさか康史郞こうしろう君のズック靴を買った時から目をつけられてたなんて。本当に恐ろしいですね」

「たまたま康史郞が留守で良かったです。出くわしていたらどんなことになっていたか」

 かつらも自分の水筒を取りだすと一口飲んだ。そのまま槙代に尋ねる。

「山本さんの家にはあの人たち来なかったんですか」

「ええ。うちの人が寝ていましたから誰もいないと思ったのかもしれません」

「それにしても、あの人の持っていた図面通り、本当に道路が拡張されるのなら、結局私たち立ち退かなくてはいけないのかしら」

 かつらは目下の心配を口にした。槙代はしばらく考えてから答える。

「主人は運送会社に勤めていますから、道路のことは私たちより知っているでしょうし、何かいい案があるかも知れません。帰ったら相談してみましょうか」

「ありがとうございます」

 かつらは頭を下げた。

「私たちも仮住まいですし、早く立ち退きの心配がない家に引っ越したいですね。そうなると横澤よこざわさんたちの近くにはいられなくなるかもしれませんけど」

「山本さんたちには本当にお世話になってますから、引っ越したら寂しいですけど仕方ないですね」

 かつらは弁当箱を肩掛けカバンにしまう。そろそろ昼休みも終わりだ。

「さあ、午後のお仕事も頑張りましょう」

 槙代は立ち上がった。


 工場の仕事を終えたかつらは、いつも通り「まつり」に向かった。幸い雨も上がっている。

(隆さん、今日は来るかしら。昨日のことを話さないと。あの廣本ひろもとさんと隆さんがどういう関係なのか聞くことができれば、家の土地問題を解決するきっかけになるかもしれないし)

 かつらの足取りは自然と速まった。


 時計が七時半を回った頃、京極隆きょうごくたかしが「まつり」にやって来た。いつも通り注文を取ろうとしたかつらに隆が呼びかける。

「灰皿をください」

 かつらは驚いた。隆がたばこを吸うのを見るのは再会後、「まつり」に来たとき以来だったのだ。

「珍しいですね」

「最近また吸い始めたんだ。色々落ち着かなくてね。かけうどんを1つ頼むよ」

 隆はそれだけ言うと、たばこを灰皿に置いた。

 かけうどんを食べると隆はすぐ席を立った。会計に立つかつらに、お金と一緒に封筒を差し出す。

「今日は先に帰らせてくれ。代わりに手紙を書いたから、後で読んで欲しい」

「京極さん、上野で会った人が昨日家に来たんです」

 かつらの訴えるような目を見た隆はうつむいた。

「君を巻き込むことになってしまって済まない。それじゃ」

「京極さん、おつり」

 立ち去ろうとする隆をかつらは追いかけた。

「おつりを受け取ってくれないと困ります」

 隆は困ったような表情で振り返ると、おつりを受け取った。

「私のせいでこれ以上君を苦しませたくないんだ。もう会わない方がいい」

「あの人に何か言われたんですか」

 かつらは廣本の昨日の言葉を思い返していた。

『あの男はここにはもう来ない。あきらめろ』

「それも手紙に書いた。君のせいじゃない。私の覚悟が足りなかったんだ」

「隆さん!」

 かつらは思わず声を上げたが、隆は振り返らず小走りに「まつり」を離れた。かつらは手紙を握りしめ、立ちすくむ。

「どうしたんだい」

 店内から戸祭とまつりの呼ぶ声がしたので、かつらは慌てて店内に戻った。

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