9.康史郞を捜して
時計は17時半を回っていた。日もかなり落ち始めている。「まつり」も洪水の話で持ちきりだった。
「もし堤が壊れたら、下流の浄水場に洪水が押し寄せる。そしたらこの辺の水道は全滅だ。明日は休むしかないな」
「洪水はこっちにもくるんでしょうか」
かつらは心配げに尋ねる。
「距離もあるし、間に墨田川もあるから大丈夫だと思うがな」
戸祭が答えたその時、
「
かつらはお茶を出しながら話しかける。
「私の仕事場にも洪水がくるかもしれないっていうんで、今日は一日防水対策をしてたんだ。ついでにこの間言ってた油紙を少し持ってきたよ」
「ありがとうございます。今日の食事代は私が持ちますよ」
「すまないな」
「でも、あまり高い物を頼まないでくださいね」
かつらは小声で付け加えた。
隆がメニューを見始めた時、店内に学生服の少年が駆け込んできた。
「
「おい、裏に回れ」
戸祭が声を荒げたので、征一は店の裏に回った。
「失礼します」
かつらは慌てて裏に下がる。隆もベンチから立ち上がった。
征一に
「ごめんなさい。今日は帰らせて下さい」
「仕方ないな。洪水のこともあるし、今日は早じまいするか。征一は残ってかつらさんの代わりをやってくれ」
「分かったよ、父ちゃん」
「ここでは『おやじ』と言え」
苦虫をかみつぶしたような顔をする戸祭に一礼すると、かつらは肩掛けカバンをかけて店を出た。
表通りに回ろうとすると、カバンを持った隆が立っている。
「横澤さん、私に手伝えることはないですか」
かつらは一瞬ためらったが、隆の真剣な眼差しに押されるように答えた。
「弟が墨田川に流されたズックを探しに行ったんです。早く見つけないと」
「それなら
「はい」
二人は蔵前橋に向かって走り出した。
「弟さんの特徴は」
隆の問いに橋を早足で歩きながらかつらは答えた。
「学生服を着て、釣り竿を持ってったそうです」
「では厩橋へさかのぼりつつ探しますか」
「ええ。それにしても、どうしてこんなことに」
かつらは押し寄せる不安を振り払うようにつぶやいた。
蔵前橋を降りたかつらは、康史郞がいないかと橋の近辺を見回した。既にかなり暗くなっており見通しがきかない。その時、隆が声を上げた。
「あそこに釣り竿が!」
隆の指先は蔵前橋を支えるアーチを差していた。そこから釣り竿が出ている。
「康ちゃーん!」
かつらは両手をメガホンの形にして呼ばわった。その声に反応したのか、釣り竿が大きく揺れる。次の瞬間、墨田川に水煙が上がった。
「康ちゃん!」
かつらは思わず口元を手で覆う。次の瞬間、カバンがかつらの足下に転がった。隆が川の中に入ったのだ。
隆は康史郞と一緒に水に落ちた釣り竿を掴むと、康史郞を引っ張り上げようとしたが、隆自身も腰まで水に入っている上、川の流れもありかなり苦戦している。かつらは我に返ると自分の肩掛けカバンを投げ捨て、下駄を脱ぐと川に入った。そのまま隆の持つ釣り竿を支える。
「康ちゃん! こっちよ!」
時間にすれば数分の出来事だったが、かつらには何時間も経ったように感じた。二人は釣り竿を掴んだ康史郞をなんとか引き寄せることができた。康史郞はそのまま川岸に倒れ込む。水を飲んでいるが、幸い意識に別状はないようだ。隆は四つん這いになり肩で息をしている。
「康ちゃん!」
かつらは倒れた康史郞の傍らに膝をつき、そのまま抱きしめた。
「ズックなんかどうでもいい。もう私には、あなたしかいないのよ」
総武線の列車が鉄橋を渡る音が、暗い水面に響き渡っていった。
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