5.康史郞の秘密

 うまや橋のそばから墨田川沿いを歩く康史郞こうしろうは、小船が係留してある桟橋近くの草むらで立ち止まった。釣り針を川に投げ入れると瓦礫のコンクリートに腰掛ける。30分ほどすると、フナやザリガニがときたまかかるがバケツには入れず放流する。釣りを始めた頃に釣果を意気揚々と持って帰り、夕食にしようとしたら臭いがとてもひどく挫折したのだ。「寄生虫がいたらどうするの」とかつらにも叱られた。それでも康史郞が釣りをするのには理由があった。


「康ちゃーん」

 康史郞は自分を呼ぶ声に振り返った。本を持った半袖シャツの学生服姿の少年がゆっくり歩いてくる。かつらが働く「まつり」店主の息子、戸祭征一とまつりせいいちである。

征一せいいち、もう中2なんだから、大声で『康ちゃん』はよせよ」

 恥ずかしそうに言う康史郞に、征一はあっけらかんと答えた。

「お姉さんにはそう呼ばれてるじゃない」

「姉さんは特別だって。それより何持ってきたんだ」

 征一は待ってましたとばかりに本を差し出した。表紙には『新寶島しんたからじま』と書かれている。

「この漫画すごく面白いって評判で、ようやく貸本屋で借りられたんだ。家で読むとばあちゃんが怒るし、今日中に読んで返さないと」

「お前、本当に漫画好きだな」

 康史郞はバケツを持つと立ち上がる。

「俺はくず鉄拾いに行ってくるから、しばらく釣り竿を見ててくれ」

「うん、わかった」

 征一は康史郞のいた場所に腰掛けると、釣り竿には目もくれず早速『新寶島』を読み始めた。


 康史郞が釣りに行くのはこのくず鉄拾いも兼ねていた。敗戦直後よりは稼ぎは減ったが、ゴミ捨て場や墨田川沿いの草むらをのぞきに行き金になりそうなものを集めているのだ。稼いだ金は鉛筆やノートなどの学用品や、昼飯だけでは腹が持たない時の食べもの代になっている。

 康史郞は一時間ほど歩き回り、空き瓶や壊れた一斗缶、折れた釘などを見つけるとバケツに入れていった。弁当を食べたら廃品業者に売りに行き、銭湯の時間までに戻るつもりだ。厩橋のそばにさしかかった時、康史郞を呼び止める声がした。

「おお、坊主じゃないか」

 アロハシャツにベージュのスボン姿の男性が手招いている。その顔に康史郞は見覚えがあった。昔、廃品の買い取りで世話になったのだ。

「ヤマさん!」

「久し振りだな、まだくず鉄拾いやってんのか」

 八馬やまは康史郞のバケツと新品のズック靴を見た。

「ま、とりあえず話そうや」

 八馬は橋の欄干に寄りかかった。


 厩橋の上では、欄干に寄りかかった八馬と康史郞が話し込んでいた。橋を都電が時折渡っていく。

「へえ。ヤマさんは今雑貨屋をやってるんだ」

「軍の放出物資を売るツテを手に入れたんでな。そういえば、一緒にくず鉄売りに来てた兄貴は元気にしてるか」

 八馬の言葉に康史郞の顔がこわばる。次男の勇二郎ゆうじろうは元々体が弱く、栄養失調も重なって病死したのだ。

「兄貴はあれからすぐ病気で亡くなった。今は姉貴と二人暮らしなんだ」

「そりゃ悪かった。でも、ズックを買うくらいの金はあるんだろ」

 康史郞は足下に目を落とした。

「無理して買ったんだよ。だから姉貴は朝から晩まで働いてるし、俺だってずっとくず鉄拾いしてるんだ」

 康史郞の愚痴を聞き流すと、八馬は不意にズック靴を指さした。

「サイズを当ててやろう。十文半ともんはんだ」

「すごい、よく分かったね」

 感心する康史郞に、八馬はうなずくと立ち上がった。

「人待ちをしてるからそろそろ行かないとな。坊主はこの辺に住んでるのか」

「坊主じゃなくて、横澤康史郞よこざわこうしろうだよ。家は大通りから一本入った所だ」

「そうか。また機会があったらよろしく頼むよ」

 右手を軽く振ると、八馬は厩橋のたもとに戻っていく。我に返った康史郞もバケツを持って走り出した。

「まずい、早く征一の所に戻らないと」


 厩橋のたもとに佇む八馬の所に、廣本ひろもとが歩いてきた。

「首尾はどうだ」

 尋ねる八馬に、廣本はかぶりを振った。

「なかなか強情な住民が多くて時間がかかりそうだ」

「住民の中に、三つ編みの若い女はいなかったか」

「いたな、『父の代から住んでます』と言われたよ。ま、親父はもう死んでるらしいがな」

「なるほど」

 八馬は先ほどまでいた欄干を振り返った。既に康史郞の姿はない。

「野暮ったいが、磨けば光りそうな娘だった。候補に入れとくか」

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