10.銭湯で見たもの
濡れ鼠の3人がようやく落ち着きを取り戻した時には、空に星が光りはじめていた。
「あの橋の下にズックらしき物が引っかかってたから、釣り上げようと思って近づいてたんだ」
「
かつらは
「姉さん、本当にごめん」
かつらは康史郞の頭をなでると努めて明るく呼びかけた。
「とりあえず、家に戻って着替えてから銭湯に行きましょう。
「だけど、着替えが」
水滴のついた眼鏡を手で拭いている
「亡くなった兄の服で良かったら、お貸しします」
康史郞は思わず隆の顔を見た。25歳くらいだろうか。優しそうな目をしている。改めてかつらは紹介する。
「この人は京極隆さん、お店の常連さんよ」
「初めまして。お姉さんにはいつもお世話になってます」
眼鏡をかけ直すと、隆は頭を下げた。
墨田川の脇を厩橋に向かって歩きながら、康史郞は
「とりあえずトタンは壊れた窓の所に立てかけといたけど、屋根に戻すにははしごを借りないとダメかもしれないよ」
「そういえば、あの屋根は下から兄さんが持ち上げたトタンを康史郞と
かつらの疑問に康史郞が答えた。
「たぶん今回は壊した窓からよじ登ったんだろうな」
「
「何か心当たりは」
しんがりを歩く隆が尋ねる。
「しばらく前、道路ができるからこの家の土地を買いたいって男の人が来たの。それと関係があるのかも」
「だからって家を壊すことはないじゃないか」
隆は嘆息する。
「住めなくなったら私たちが出ていくと思ったのかもしれません。でも他に頼れるところはないし、家族で苦労して作った家を手放す気にはなれませんから」
かつらは自分に言い聞かせるように言った。
3人は横澤家へ到着した。康史郞の言ったとおり、壁にトタンが立てかけてある。
「ちょっとここで待ってて下さいね、着替えを持ってきますから」
ドアを開けたかつらは隆に声をかけると部屋に上がった。
「俺、あっちで着替えてくるよ」
康史郞は着替えを取り出すと台所に向かった。かつらは洗濯ひもに掛かったもんぺを大慌てで取り込み、
玄関で待つ隆は穴の空いた天井を見ると、カバンから油紙を取りだした。
(さすがにあの穴はふさげないか)
油紙を床に置こうとした隆の視界に、壁際の木箱に立てかけられた横澤家の家族写真が飛び込んだ。
(あの女学生が横澤さんだとすると、中央の青年がお兄さんか。4人きょうだいだったんだな)
実際は5人きょうだいなのだが、写真を見ただけでは分からない。その時、もんぺに着替えたかつらがカーキ色の大きなリュックと、入浴用品が入った風呂敷包みを持って戻ってきた。着替えてきた康史郞に呼びかける。
「康ちゃん、京極さんの着替えと手ぬぐいが入ってるから預かってね」
銭湯へ向かう最中、かつらは隆に話しかけた。
「帰ったら夕ご飯にしますので、良かったら京極さんも食べてって下さい」
「いいのかい」
「油紙と康史郞を助けてもらったお礼です。といってもかぼちゃの煮付けですけど」
隆はかつらに会釈した。
「ところで、日曜で良かったら家を直すのを手伝おうか」
「本当ですか」
今度はかつらが喜びの声を上げる。
「それじゃ、はしごと窓用の板、
「板は明日くず屋に行って探してくるよ」
康史郞も元気を取り戻したようだ。ランニングシャツに学生服の上着を引っかけ、羊太郎の軍服ズボン、裸足に古いズック靴を履いている。
「後は洪水がどうなるかだな。もし水が工場に来たら仕事どころじゃないし」
隆は明日の仕事が気になるようだ。
「京極さんの働く印刷工場って、どこなんですか」
「
「作業服、濡らしてしまってすみません。日曜までに洗濯しておきますね」
謝るかつらに隆は答えた。
「大丈夫。私が帰ってから洗うよ」
銭湯は洪水で水道が止まるのを恐れた人のせいか、普段より混んでいる。男湯の脱衣場で、康史郞はリュックから羊太郎の軍服とネルの
「夏用のスボンは俺が使ってるから、冬服を貸すみたい」
康史郞はそう言いながら脱衣かごを2つ置いた。1つは自分、1つは隆の分だ。
「私は南方にいたから、
「志願して
隆は何事か考えていたらしく、ややあって一言答えた。
「そうか」
隆はそのまま自分の服を脱ぐと、手ぬぐいを持って浴場に向かう。その背中を見た康史郞は驚いた。肩甲骨の辺りに赤く盛り上がった傷跡が見えたのだ。銭湯に来れば、傷跡や入れ墨持ちの客が普通に居合わせるので、それ自体は驚きではなかった。
(戦場での傷かな。あの優しそうな人も、南方で戦ってたんだ)
康史郞には、優しい目の隆が戦場にいるところが想像できなかった。
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