15.上野でランデブー

 9月28日、日曜日。空は晴れ、暑さもだいぶ和らいでいる。朝10時過ぎ、軍服姿のたかし羊太郎ようたろうの服の入ったリュックを持って横澤よこざわ家にやって来た。

「ちょっと早かったかな。映画館が混むといけないから午前中に行こうと思って」

「俺は用事があるから、京極きょうごくさんは姉さんとゆっくり楽しんできてよ」

 康史郞こうしろうは弁当箱を持ってきたかつらを見ながら隆に言う。かつらはいつものブラウスとスカート姿だ。

 かつらは康史郞に弁当箱を渡すと、自分の弁当箱と水筒を肩掛けカバンに入れた。

「チケット代には足りないでしょうけど、京極さんの分もお弁当とお茶を作っておきましたよ」

「わざわざすみません」

 隆は頭を下げる。

「康ちゃん、出かけるときは戸締まり忘れずにね」

 かつらは肩掛けカバンを持つと、下駄を履いてドアを開けた。

「行ってらっしゃい」

 ドアが閉まると、康史郞は軽くため息をついた。正午から八馬やまの仕事が待っているのだ。

「出かける前に食べないとな」

 康史郞はちゃぶ台の上に弁当箱を置いた。


 うまや橋の都電停留所(電停)に着くと、かつらはカバンからがま口を取りだした。中を開き、小さな布袋を取り出す。中には、麻紐を通した緑色の玉が入っていた。かつらはそれをペンダントのように首にかける。

「映画なんて久し振りだから、ちょっとだけおしゃれしようかな、なんてね」

 かつらは照れ隠しをしながらがま口をしまう。隆は玉を見つめると尋ねた。

「ひょっとしてそれ、翡翠ひすいかい」

「よく分かりましたね。母の形見です。康史郞には内緒ですよ」

 かつらは人差し指をくちびるに当てた。

「亡くなった父が母に贈った帯留おびどめ(着物の帯締め用の飾り)だそうで、戦時中も大事に隠し持ってたんです」

「素敵な話だ」

「ええ」

 かつらは母を思いだしたのか言葉少なにうつむく。ちょうどそこに上野広小路へ向かう都電が入ってきた。


 かつらと隆は、混んでいる都電の中でつり革を掴んで揺られていた。

「京極さん、どうして今日は私たちを映画に誘ったんですか」

 かつらの問いに、隆は窓の外を流れていく光景を見ながら答える。

「君に『もっと自分をいたわってほしい』なんて偉そうに言っといて、自分だけ映画を見るのも気が引けて。少しは気晴らしになればと思ったんだ」

「ところで、今日は何の映画を見に行くんですか」

「『安城あんじょう家の舞踏会』。原節子はらせつこが出てるんだ」

「へえ、京極さん、原節子がお好きなんですか」

 かつらは隆の横顔を見るが、いつもと変わらない。

「出征前に見た映画に出てたんだ。相変わらずきれいだな、と懐かしくなって」

「女学校でもブロマイドを持っている学友がいましたわ」

「横澤さんは女学校に通ってたんですか」

 隆の顔がかつらに向けられた。かつらは直視できずに視線をそらす。

「まだあの頃は戦争も激しくなくて。学友と放課後語らったり、図書室で本を借りたり。今となっては遠い昔ね」

「色々ありすぎたんだ。私たちも、この町も」

 隆は窓の外に顔を向けた。かつらの脳裏に、東京大空襲の夜の光景が浮かび上がる。

(京極さんは、この町が炎に包まれた日を見ていない)

 かつらは思わず、胸元の翡翠玉を握りしめた。


 上野広小路に着いた2人は、映画館で『安城家の舞踏会』を見た後、弁当を食べようと上野公園を歩いていた。

「原節子の最後の社交ダンス、悲しいけど優雅で見とれてしまったよ」

「でも映画とはいえ、元華族の方も大変なんですね。この日本に本当に幸せな人なんているのかしら、と思ってしまいます」

 かつらの言葉に、隆は異を唱えた。

「少なくとも私は、今日君と映画を見られて幸せだったよ」

「私もです」

 かつらは自分の胸の動悸が高まるのを感じ、足を速めた。

「ここは混んでますから、もっと奥に行きましょう」


 2人は上野公園の端、不忍池しのばずのいけで弁当を食べることにした。

「まさか、不忍池が田んぼになってるとはね」

 隆は驚きの声を漏らす。かつては蓮の花が咲いていた池が一面の田んぼになっているのだ。

「ここで取れるお米も食糧難を凌ぐのに役立ってるそうですよ」

「みんな知恵を絞ってるんだな。頭が下がるよ」

 かつらは空いているベンチを見つけると隆と並んで座り、弁当箱を広げた。

「子どもの頃、家族でこの池や動物園に行ったのを思い出すな。横澤さんたちも来てたのかい」

 隆に尋ねられ、かつらは田んぼとなった池を見ながら答えた。

「ええ。でも、ここに来ると兄のことを思い出すんです。京極さんは『泥中の蓮でいちゅう はす』ってことわざ、ご存知ですか」

「泥中の蓮?」

「泥の中で咲く蓮の花のように、泥沼のようなこの世の中で清らかに咲く蓮の花になる。兄がそう言ってたんです」

「君のお兄さんは、予科練に行ったと康史郞くんから聞いた。戦後、帰ってきて家を建ててから亡くなられたんだよな」

 隆は康史郞とのやりとりを思いだしていた。かつらはおにぎりを1つ隆に差し出す。

「ええ。でも、兄は戦場に出られず、生き残ったことを悔やんでました。進駐軍やヤミ市がはびこることに憤りをぶつけたくてもできず、自分たちだけは清廉潔白に生きることで抵抗しようとしたんです」

「理想を持った若者だったんだな。いただきます」

 隆はおにぎりを受け取ると食べ始めたが、かつらはさらに話し続ける。

「兄は私たちにも『ヤミの物は買うな』と言い、抗議した康史郞にも耳を貸しませんでしたが、現実には無理な相談でした。空襲で焼け出されてからずっと栄養失調状態の上に、元々体の弱かった勇二郎ゆうじろうが病気になったことでようやく兄も目が覚め、ヤミ市で米と卵を買ってきたんですが、もう手遅れでした」

(康史郞君の隣の少年か)

 隆は横澤家の写真を思いだしていた。おにぎりを食べる手が止まる。

「『勇兄さんが死んだのは羊兄さんのせいだ』と康史郞に責められた兄はそのまま家を飛び出しました。その後、兄はヤミ市で酒を飲んだ後、進駐軍のジープにぶつかり亡くなったんです。あの雨の夜、酔いつぶれた京極さんを見た私は、亡くなった兄もこんな風に酒に溺れることしかできなかったのかと思い、つい後を追ってしまったんです」

「それで私を助けてくれたんだな」

 隆の言葉に、かつらは無言でうなずいた。

「今でも時々思うんです。もしかしたら兄は自分ができなかった特攻をしたかったのではないか、と。最後まで現実に向き合うことができず、死んでいった兄を哀れに思う気持ちと、私たちきょうだいを残して死んでいったことに対する恨み、どちらも未だに私の中にあります。だけど私は生き抜いて、康史郞を一人前に育てたい。それが今の私が生きる意味だと思っています」

「横澤さん」

 隆はかつらに顔を向けると呼びかけた。眼鏡の奥の目がうるんでいる。

「私は君のことが好きだ。また一緒に映画が見たいし、君のことも助けたい」

 かつらも隆に目を合わせた。静かに答える。

「私も、京極さんともっと一緒にいたいです」

「ありがとう」

 隆は微笑むと、残りのおにぎりを食べ始めた。

「食事が済んだら、もう一つ行きたいところがあるんです。つきあってくださいますか」

 隆がうなずくのを見ると、かつらもおにぎりを食べ始めた。

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