訣れの後

 姫君は暮相くれあいときをおちになるけれど、少将は夢寐むびにもとん御光来おみえなく、御労おいたわしや姫君は、見上げる桑楡そうゆ木下闇このしたやみだけ残して月影にあまねく澄み渡る夜天やてんを御覧じてさえなみだに曇る心地がして、いつ再び相見あいまみゆるとも知れぬ長き夜一夜よひとよ連々れんれんと幾日も明かしなさっていた。

 ある日ふと、わかれの折に少将がお言い置きになった忘れ形見を、お思慕したいの余りに取りいだして御覧になると、歌が一首、


 にほひをば君が袂に残し置きてあだにうつろふ菊の花かな

(匂いだけを貴方の手許たもとに残し置いて空しく色褪せて衰えてゆく菊の花ですよ)


とあって、見れば少将の黒き御鬢ごびんと思われたものはしぼなえた菊の花であったので、姫君は愈々いよいよ不思議に思し召されるものの、やがて、そうかそれではこののこされた歌までも菊の精が詠んだものであったかと思い至りなさって、庭の白菊の花園に御出坐おでまし遊ばされ、「『花こそ散らめ根さへ枯れめや』花は散るけれど、根まで枯れることなどありますまいいにしえに詠まれた歌のこころも、今や我が身に沁み渡ります。仮令たとい吾君あがきみが菊の精であったとしても、今一度いまひとたび、言の葉を交わし合いとうございます」と御声を掛けられて取り乱されるその御様子、誠に道理なることであったろう。


 「しも御花揃おはなぞろえがなかったならば、このような恨めしいこともあるまいものを。何にしても私とてこのままいつまでもながらうるはずの身でもない、いずれは儚くなるのだから、一層いっそのこと今ぐにでも玉の緒を切ってしまいたい」などとお思いになるにつけ、返って胸の詰まる思いにさいなまれなさる。「はやはやう、私を迎えにいらして下さいませな少将殿、私を何方どなたに預け置き、今頃何処どちら御坐おわしますのか。神仏ならぬ、人たる者としての悲しさの只中に『これが最後の言の葉です』などということもありましたけれど、それこそ申すまでもない世の無常なるをお言いとばかり私は思うておりましたのに、何たる御情おんなさけの薄きことでございましょうや。これは果たして夢か、うつつか」などと沮喪がっかりなさって物思いに沈んで仕舞われる。あの「お忘れ下さいますな」とだけ言い置かれた少将の言の葉がながわかれのそれと知られて、今更ながら真にせまるのであった。

 「何とまあ心細くたのみなき契りゆえむなしき我が身上みのえ、投げりにもなりましょう。今一度いまひとたび御光来おみえ遊ばしてよ」と悲しまれ、すでみごもられた御身おんみ行方これからのことまで思い巡らされてはお嘆きになる。そしてつい御躰おからだまでかんばしからずお成りになるので、乳母めのとも「どうなさったことか」と心を痛めて、御母君にこのよしを申し上げると、御父君の中納言殿も大いに御心みこころ揺動ゆるがされ、姫君を様々に御労おいたわり遊ばすけれどその甲斐も見られず、おこたりなさる兆しとてない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る