11.招かれた客
「
隆は頭に乗せた手ぬぐいで眼鏡の曇りを拭きながら答えた。
「
「姉さんが俺のことを」
康史郞は知らないところで自分の話がされていたのが面映ゆかった。
「君が家のことを色々してくれるから、安心して働けると褒めてたよ。もうちょっと勉強もして欲しいって言ってるけど」
「俺は昔から勉強は苦手なんだ。いつも兄貴たちに宿題を教わってた」
康史郞は浴槽に肩を沈めた。隆はそのまま話し続ける。
「私にも弟がいた。東京大空襲の夜、両親と一緒に行方不明になったままだ」
隆は手ぬぐいを目に当てた。手に持った眼鏡が震えている。康史郞には隆が涙をこらえているように見えた。
「もしかして、京極さんはその弟さんを思い出したから」
「横澤さんには、私のようにひとりぼっちになって欲しくはなかった。いつも元気を分けてもらってたからね」
隆は眼鏡をかけると、康史郞を見た。
「お姉さんが待ってるといけないし、そろそろ出ようか」
3人が横澤家に戻ると、家の前で
「良かった、無事見つかったんだな」
「ご迷惑かけて本当にすみません。ほら、康史郞も」
かつらは康史郞の背中を押す。そのまま康史郞は頭を下げた。
「
戸祭は鍋の蓋を開けた。味噌汁にごはんやネギを入れたおじやが入っている。
「ありがとうございます。それじゃ、鍋持ってきますね」
かつらは台所から鍋とお玉を持ってきた。
「ラジオによると、とうとう洪水が堤を越したらしい。明日は休みだな。兄さんも気をつけて出勤しなよ」
戸祭は空になった鍋を持って帰っていった。かつらは改めて声をかける。
「それじゃ、京極さんも一緒に夕ご飯にしましょう」
横澤家にあがると、隆は家族写真に一礼した。かつらはそのまま鍋をちゃぶ台に置く。
「支度しますんで少々お待ち下さい」
かつらが台所に食器を取りに戻った間に、康史郞は家族写真を持ってきた。
「これが姉さんで、一番小さいのが俺。中央が長男の
「紹介ありがとう。私の弟の名前は
「そうなんだ」
そのまま2人は黙り込む。2人の間に流れた奇妙な沈黙を破ったのは、戻ってきたかつらだった。
「お客さんなんて久し振りだから、あり合わせの食器でごめんなさい」
「そうだ、宿題がまだだった」
夕食後、今さらながら気づいた康史郞はあわてふためく。
「私で良かったら見ようか」
隆の申し出をかつらは丁寧に断った。
「これ以上京極さんに迷惑はかけられません。私が見ますから」
「そうですか。それではこの辺で失礼します」
隆はカバンを持って立ち上がった。
「では
「いつもと逆だね」
隆は笑顔でかつらに言うと玄関に向かった。
厩橋へと向かいながら、かつらは隆に話しかけた。
「今日は本当にありがとうございました。正直、弟が京極さんを見て何て言うか心配だったんです。あの子も兄を亡くしてますから」
「康史郞君は、お兄さんたちに随分かわいがられていたんだな。私も、久し振りに弟に会えたような気がして嬉しかったよ」
「京極さんの弟さん、ですか」
かつらの足が止まる。
「私の両親も、弟の靖も東京大空襲の時から行方不明なんだ。今でも、上野辺りで戦災孤児らしき少年を見かけるとつい顔を見てしまう。靖はもっと大きくなってるはずなのにな」
隆の言葉に心を動かされたかつらは、重い口を開いた。
「戦争が終わってすぐは、ああいう子がもっとたくさんいました。施設に入った子もいたようですけど、寒さと飢えでどんどん地下道で亡くなっていって。康史郞をあんな目には遭わせたくない。そう思って必死で働いてきたんです」
「君は本当に立派な姉さんだ。だからこそもっと自分をいたわってほしいんだ。私が言えた義理じゃないけどな」
かつらは隆の言葉を胸の奥にしまい込んだ。
「それじゃ、また日曜」
隆は厩橋の手前で挨拶すると、手を振って渡り始める。
「おやすみなさい」
かつらは胸が一杯でそれだけ言うのがやっとだった。
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