2. 犬


「昔……家で飼っていた犬が死んじゃったの」


 ソアは耳元でひっそりと囁くような様子で、僕にそう打ち明けた。



 会ったことがないので、自然と僕の頭の中ではSNSのアイコンのイラストが、そのまま現実のソアとして僕に話しかけてくる。


 ソアは僕の頭の中のイメージでは、その名前が示すように明るい空色の髪をしていた。長い癖のない髪が肩から背中に流れていて、大きな瞳は髪の毛よりも深く濃い蒼色をしている。


 女の子らしい優しげな顔立ちをしていて、いつもメイド服のような恰好をしていた。頭にも服装に合わせた白いカチューシャをつけている。


 頭の中のソアは、いつも僕に救い求めすがりつくような上目遣いの視線で話しかけてきた。その想像は、僕の自尊心を常に心地よくくすぐった。



「可愛がっていたんだね」


 ソアの体が声が僅かに震えていることを(文字から)感じとって、僕は鷹揚に慰めの言葉をかけた。


「うん」


 ソアは微かに頷いてから、顔を伏せて黙った。

 やや長い沈黙の後、その桜色の唇から言葉が漏れた。


「最初のうちは」

「最初?」

「最初は……仲が良かったの。みんな可愛がって。本当の家族みたいだった」

「そうなんだ」


 最初のうちは可愛がっていたが、飽きて面倒を見なくなったということか。

 よくある話だ。


「でも、何だかうまくいかなくなっちゃって……もうどこへ行ってもいいよ、って言って外で放しても家に戻ってきちゃうの。それでママとか、お兄ちゃんとかお姉ちゃんが怒っちゃって。嫌になって、邪険に扱うようになったのね。よく一緒に出掛けていたのに、そのうち家に閉じ込めるようになったの」

「ひどいな」

「ずっと奥の一室に閉じ込めていたの。最初のうちは大人しかったんだけれど、段々騒いだりするようになって、そうすると、ママが命令してお兄ちゃんかお姉ちゃんが黙らせにいくの」


「躾にいくってこと?」


 ソアは僕の質問が耳に入っていないかのように、言葉をダラダラと続ける。


「私、心配でよく奥の部屋を覗いたの。ママにバレるとすごく怒られるんだけれど。最初はそんなに長くなかったんだけど、お兄ちゃんとお姉ちゃんが犬の相手をする時間がどんどん長くなっていったから。そうすると、犬の鳴き声もどんどん大きくなっていくの。聞いていると凄く怖かった、悲鳴みたいで。いつまでも耳の中に残るのよ。

 それが終わったあとも嫌だった。だって、お兄ちゃんとお姉ちゃん、犬の部屋に入ったあとは、いつも凄く満足そうな楽しそうな顔をしていたから」


 ソアの顔は紙のように白かった。

 蒼い瞳が凍りついたように動かなくなる。


 まるで今でも、その時の出来事を目の当たりにしているかのように、食い入るように宙の一点を見つめている。


 僕は「嘆かわしい」と言いたげに首を振った。


「可愛そうだね。その犬は何ていう名前だったの?」

「イヌ」


 ソアは間髪置かず答えた。


「ママもお兄ちゃんもお姉ちゃんもそう呼んでいた。『イヌ』って。犬だから犬」

「ひどいな」


 他に何と言っていいかわからず、僕はもう一度繰り返した。

 この暗い話がどこまで続くのか、どこにつながっているのか分からず、ひどく不安な気持ちになっていた。


「それで……その犬が死んじゃったんだ?」


 僕は話を終わらせようと思い、話を始まりに戻した。


 ソアは頷いた。

 身をすくませて、細い体を両腕で抱きしめる。


「……怖いの。警察が来たらどうしよう、って。私も捕まるんじゃないかって」

「でも……ソアちゃんは、何もしていないんだろう?」

「見ていたのよ? 私。何もかも全部」


 僕はソアを安心させようとして言った。


「君の家族がしていたことは動物に対する虐待だよ。許せない犯罪だ。でもソアちゃんは子供だったんだし、お母さんたちを止められなかったのは仕方ないよ。警察の人も、君を捕まえたりしないさ」


 不意にソアが顔を上げたので、僕は驚いて言葉の語尾を呑み込んだ。



 ソアは動かない瞳でジッと僕の顔を見つめた。

 陽が射し込まない森の奥深くにある、底の見えない湖を覗き込んでいるような気持ちになった。


 ソアの顔には表情が浮かんでおらず、そうするといつもの愛嬌や可愛らしさが消え、どことなく不気味に見えた。


「その犬だけじゃないの」


 ソアが囁くように言った。


「他にもいたの、そういう子が。だから私、いつも怖かった。だって、奥の部屋はいつも何かが閉じ込められていたから。『閉じ込めるための部屋』だったのよ。犬が死んだら、今度は何を閉じ込めるんだろう、って」


 ソアは一歩、僕に近づいて来た。

 上目遣いで、僕の顔を見上げる。


「Aくんの家には、部屋はある? 小さい部屋でいいんだけれど」


 ソアの蒼い瞳には、いつもと同じように救いを求めすがるような色が浮かんでいる。 

 

 だが、そこに在る何かが、僕の背筋を冷たくさせた。  

 自分がいつの間にか、遊び半分にとんでもない場所に足を踏み入れてしまったことに気付いたような……そんな気持ちになった。


 僕は慌てて言った。


「前に言ったろう? 僕はもう結婚したんだ。家には奥さんがいるからさ」


 ソアが微笑んだ。

 満足そうに。



 記憶はそこまでしかない。

 僕はそこで、彼女とのつながりを断ったからだ。


 だから、今まで忘れていたのだ。



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