12.八馬の誘い

 9月19日、金曜日。洪水は夜中に決壊した桜堤を超えて都内に流れ込み、戸祭とまつりの心配通り葛飾区の金町浄水場を飲み込んだ。政府は別の浄水場からの水源に切り替えて対応し、ひとまずかつらたちの住む地域の水道は確保された。だが洪水の勢いは止まらず、さらに総武線の線路へと迫っていた。


 中学校から戻ってきた康史郞こうしろうは、学用品の入った肩掛けカバンを置くと、昨日壊された窓代わりの板を抱えてまた出かけていった。だが、八馬やま横澤よこざわ家の見張りを言いつけられたカイとリュウがその姿を見ていたのだ。カイは見張りにリュウを残すと、自分はそのまま後をつけた。

 康史郞が向かったのは、いつもくず鉄を買ってもらっている廃品業者の店だった。カイは康史郞が中に入っていったのを見ると、八馬に報告するため雑貨屋に向かった。

「読み通りだ。後は姉貴が帰ってくるまで見張ってろ」

 八馬はカイに命じると廃材の乗ったリアカーをひいて廃品業者の店に向かった。


 康史郞は窓の代わりにする板を探すため廃材の山をあさっていたが、大きすぎたり小さすぎたりとなかなかぴったり合う板が見つからない。その時、背後から声がかかった。

「日曜でもないのに珍しいな」

「ヤマさん!」

 驚いて振り向いた康史郞に八馬が尋ねる。

「何を探してるんだ」

「家の窓が壊れたんで、代わりになる板を」

「そうか、俺もちょうど廃材を持ってきたんだが、見てみるか」

 八馬はリアカーに乗った廃材を見せた。目を輝かせる康史郞。

「すごいや、ガラス窓がある」

「壊れたドアから取りだしたんだ。ちょっと小さすぎるか」

「いや、これくらいなら周りの板を合わせるよ」

 康史郞は早速ガラスに板を合わせている。それを見ながら八馬は呼びかけた。

「良かったら持ってくか」

「うれしいけど、タダじゃないよね」

 康史郞はズボンのポケットにある財布を気にしている。

「タダでいいぞ。その代わり、今度俺の仕事を少し手伝ってくれ」

「ありがとう。それくらいなら喜んで引きうけるよ」

 康史郞はリアカーからガラス窓と、補強になりそうな板きれを数枚取りだした。その足下を見ながら八馬は康史郞に話しかける。

「そういえば、今日はあのズックじゃないんだな」

「ちょっと洗濯してるだけだよ」

 康史郞は思わず見栄を張った。八馬は話し続ける。

「お前と姉貴だけで窓を直すのか。大変だろ。俺が手伝ってやろうか」

「手伝ってくれる人がいるから大丈夫。それじゃ」

 走り去ろうとする康史郞に八馬は呼びかけた。

「仕事の話はまた今度な」

 康史郞を見送ると、八馬は不機嫌な表情をした。

(手伝いする男手がもういるってことか。当てが少し外れたが、あの坊主を引き込めればこっちのもんだ)


 横澤家に戻る途中、うまや橋にさしかかった康史郞の目の前を横切ったものがあった。脚立を前後に抱えたかつらと山本槙代やまもとまきよだ。かつらが話しかける。

「康ちゃんお帰り。工場で使ってる脚立を借りることができたんで、山本さんに手伝ってもらって運んでるの」

「うちの人が工具箱を持ってるから、帰ったらお貸ししますね」

 槙代も軽く頭を下げて通り過ぎていく。

「すごいや。これなら日曜に間に合うぞ」

 康史郞の足取りも軽くなった。


 帰宅すると、槙代は早速工具箱を持ってきた。

「この洪水でうちの人もたくさんの取引先が被害に遭って、対応で大わらわみたいですよ。今日は帰れるか分からないって言ってました」

 槙代の夫、山本隼二やまもとしゅんじは運送会社で働いている。2人には子どもがなく、横澤家の姉弟を折に触れ気にかけてくれる。かつらにとっては心強い隣人だった。

 槙代とかつらが玄関先で話し込んでいる間、康史郞は持ってきたガラスをどう窓に当てるか思案していた。その時、かつらが声を上げる。

京極きょうごくさん、どうしたんですか」

 康史郞が玄関を見ると、カバンを持ったたかしが立っていた。服は昨日貸した羊太郎の軍服ではなく、七分袖に近い開衿の軍服だ。防暑衣ぼうしょいというタイプなのだろう。


「いよいよ工場にも洪水が来るし、このままでは総武線も動かなくなるんで、今日は早じまいだ。土曜は休みになったから、準備ができてるなら午後から康史郞君と家を直したいんだけど、どうかな」

 かつらは隆が初めて「まつり」に来た夜を思いだした。この軍服を着て酒を飲んでいたのだ。

「ありがとうございます。脚立と工具箱は借りられたので、康史郞が大丈夫なら」

「窓の代わりもいいのを見つけたし、今からでもやろうよ」

 康史郞は早速窓ガラスを見せるが、かつらが突っ込んだ。

「宿題はしなくていいの? 」

「たまに家にいるとすぐこれだから」

 康史郞のぼやきに隆は微笑した。

「昨日横澤さんに借りた服も洗濯しなくてはいけないし、今日はこの辺で。それじゃ、明日14時にまた来るよ」

「すみません、洗濯まで気を遣っていただいて」

 恐縮するかつらを残し、隆は厩橋を渡っていった。


「姉貴が脚立を運んできて、眼鏡の男が尋ねてきたんだな」

 雑貨屋の裏手で見張りから帰ってきたカイとリュウの報告を聞くと、八馬は廣本ひろもとに話しかけた。

「男と姉貴の関係が気になるが、早めに坊主に仕事を頼みに行くか。まだ警察サツの目がついてないから、うまく使えば大もうけできるぞ」

「いままでこいつらがやってたヒロポンの運び屋か。かまわんが、俺の分は別に取っといてくれよ」

 廣本はシャツの左袖口に右手をやると、注射を打つ仕草をした。

「最近打つ量が増えてないか。やり過ぎは毒だぞ。ヒロポン中毒だけは勘弁してくれ」

 八馬は体の心配というより、仕事の支障になることを気にしているようだった。

「そうは言うけどな、夜眠れないときにはこれが一番なんだ。お前らももう帰れ」

 廣本はズボンのポケットから10円札を取り出すと、カイに渡した。

「ヒロさん、ありがとう」

 リュウが頭を下げるが、カイはそそくさと外へ出ていった。

「俺たちは10円であいつらをこき使ってるのに、また下っ端をふやすのか」

 廣本は椅子代わりの木箱に腰掛けるとつぶやく。

「あいつらにはいずれ新しい仕事をあてがってやるさ」

 八馬はそう言うと、懐から取りだした札束を数えだした。

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