第四章 九話 「戻らぬ日の記憶」
その時、幸哉の意識は十歳の時の体の中にあった……。
まだ失踪する前の父と病に倒れる前の母に連れられて、郊外の河川にキャンプをしに行った時の記憶……。もう戻りはしない過去の思い出、しかし確かに幸哉の意識はその日の光景を再体験していた。
(俺は死んだのか……?)
走馬灯のように駆け巡る温かい日の記憶にそう思った幸哉は自分がその日、迂闊に深くまで入り込んでしまった川の流れに流されて溺れてしまったことを思い出した。
岸に居る両親に助けを求めようとするが、水が口から肺の中にまで入り込んできて上手く声が出せず、体も水流の壁に押されて思うように動かせない……。
十歳のその時、初めて感じた死の気配と絶望、恐怖の中で川底へと沈んでいく幼少期の幸哉を助けたのは異変に気づいて川へと飛び込んだ父親だった。今はもういない父が彼を助けたのだった……。
太く力強い父の腕に抱かれて水中から助け出された記憶を思い出した幸哉はその瞬間、ひどく胸が締め付けられるような気がした。
(父さんは命の危険を冒しても俺を助けてくれた……。そのくらい俺のことを愛してくれていたのに……。それなのに俺は……)
一方的に父を嫌っていた自身の身勝手さに対する自責の念で胸を締め付けられた幸哉はその刹那、意識を現実に引き戻され、水流に流される水中で薄く目を開いた。その視界には水面から飛び込んだ人影があの日と同じ太く力強い腕を幸哉に伸ばす姿があった。
(助けて……、父さん……)
幸哉が胸中にそう念じた瞬間、彼の体は両肩を掴んだ力強い腕に引かれ、水面と引っ張られたのであった。
☆
「新入りしっかりしろ!起きるんだ!」
幸哉は耳元で叫ぶその声に意識を引き戻されると、気管の中に入った水を一気に嘔吐するとともに目を覚ました。
「ここは……」
朦朧とする意識で現在地を理解しようとする幸哉が横たわっているのは先程まで彼が泳ぎ着こうとしていた川の中洲だった。
「全く運の良いやつだぜ。この野郎!」
そう言って横たわる幸哉の頭を軽く小突いたのはジニーだった。
「君が……」
俺を助けてくれたのか……、驚きとともに感謝の言葉を続けようとした幸哉だったが、その前に鼓膜を震わせる轟音が近付いてくるのを察知した彼は急いで半身を起き上がらせた。
「また、プカラが戻ってくる!急いで川の中へ戻れ!」
空を見る間でもなかった。再び迫る死の気配に胸が激しく動悸する中、よろける体をジニーに支えられて起き上がった幸哉はレボ族の青年とともに仲間が待つ岸の方へと川の中を全力で走った。
「伏せろ!」
プロペラエンジンの轟音が耳元まで迫り、川の深さが腰ほどにまでなったところで幸哉は横を走っていたジニーに背中を押される形で再び水中へと押し込まれた。
その瞬間、水面を震わせる爆音とともに背中に熱感が走るのを感じた幸哉は直後に生じた気泡だらけの乱流に体の動きを封じられて、より深い川底へと叩きつけられた。
(駄目だ……!また溺れては……!)
その意識と覚悟だけで何とか水中で姿勢を立て直した幸哉は川底から川面を振り返った。
青白く波打ち光る川面の膜の上に橙赤色の炎のうねりが煌めく幻想的な光景……、その景色に爆弾が落とされたのだと悟った幸哉は自身の四肢が無事であることを確かめると、仲間が待つ岸の方へと水中に身を隠し、全力で泳いだのであった。
☆
「大丈夫か!二人とも!」
ネルソンを始めとする仲間達に助けられ、幸哉とジニーが岸に引き上げられた時、強襲をかけてきたプカラは既に撤退しており、プロペラエンジンの轟音は遥か彼方に遠ざかっていた。
「お前ら運が良かったな。落とされたのは訓練用の小型爆弾だよ」
二人が無事であることを確認すると、ネルソンが笑いながらジニーに言った。その言葉を聞き、同時に水の詰まった鼻の粘膜に焦げ臭い刺激臭を感知した幸哉は背後の河川を振り返った。
先程まで彼とジニーがいた中洲には直径十メートルほどのクレーターが穿たれており、その窪地の中からは熱気とともに黒煙が立ち昇っていた。
「それにしても、国境ぎりぎりの南を攻撃するなんて珍しいな……」
強行偵察で要塞の北側を攻撃することはよくあるらしいプカラが北方の空へと遠ざかっていくのを目を細めて見つめるネルソンが呟いたのと同時だった。
「何をしているか!貴様ら!」
仲間を誰一人として失わずに済んだ一同が安堵していた岸にカリ中尉の厳しい声が響いたのであった。
「はっ!敵機の強襲を受けましたが、応戦する武器もなかったため退避しておりました!」
突然の上官の登場に隣でネルソンが直立不動の起立をして敬礼する中、ずぶ濡れのまま、よろめきながら立ち上がった幸哉も何とか上官に敬礼をした。
厳しい目で幸哉とジニーを睨みながら歩み寄ってきたカリ中尉、その姿に幸哉は自分が何故濡れているのか責められると覚悟して萎縮したが、彼らにかけられたのは部下を気遣う優しい言葉だった。
「二人とも怪我はないな」
ジニーも叱責されると思っていたのか、驚いた表情で幸哉と顔を見合わせたレボ族の若者は上官に向き直ると、直立不動の敬礼の姿勢のまま、
「は!何事もありませんでした!」
と返答した。
「そうか、宜しい……」
静かにそう返したカリ中尉の後ろに合流するはずだった隣国の輸送班の姿と物資がないことを幸哉はその時になって初めて気付いたが、その理由は上官自らが語ってくれた。
「先程のCOIN機の攻撃は我々の物資輸送を狙ってのものだ」
(作戦の情報が漏れていた……?)
カム族の陣地での襲撃を思い出す言葉に幸哉の胸は動揺したが、それは他の兵士達も同様でざわつき始めた部下達を静めるため、カリ中尉はより大声を出して指示を下した。
「断定はできんが、相手方の輸送班はそう判断した。物資の搬出は後日に振り替えになる。帰るぞ」
せっかく川を渡って数時間待機した時間が全て無駄になってしまったことを知り、兵士達の士気は下がっていたが、カリ中尉の命令は彼らにとって絶対であった。
「一班は早くボートを出せ!二班は周辺警戒!」
小柄な指揮官の命令に従って、一部の兵士達がジャングルの中に擬装したボートを数人がかりで搬出する中、幸哉やネルソン兄弟達は仲間の背中を守るための周辺警戒に就くのであった。
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