4.日曜の来訪者

 7月6日。日曜日の朝も早く起きたかつらは、敷き布団を外の洗濯竿に干すと、外の台所で食事の支度を始めた。康史郞こうしろうはまだ寝ている。鍋に入れた玄米や麦を吸水している間に七輪でお湯を沸かしお茶の準備をする。これで朝昼晩の食事をまかなうのだ。朝はお茶漬けにし、昼と夜はおにぎりを作っておく。銭湯の帰りに野菜や干物を買ってきて夕食と翌朝のおかずにするのがならわしだ。

 平日の朝は時間がないので、二人の弁当も兼ねてサツマイモを数本蒸しておく。かつらは昼間は墨田川対岸の縫製工場で働き、終業後「まつり」に直行するので、中学校から帰った康史郞が配給を受け取ったり簡単な夕食を作ったりしている。終戦前後の栄養失調状態の日々に比べれば、これでも落ち着いてきた方である。

 七輪にかけたごはんが炊きあがったので、かつらはバラックに鍋を運び込んだ。ごはんの臭いにつられたのか、康史郞が起き上がる。

「おはよう康ちゃん。梅干し出しといて」

 かつらの声に応えた康史郞は布団を畳むと仏壇代わりの木箱に向かった。この下部に梅干しやぬか漬けなど、日持ちするおかずが入った陶器の壺が置いてあるのだ。木箱の前に座ると、康史郞は中央に立てかけられたキャビネ版(16.5×12cm)のモノクロ写真に無言で手を合わせた。

(みんな、おはよう)

 康史郞が疎開する際に持参した横澤よこざわ家の家族写真だ。中央には軍服を着た長男の羊太郎ようたろう。右隣に着物姿で座るのは母親の梅子うめこ。胸の前に陸軍将校の父、晴信はるのぶの写真を抱えている。羊太郎の左隣、セーラー服の上衣ともんぺ姿で立っているのが女学生のかつら、梅子の横に二人の学童服姿の男の子が立っている。年上が次男の勇二郎ゆうじろう、年下が四男の康史郞だ。

 本当は七人家族だが勇二郎の双子の弟、早三郎そうざぶろうは生まれてすぐ亡くなったためここにはいない。昭和20年の冬までに他の家族も相次いで亡くなり、かつらと康史郞のみが生き残ったのだ。この写真は、二人の暮らしをずっと見守ってきたお守りのようなものだった。朝の挨拶を終えると、康史郞は梅干しの壺を取りだした。


 朝食が終わると、かつらは外出用のもんぺに着替えて言った。

「洗濯始めるから、康ちゃんは私の布団を取り込んで自分のを干してちょうだい」

 康史郞は布団を干すと、大きめのズボンを履いた。余った裾をたくし上げ、ぶかぶかのウエストを腰に入った紐で締め上げる。亡くなった兄、羊太郎の残した軍服だ。自分の学生服は勇二郎のお下がりでかなり痛んでいるため、休みの日はランニングシャツとこのズボンで過ごしている。

「俺、銭湯の時間まで釣りに行ってるから」

「わかったわ」

 日曜日の釣りは康史郞のお決まりの行動なのでかつらも手慣れたものだ。学校へ持っていく水筒にお茶を入れ、アルマイトの弁当箱におにぎりを詰める。

「じゃ、行ってくるよ」

 新しいズック靴を履き、釣り竿とトタン製のバケツを持った康史郞が出ていくと、かつらは写真の前に座ってつぶやいた。

「ズック、もう履いてっちゃった。やっぱり嬉しかったのね」

 かつらは木箱の横に置いてある学生服の半袖シャツを取りあげた。洗濯しないと着替えはないのだ。

(私の夏のシャツも一枚欲しいけど、先に康史郞に作ってあげないと。そのためにも倹約しなきゃ)

 かつらは立ち上がった。


 洗濯を終え、康史郞の布団を取り込もうとしたかつらがバラックのドアを開けた時だった。カーキ色のシャツに作業スボン姿の男性が立っていたのだ。無精ひげを生やしている。

「これは失敬。この家の奥様、いやお嬢様ですか」

 男性の言葉にかつらはかぶりを振った。

「私は結婚してませんよ。弟と二人暮らしです」

「それはそれは。若いのにご立派ですな」

「それより、ご用は何ですか」

 かつらは男に警戒心を抱きつつ尋ねる。

「私は不動産を商ってる廣本ひろもとと言います。実は、陸運局でこの辺りの道路を拡張するって話が出てましてね。聞けばこの辺りは元々空き地で、違法バラックだらけだとのこと。ならばいきなり立ち退きさせられる前に、我々が買い上げたいと思って伺ったんですよ」

 かつらは廣本をまじまじと見つめると答えた。

「うちは父の代からここに住んでます。断じて違法バラックではありません。帰って下さい」

「分かりました。今日はこれで」

 廣本は頭を下げるときびすを返した。うまや橋の方向に帰って行く廣本を見送りながら、かつらは廣本の言葉を考えていた。

(この土地を売ったって、私たちに行く場所なんてない。絶対守り抜かなくちゃ)

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