第五章 八話 「戻れぬ道」
ヘンベクタ要塞内部に入ってからは人気のない洞窟とは違って、内部を巡回警戒する兵士達の姿も多く、完全装備に身を包んだ幸哉は彼らに存在を悟られぬよう物陰や暗がりに身を隠し、トールキンの執務室へと向かったのだった。
(かなり時間がかかったな……)
巡回の目を気にしていたためにトールキンの部屋の入り口が目に見える位置についた時には要塞侵入から既に三十分が過ぎていた。
(部屋の前には歩哨が一人……、扉の鍵も奴が持っていると良いが……)
最後は身を隠すだけでは突破できない苦境に立たされた幸哉は扉の前に立つ歩哨との距離を目測した。
歩哨と扉までの距離は恐らく十メートル弱、他に兵士の気配がないことも確かめた幸哉は安全ピンを引き抜いていないF1手榴弾を歩哨の足元に投げ込むと同時に物陰から飛び出したのだった。
「グレネード!」
足元に突然転がってきたレモン状の手榴弾に悲壮な声を上げた歩哨の兵士は次の瞬間、迫ってきた足音に抱えていた自動小銃のH&K G3A3を構えようとしたが、引き金に指をかけるよりも先に幸哉に銃床で頭を殴られ、気絶していた。
地面に倒れた歩哨が失神していることを確かめ、洞窟の細い通路の見える範囲にも他の兵士の気配が無いことを確かめた幸哉は歩哨の装備をボディーチェックした。
(あった……!)
気絶した兵士の右腰を探り、部屋の中に入る鍵を見つけたことで幸哉は沈んでいた気分が微かに高揚するのを感じた。
(これで中に入れる……)
幾つか束ねられていた鍵の内の一つが部屋の扉の錠に合致することを確認した幸哉は地下通路に埋め込まれた扉を開けると、気絶した歩哨を引きずって中へと踏み込んだ。
扉を開けた先には以前、交渉で足を踏み入れた時と同じように赤橙色の電球が吊るされた暗く狭い空間が広がっており、その先に扉がもう一つあった。
(この先にトールキンが……!)
そう思い、憤怒と緊張ではやる気持ちを抑えながら、幸哉は歩哨から奪った鍵でトールキンの執務室に繋がる最後の錠を音を立てずに開けると、大きく息を一つ吐いた。
(本当に俺に裁きを下すことなんてできるのか?)
以前、交渉で相対した時のトールキンの全ての人間を見下しているような佇まいを思い出した幸哉は微かに身震いしそうになった。
(本当に俺なんかに……、俺みたいな半端者に奴を裁けるのか……?)
人間性は共感できないが、格の面では圧倒的に勝っているトールキンに今更ながら覚悟が揺らぎそうになった幸哉はしかし、だからこそ武器を持ってきたのだと自分に言い聞かせると、錠の開いた扉に体当りして、一気に執務室の中へと飛び込んだのだった。
「動くな!」
以前に一度だけ入ったことのあるイメージをもとに狭い執務室の中に突入した幸哉は床面積十平方メートルほど、壁の高さは二メートルほどの空間の中央に置かれた執務机の向こうに座っているであろうトールキンに対して、五六式自動小銃を構えた。だが、その銃口の先に彼の脅迫を受けるはずの人間は居なかった。
(居ない……?)
赤橙色の電球が照らす狭い地下部屋の中は静寂に包まれたままで、標的の姿を探した幸哉は執務室の隣に物置のような小さな空間がもう一つあるのを見つけると、その中も確認したが、トールキンの姿はやはり見つけられなかった。
張り詰めていた緊張の糸が一気に弛緩し、背中にかいた冷や汗の冷たさに気付いた幸哉は次に為すべきことが見つからず、少しの間途方に暮れていたが、扉の向こうから近づいてくる人の声が聴覚に聞こえると、再び意識を引き締められた。
(まずい……!)
二重扉の通路側の扉は閉じていたが、気絶している歩哨を執務室の扉の前に置いたままだった幸哉は横たわった兵士の体を部屋の中に引きずると、そのままゆっくりと執務室の扉を閉めた。
(どこに隠れる……?)
幸哉がそう迷った一瞬の間にも扉の向こうの声と気配は近づいてくる。
(ここしかないか……!)
幸哉は先程見つけた執務室の脇の小部屋に気絶した兵士を隠すと、自分もその暗がりの中に身を潜めた。同時に二重扉の通路側の扉が開く気配が伝わり、近づいてきた声の主が誰なのか幸哉にも判別できるほど、はっきりと部屋の中にも声が聞こえてきた。
「警備がいないぞ。後できつく言っとかないとな」
誰かにそう話すその声はトールキンのものだった。幸哉の中で途切れかけていた緊張が再び糸を張り、迫る決着の時を前に心臓の鼓動が速まる。
幸哉は武器を五六式小銃からより閉所での戦闘に向いた拳銃のシリーズ70に持ち変えると、小部屋の暗がりの中から執務室の扉が開かれるのを睨んで待った。
「鍵も両方とも開いたままだ。全く警備は何をしているんだ」
怒気と呆れの籠もった声とともに執務室の扉を開け、部屋の中に入ってきたのは幸哉がかつて一度だけ対面したことのあるダンウー族の指揮官だった。
(トールキン……!)
その横顔を見て、プラの集落で犠牲になった人々の姿を思い出した幸哉は怒りとともに暗がりから飛び出しそうになったが、トールキンの背後について部屋の中に入ってきた小さな影を見て、すんでのところで動きを止めた。
(子供……!)
「レティー、扉に鍵をかけなさい」
執務室の椅子に腰掛けたトールキンが呼び掛けた小柄な人影に幸哉は心の動揺を抑えきれなかった。彼は標的であるダンウー族の首長に対して、決して多くは知らなかった。まさか、彼に子供がいたなどということは全くの想定外であった。
(どうするべきだ……)
幸哉が目の前の状況に迷った時、彼の背後で微かに動きがあった。先程まで気絶していた歩哨が意識を取り戻したのだった。
前後を差し迫る状況に挟まれた幸哉に選択の余地は無かった。音を出せば気付かれると思った彼は頭を振りながら起き上がった歩哨の首を掴むと、頸椎が折れるように力一杯捻じ曲げたのだった。
決して心地よいとはいえない感触と音が響き、幸哉が初めて体術で殺した敵の感触に僅かに目を逸らした時だった。
「何の音だ?」
執務室の方から聞こえてきた声に幸哉は小部屋の闇に身を隠したまま、再び部屋の方を振り返った。トールキンとレティーと呼ばれた少年が暗赤色の電球に照らされた部屋から自分の隠れる小部屋の暗闇を見つめているのを幸哉ははっきりと視認した。
(気付かれたか……。しかし、子供が……)
危機を前に突撃を考えたものの、年端のいかない少年の姿に躊躇った幸哉に対して、現実は更に非情だった。
「レティー、見てきなさい」
トールキンは不審な物音を余り気にしていないようで机の上の書類をめくり始めたが、探索を命じられた彼の幼子は幸哉の身を隠す暗がりの方へと走ってきた。
(もう隠れられない……!)
小部屋の中まで入ってきた少年が周囲を見回し、壁に張り付いて隠れている侵入者を見つけた瞬間だった。覚悟を決めた幸哉は叫び声をあげようとする少年の口を塞ぎ、後ろから羽交い締めにすると、その頭にシリーズ70の銃口を突き付けて、小部屋の暗闇の中から飛び出したのだった。
「動くな!」
突然の怒声にトールキンが初めて見せる驚いた表情で振り返るのを視認した幸哉はもう自分の人生の道が後戻りできないことを悟りながら、少年の頭に拳銃の銃口を突き付けるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます