第五章 九話 「犯した罪」
幸哉が暗闇から飛び出した瞬間、机の上に置いていたウェブリー・リボルバーに軍人の本能で反射的に手を伸ばそうとしたトールキンに対して、幸哉は、
「動くな!」
と再度怒鳴ると、引き金に指をかけた拳銃を少年の頭に更に力強く突き付けたのだった。
一瞬の間だけ驚いた様子を見せたトールキンだったが、すぐに平時の能面の表情を取り戻すと、目を細めて幸哉の顔をまじまじと見つめた。
「ほぅ、お前は……」
震える手で拳銃を少年に突き付ける幸哉の目を見つめるトールキンの双眸は自分の子供を人質に取られている者のものとは思えないほど、落ち着いていた。
「いつかの日本人の青年だな……。どうだ、あれからこの国のことは理解できたか?」
人質の解放を迫る訳でも、非情な手段を責める訳でもなく、まるで目の前の侵入者を試すような口調で話し始めたトールキンに幸哉は言い放った。
「そんなことはどうでも良い!俺がここに来た理由をあんたは分かっているはずだ!」
二重扉の向こう側には聞こえない声でしかし、確かに怒気の籠もった声で怒鳴った幸哉に笑みを浮かべたトールキンは、
「さて、何のことだか……」
とかぶりを振った。目の前の男の相変わらずの態度に対し、命を一方的に奪われたプラの集落の人々の苦しみと無念を思った幸哉は燃え上がる憤怒を声に変えて糾弾した。
「ふざけるな!プラの集落を化学剤で襲撃したのがここの兵士だということも、攻撃をあんたが指示したことも俺は知っている!」
必死な青年に余裕の笑みを返したトールキンは問い返した。
「証拠があるのか?」
証拠は無い。唯一、犯罪の現場でダンウー族の兵士達を目撃したのが自分しかいない状況で答えられない幸哉にトールキンは冷たい薄ら笑を浮かべて続けた。
「証拠も無しにやってきたのか……。日本は法治国家ではないのか?」
「黙れ……」
脅しを受けても、斜に構えた態度のトールキンに幸哉は湧き上がる怒りを抑え、震える声で呻いた。そんな青年の様をトールキンはまるで楽しんでいるようでもあった。
「せっかくズビエに慣れてきた君が見い出した答えがそんな卑劣な脅迫だったとはな……」
年端のいかない少年を捕らえ、脅迫の手段として使っている幸哉の内心の迷いを見透かすようにトールキンはせせら笑った。
「黙れ……」
「あれほど我らの勇敢な少年兵を非情な戦争の犠牲者だと糾弾していた君があろうことか子供を脅しの道具に使っているなんてな……」
エジンワが知ったらどう思うだろうな……、と笑ったトールキンの言葉に幸哉が心中に生じた迷いに少年を捕らえた手の力を緩めた瞬間だった。少年の首に回すように拘束していた幸哉の左腕に少年が噛み付いたのであった。
「うっ!」
トールキンとの会話に集中していて不意を突かれた幸哉は間の抜けた叫び声とともに拘束を解いてしまい、少年は一気に部屋の片隅へと走った。
「動くな!」
侵入者が体勢を崩した隙に机の上のウェブリー・リボルバーに手を伸ばそうとしたトールキンにシリーズ70を一発発砲した幸哉は次の瞬間、部屋から逃げ出すと思っていた少年が執務室の入り口脇に立て掛けられたソードオフ散弾銃を手にするのを目にして叫んだ。
「止めろー!」
幸哉は胸の中の思いを精一杯の声にして叫んだ。だが、日本語で叫ばれた声がダンウー族の少年に届くことはなく、水平二連式ショットガンの銃口が自分の方を向くのを目にした幸哉は防衛本能から少年の方に向けたシリーズ70を発砲していた。
狭い部屋の中に一発の野太い銃声と三発の軽い銃声が轟いた後、静寂が再び舞い戻った。
「そんな……」
微かに右腕を擦過した十二ゲージ散弾の負傷に腕を押さえた幸哉は目の前の視界に映った光景に息を呑んだ。
他の誰のものではない幸哉の放った銃弾が左胸に命中した少年は数秒の間、何が起こったのか分からないといった様子で立ち尽くすと、そこから鮮血を流す胸の傷を目にした後、呆然とした表情のままで後ろ向きに倒れたのだった。
(殺した……?俺が……?子供を……?)
眼前で起きた事、自分の為した事が受け入れられず固まったままの幸哉の耳にトールキンの高笑いする声が聞こえてきた。
呆然とした表情のままでその声の主の方を幸哉が向くと、頸部に直撃した銃弾に頸動脈を引き千切られたトールキンが傷に手を当てて、幸哉を侮蔑の目で見つめる姿があった。
「やったな、青年」
死に瀕している者のものとは思えない笑い声に圧倒されたままの幸哉に傷口から手を離したトールキンは続けた。
「お前は自らが最も忌避する罪を犯した。これから貴様がその罪を背負い、苦しみながら生きていく様を地獄の縁で見といてやろう」
そうせせら笑ったトールキンは最期の力を振り絞って、背後の壁に埋め込まれたボタンの一つを押すと、そのまま地面に倒れて息絶えた。
瞬間、耳をつんざく警報音が要塞の地下全体に鳴り響いた。
「首長執務室に異常あり!手近な各員は確認に向え!」
スピーカーからオヨノの怒声が響く中、幸哉は自分の犯した罪を前にして呆然としたままだった。
(俺はどうしたら良い……?)
苦悶を浮かべることなく、無垢な表情のまま仰向けに倒れた少年の死体の傍らに歩み寄った幸哉は腰を下ろし、少年の瞼を閉じると、自分も目を閉じた。
(俺もここで死のう……)
どのみち、この要塞から生きて逃げ出すことは叶わない……。そう思い、右手に握ったシリーズ70の銃口を自身の頭に突き付けた幸哉は引き金を引こうとした。
だが、引けない。死への恐怖で震えた手に力が入らないのだった。
(なんて勝手なんだ……。俺は……)
今まで何人もの人を殺めてきたくせに自分が死ぬのは怖いだなんて……、そう自責した幸哉は己への嫌悪感とともに叫び声を上げ、自分の頭に突き付けたシリーズ70の引き金を一気に引こうとした。その瞬間だった。
"必ず無事で日本に帰ってきて"
小川のせせらぎのような優しい声が脳裏に蘇り、幸哉は自分の頭に突き付けていた自動拳銃を下ろしたのだった。
"必ず無事で帰ってきて"
(こんな俺でも帰りを待ってくれている人がいる……)
脳裏に蘇った優佳の声にそう思い返した幸哉はよろめきながら立ち上がると、二人の死体が転がる執務室を後にした。
二重扉の通路側の扉の向こうでは人の気配と話し声がした。
「鍵を持って来い、早く!」
「首長殿の安否はどうなっている!」
扉の向こうから聞こえる怒鳴り声は最早、幸哉の耳には入っていなかった。
(今帰るよ、優佳……)
銀杏の樹の下で微笑む優佳の優しい笑顔を脳裏に思い起こし、自分の罪を受け止めてくれる人の姿をそこに見い出した幸哉は罪を告白するためにも生き抜くことを決心し、自動小銃の薬室に初弾が装填されていることを確かめると、音を出さないように解錠した扉に体当りして、執務室の外の地下通路へと飛び出したのであった。
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