13.横澤家の修復
9月20日、土曜日。夜中に総武線を越えた洪水はさらに江戸川区、足立区へ広がっていった。21日深夜、江戸川区の船堀新川で洪水はせき止められ、各地の堤防を切開して水を東京湾に流すことができたため、洪水はひとまず収まった。しかし、洪水で被害を受けた地域及び、決壊した堤防の復旧には更に時間を要するのだった。
一方、
「後で父ちゃんがいなり寿司を作ってくるって言ってました」
「いつもすみません。早めにお茶を用意しなくちゃね」
征一の申し出にかつらは笑顔で答える。今日は動きやすいもんぺ姿だ。
康史郞と征一が脚立を使って屋根に登る。隆が持ってきた油紙を隙間に敷いてからトタンを並べ、重しの石を乗せるという段取りだ。
「
康史郞の呼びかけに答えた隆が下からトタンを渡すため脚立に足をかけた。かつらは横で脚立を支えている。
「落ちないよう気をつけてね」
かつらは康史郞に声をかけながら、
屋根が終わると、康史郞が
「ガラスに窓枠が残ってて助かったよ。この周りに壊れた窓の板を継いでサイズを合わせよう。康史郞君、鉛筆を貸してくれないか」
「鉛筆ですか」
「本当は
隆は上部の板から
「横澤さん、申し訳ないけど作業台として、あの木箱を貸してもらいたいんだ」
隆が指差したのは、位牌と写真が載った木箱だ。
「分かりました」
かつらは上と中の物を床に置くと、木箱を隆に渡した。
「ありがとう、気をつけて取り扱うよ。康史郞君、支え役をやって欲しいんだけどいいかな」
「もちろん」
康史郞は勇んで隆の脇に立つ。
「それじゃ、私は台所でお茶の準備をしてきますから、征一君も一休みしてね」
かつらはそう言い残すと台所に向かう。征一はカバンを肩にかけると立ち上がった。
「じゃ僕、父ちゃんの様子を見てくるよ」
横澤家の室内には作業を続ける隆と康史郞が残った。隆は時折手ぬぐいで額の汗を拭いながら糸鋸を挽いている。
「京極さん、ノコギリうまいね」
康史郞は板を支えながら感心している。
「軍では
「工兵ってことは、京極さんは工業学校出なんだ。すごいな」
「
蔵前の工業高校は、康史郞のクラスでも進路先の1つとして話に上がることがある伝統校だ。
「家からすぐそこじゃないか。校舎が焼けちゃったんで今は仮校舎で授業してるんだってさ。そういえば、京極さんの家ってどの辺だったの」
隆はその質問には答えず、あと少しで挽き切る板に集中している。無事挽き終わると手ぬぐいを取り出しながら答えた。
「
取り付ける板を全部用意すると、次は窓枠に合わせて継ぎ合わせる。隆はポケットから油紙の包みを取りだした。
「板をつなぐための釘を少し買ってきたんだ。代金は私持ちだから気にしないでくれ」
ちょうどそこへドアが開き、かつらの声がかかった。
「お茶とりんごを切ったので、2人とも一休みしましょう」
「姉さん、りんごなんていつ買ってたの」
ちゃぶ台を囲みながら康史郞が尋ねる。
「工場から帰るときにヤミ市に寄ってきたの。山本さんや工場長さんへのお礼分も取ってあるから、私たちは一個だけよ」
「そっか。今回色々お世話になった人がいるからね」
「もちろん京極さんもです。どうぞ」
かつらがりんごの載った皿を差し出す。
「ありがとう、横澤さん」
りんごを食べる隆の顔から、ようやく緊張がとれたようにかつらには見えた。
ようやく全ての作業が終わった頃には、時計は午後四時半を指していた。いなり寿司を持ってきた
「すごいわね。これで雨漏りもなくなるし、窓にガラスがついたし。前よりも住みやすくなったわ」
かつらは新しい窓のガラスをなでている。
「京極さんは工業高校を出て工兵をしていたから、こういうのは得意なんだって」
自慢げに言う康史郞。
「私は機械科だったから、大工仕事を本格的にやったのは捕虜になってからだけどな」
隆はいなり寿司を手に取る。かつらは隆と交わした話を思いだした。
「そういえば、京極さんは南方で戦ってた、と」
「昭和19年に米軍の捕虜になり、収容所へ送られたんだ。今年の春に解放されてようやく日本へ帰れたが、
「長い間、大変だったんですね」
かつらは初めて聞く隆の過去に驚きつつも、ねぎらいの言葉をかけることしかできなかった。
「他に行く当てもなかった私は、高校時代に馴染みがあった両国に足を運んだ。そして雨宿りに入った『まつり』で酒を飲み過ぎて横澤さんに介抱されたんだ」
(それじゃあの傷は、戦場で捕虜になったときにできたのかな)
康史郞は銭湯で見た隆の傷跡に思いをはせていた。
食事を終え、かつらは隆を見送るために厩橋まで一緒に歩いていた。
「今日は本当にありがとうございました」
「家がまた壊されないかが心配だ。何かあったら『まつり』の親父さんに早めに言った方がいい」
「ええ」
「ところで、借りた服のことなんだけど、来週の日曜日、返しに行っても良いかな」
「銭湯に夕方行くまでは家にいますから、大丈夫ですよ」
その返事を聞くと、隆はかつらに顔を向けた。
「実は、映画館で予告編を見て、気になっていた映画が来週公開されるんだ。それに横澤さんと康史郞君を誘いたい」
「本当ですか」
かつらは思わず声を上げた。
「もちろん、チケット代は私が持つ。給料日まで節約しなくちゃいけないから、来週は『まつり』に行くのも控えるつもりだ」
「あ、あの、嬉しいです。よろしくお願いします」
かつらは降ってわいたような申し出に気持ちがうまく言葉に出せなかった。
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