2.ほっとけなくて

 日はすっかり暮れた。ヤミ市の屋台が建ち並ぶ一角に「食堂 まつり」と書かれた旗が下がっている。ここがかつらの仕事場だ。

「送って下さりありがとうございます」

「いや、折角だから夕飯を食べてくよ」

 かつらは青年、京極隆きょうごくたかしに礼を言うと、店の裏に入っていった。


 隆は表から店の中に入る。10人ほど入れば一杯の狭い店だ。板囲いに幌をかけ、裸電球が垂れ下がった空間には、コの字型のカウンターと木箱に板を渡したベンチが置かれているがほぼ満席に近い。隆はようやく空いていたベンチの端に腰掛けた。

 三角巾をつけ、前掛けをつけたかつらが店に出てきた。カウンターに貼られたメニューを見ている隆に尋ねる。

「ご注文は」

「それじゃ、かけうどんを」

「今日はお酒は頼まないんですね」

「この前で懲りたよ」

 隆はそう言うとたばこを取りだし火を付ける。

「それじゃ、お白湯さゆ出しますね。おじさん、かけうどん1つ」

 かつらは灰皿を隆に差し出しながら声を上げた。

「おう」

 厨房(といっても簡素なものだが)にいる白衣姿の壮年男性が答える。この「食堂 まつり」の主、戸祭啓輔とまつりけいすけだ。板前だったが空襲で借りていた店が焼け、再建もままならないためヤミ市で屋台を出している。かつらの弟、康史郞こうしろうと息子の征一せいいちが友人という縁で雇ってくれたのだ。湯飲みにヤカンの白湯を注ぎながら、かつらは隆との出会いを思いだしていた。


 一月ほど前の雨の夜。ずぶ濡れの軍服姿の青年が「まつり」に入ってきた。雨宿りでもするのか、ずっと酒を飲んでいる。気がつくと、青年はカウンターに突っ伏していた。その姿を見たかつらの脳裏に、2年前に亡くなった兄、羊太郎ようたろうの姿が浮かんだ。彼女は実際には見ていないのだが、「まつり」の隣の屋台で酔いつぶれ、そのまま出ていった羊太郎は進駐軍のジープにぶつかって亡くなったのだ。

「お客さん、起きてください」

 かつらは青年を揺り起こそうとしたが、青年は朦朧もうろうとしたまま胃の中の酒を戻してしまった。周りの客があわてて体を避ける中、かつらは自分の前掛けで青年の顔を拭い、服の汚れを拭き取る。なおもふらつきながら外に出て行く青年を見たかつらは、「お代金がまだですよ」と言いながら追いかけた。

 雨はまだ降り続いている。ようやく追いかけるかつらに気づいた青年は立ち止まり、代金をかつらに払うと歩き出そうとした。

「大丈夫ですか。駅まで送りますよ」

「いや、駅には行かない。ドヤに帰るから」

 そのまま墨田川の方向に向かって歩いて行く青年を、かつらはただ見送るしかできなかった。


「かけうどん、できたよ」

 戸祭の声にかつらは我に返った。あわてて湯飲みを持つと、隆の座るカウンターの前に置く。続けてうどんをカウンターに置こうとしたかつらは、薬味のネギをひとつかみし、うどんの上に載せた。

「ネギ、サービスしますね。今日のお礼です」

 隆はかつらの前掛けに目を落とすと話しかけた。

「洗濯、大変だったろ。すまなかったな」

「気にしないでください。あの日は雨で服も濡れたんで、帰ったらすぐ洗ったんです」

 照れ笑いをするかつら。

「そういえば、あの時はもんぺ姿だったような」

「ええ、もんぺとこのスカートを着回してるんです。もっとお金があれば替えの服も買えるんですけどね。今日は弟のズックが痛んできたので新しいのをお店で買ったんです」

「そうか、君も苦労してるんだな」

 隆はたばこを灰皿に置くとうどんを食べ始めた。


 食べ終わって会計をする際、隆はかつらに話しかけた。

「私は京極隆。君の名は」

横澤よこざわかつらです」

「君のお陰で立ち直ることができた。ようやく職にもつけ、今週給料が出たんだ。また食べに来てもいいかい」

「もちろんです。ありがとうございました」

 一礼して見送るかつらを振り返りながら歩いて行く隆。その姿を見ながら、かつらは安堵あんどのため息をついた。

(良かった。兄さんみたいにならなくて)

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