3.横澤家の姉弟

 「まつり」の閉店時間は夜8時だが、かつらは客のラストオーダーをとってから7時45分頃店を上がる。家で待っている弟の康史郞こうしろうのために早く帰りたいという理由だ。店を出る前には夕飯として味噌汁に薬味のネギを入れて飲む。時には戸祭とまつりが余ったおかずを出してくれるのが嬉しかった。

「それじゃ、また月曜にな」

 厨房から声をかける戸祭に見送られ、かつらは外に出た。手にはズック靴の包みをしっかり抱えている。


 まだ賑やかなヤミ市を抜けると景色は一変し、バラックが建ち並ぶ焼け跡が広がっている。東京大空襲でこの一帯は焼け野原になり、数え切れない死傷者と焼け出された被災者が出たのだ。

 明かりも少ないのでかつらは足早に進み、墨田川にかかる三連のアーチ橋、うまや橋を渡る。横澤よこざわ家はこの橋から続く大通りから一本入った路地にあった。家と言っても焼け残りの木材やトタンで作ったバラックである。建築当時と変わったのは雨戸を再利用したドアと電気を引き込んだくらいだ。かつらはドアを叩くと声をかける。

「ただいま」

 中から走り寄る足音がしてドアが開くと、少し伸びかけた坊主頭にランニングシャツ、猿股(現代で言えばトランクス)姿の少年が出迎えた。中学2年生の弟、康史郞である。

「おかえり姉さん。……それお土産?」

 興味津々の康史郞にかつらは包みを渡した。早速新聞紙を開くと、新品のズック靴が現れる。

「なんだ、食べ物じゃないんだ」

 てっきり喜ぶと思っていたかつらは拍子抜けした。

「康ちゃんのズック、底がすり減ってたし、かかとも潰して履いてたから、ヤミ市で1つ上の十文半ともんはんを買ってきたのよ」

「まだ大丈夫だって」

 そう言いながらも康史郞は早速ズック靴を履き、板張りの床を歩き回っている。

「ちょうどいいや。明後日あさってから学校にはこれで行くよ」

 かつらはちゃぶ台の上に置かれた目覚まし時計に目をやった。8時半を回っている。

「康ちゃん、夕飯は食べたの」

「昼の残りのふかし芋だけど」

「良かった。じゃ着替えてくるわね」

 かつらは下駄を脱ぐと床に上がった。室内の広さは8畳ほどだ。むしろが敷かれた片隅に小さなちゃぶ台と布団が二組置いてあり、その横の壁にはつっかえ棒で開く窓代わりの開口部がある。かつらは布団の隣に置かれた柳行李やなぎごうりの上にカバンを載せた。家具らしい物はほとんどない中で、仏壇代わりの木箱に立てかけた家族写真と、その裏に置かれた数本の位牌が目立っている。その横に康史郞の学生服と肩掛けカバンが置いてあるが、どちらも痛んだところにかつらが施した継ぎが当たっていた。

 部屋の奥には洗濯ひもが渡してあり、目隠しを兼ねた布がかかっている。かつらはその布の影で寝間着代わりに着ている継ぎ接ぎだらけのもんぺに着替えた。

「明日は晴れそうだし、早めに洗濯して布団も干して、銭湯に行きましょ」

 いそいそと布団を敷くかつらを見ながら康史郞は尋ねた。

「姉さん、なんだか嬉しそう」

「ちょっとね」

 かつらは布団を敷くと三つ編みを解いた。肩にパサパサの髪がかかる。

「それよりお金は大丈夫? ズック高かったんだろ」

 心配げな康史郞にかつらは振り返って答えた。

「大丈夫。だけど今月は少し節約しなきゃね」

「じゃ俺、寝る前に便所行ってくる」

 康史郞は自分の古いズック靴を履くと外に出て行った。バラックの横に焼け落ちた元の家の流し台や便所を囲った場所があるのだ。仮囲いのはずだったが未だにそのままになっている。夜は懐中電灯が照明代わりだ。

 ドアが閉まったのを見て、かつらは自分のカバンからがま口を取りだして中をのぞき込んだ。小銭と一緒に小さな布袋が入っている。かつらはその布袋をまさぐり、中から緑色の玉を取りだした。中央にはひもが通るくらいの穴が空いている。その玉を手に載せて裸電球に照らすと、表面の透かし彫りが浮かび上がった。

(お母さん、康ちゃんもどんどん大きくなってるわ。私もがんばらなくちゃ)

 外から足音が近づいてきたので、かつらは康史郞が戻ってくる前に玉を袋にしまう。この玉は康史郞も知らないかつらの秘密だ。がま口をカバンに戻すのと、ドアが開くのは同時だった。

「姉さん、やっぱりお金のこと気にしてる」

 悪戯っぽく指摘する康史郞に、かつらは微笑んだ。

「明日の銭湯代を確認してただけよ。さ、寝ましょ」

 康史郞が布団に入ったのを確認すると、かつらは電球のソケットに付いたスイッチをひねって明かりを消した。

「おやすみなさい」

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