第三章 十二話 「敵への敬意」
(俺は……、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない……)
地面に倒れ伏した政府軍兵士の死体に駆け寄り、その傍らに座り込んで全く動こうとしない幼児の様子を呆然とした表情で見下ろす幸哉の心中には様々な不安が渦巻いていた。
(この子はこの兵士の子供……?だとしたら、俺はこの子の父親を殺した……?)
子の目の前で親を殺してしまった……。
強い覚悟を決めて引いた引き金のはずだったのに、今の幸哉が感じている罪悪感と後悔は一度目の殺しの時とは比べ物にならないほど大きかった。
もっと他のやり方があったのではないか……。せめて殺さなくても……。
悔恨にも似た様々な思考を巡らせ、呆然としたまま立ち尽くす幸哉の意識を現実に引き戻したのは彼の背後から呼びかけてきたソディックの叫び声だった。
「幸哉ぁ!幸哉ぁ!大丈夫かぁ!」
冷静沈着な平時の様子とは全く正反対の、必死な形相と叫声で幸哉のもとに駆け寄ってきたソディックは先程の銃声を聞いて慌てて走ってきたのか、額には大汗を浮かべ、息は絶え絶えに切らしていた。
「ああ……、良かった……。無事だったんだな……」
幸哉の傍らに駆け寄り、戦友の無傷を確かめたソディックは目の前で死んでいる政府軍兵士の死体を一瞥して安堵した表情を浮かべたが、幸哉の硬直した横顔を視認すると、再び表情を曇らせた。
「どうした……?」
そう聞きながら、幸哉の視線の先を見やったソディックは兵士の死体の傍らで座り込む幼児の姿を目にすると青年の内心を理解したのか、「ああ……」と声を漏らして沈黙した。
年の頃は五歳から六歳、服装は黄褐色のぼろ布をまとっているだけだが、髪の長さや容姿からして少女と思われる幼児は死んだ兵士の方を暫くの間見つめていたが、ふと傍らで立ち尽くす幸哉達の顔も見上げてきた。
自分が何をしたら良いか分からないといった純粋な表情……、だが、恨みや悲しみといった感情は全く籠もっていない少女の面様に幸哉はかえって胸中をかき乱されることとなった。
(俺にどうしろって言うんだ……。そんな顔で見られたって……)
どうしようもない……。幸哉がそう思った時だった。
「おい!二人とも大丈夫か!」
自分を呼び掛けた声に胸に満ちた迷いと後悔を一瞬の間だけ忘れた幸哉が振り返ると、獣道のあった方向からサバナ住居の立ち並ぶ間をぬって、こちらに向かって走ってくるエネフィオクと狗井の姿があった。
「大丈夫か!何があった!」
遠目で幸哉とソディックの無事は確認しつつも、事態の全ては把握できていなかった狗井は立ち尽くす二人の傍らに駆け寄ると、黒々とした血溜まりの中にうつ伏せに横たわる政府軍兵士の体を足で押して仰向けに起こした。
「どこに隠れていた……」
兵士の傍らに座り込んだ狗井が血に濡れた死体を精査する中、その様子を呆然と立ち尽くして見つめる少女に怪訝な視線の一瞥を送ったエネフィオクがサバナ住居の入り口に立て掛けられていた自動小銃を回収する。
「部隊章がもぎ取られている……。所属部隊から追放されたのか……?」
大学で医学を学んでいた幸哉からすると、他人の血で大量に濡れた死体は不潔極まりなかったが、そんなことなど全く意に介していない様子の狗井は素手のまま兵士の死体を軍服のポケットの一つ一つまで細かく調べていった。
「いや……、違うな……」
死体の胸ポケットの中から何かを取り出した狗井が独り言ちた。
見てみろ、と差し出された布切れは大量の出血が染み込んでおり、そこに刺繍された文字もロゴも幸哉には判読できなかったが、彼の傍らに立っていたソディックは驚いた表情を浮かべると、「第十三独立機動軍だ……」と震える声で呻いた。
「第十三……?独立機動軍……?」
何のことを言っているのか分からないという様子の幸哉に水筒の水で部隊章の血を洗い流した狗井が押収品を自分のポケットの中に仕舞いながら、簡単に説明した。
「政府軍最強の混成部隊……。この村を襲撃したのはその傘下の部隊だった……」
脱走兵だな……、と断定した狗井の声を幸哉は上の空で聞いていた。
そんな兵士がなぜ一人でここに?自分が虐殺した村に何故?どうして部隊を脱走した?
様々な疑念が頭の中を巡る中、幸哉の視線はふと自分の顔を見上げる少女の視線と絡み合い、数秒の間お互いに見つめ合った。
この子は一体何者なんだ……?
狗井が死体を乱暴に扱っている様子を見ても、抵抗や非難の声も行動も見せず、ただ沈黙したまま不安げに周囲の大人達を見つめる少女の様子を見て、幸哉の胸の中では罪悪感こそ薄れたものの、哀れみにも似た感情がより一層強くなってきたのだった。
この子は……、これからどうなるんだ……?
目の前で死んでいる兵士が親では無いことは少女の様子からして明らかだが、自分の撃った銃弾が彼女の運命を変えてしまったこともまた確かである事実を噛み締めた時、幸哉は死体にしか関心のない戦友達に問う声を出していた。
「この子はどうしますか?」
真剣な表情で問う幸哉の顔を見上げ、次いで思い出したように少女の顔を一瞥した狗井は深い嘆息を一つ吐くと、返答を返した。
「サシケゼの集落で保護してもらおう……」
ここに置いていく、とでも言われたら上官の人間性を今後どう信じようと不安に思っていた幸哉はその答えを聞いて、ひとまず安堵の吐息をついた。
「長居は無用だ。撤収するぞ」
死体の精査を終え、腰を上げた狗井の指示に頷いたエネフィオクは腰を曲げて少女と同じ高さに目線を下ろすと、慣れない様子ながら優しげな声を出して、「こっちにおいで」と少女の背中を押しながら村の出口の方へと誘導した。
全く嫌がる素振りを見せない少女だったが、時折振り返っては仰向けのまま動かない兵士を心配そうな目で見つめる幼き姿に、やはり自分は彼女の大切な人を奪ってしまったのではないかと不安に駆られた幸哉が政府軍兵士の死体を一瞥し、村の出口の方へと足を踏み出そうとした時だった。
既に死臭を放ち始め、小バエがその周囲を舞い始めた死体の足元……、幸哉がホールドアップした時に政府軍兵士が腰を下ろしていた地面が僅かに盛り上がっているのに幸哉は気がついたのだった。
墓……?
その中身を検めた訳ではなかったが、直感的にそう察知した瞬間、幸哉は死んだ政府軍兵士の最期の思いが脳裏に流れ込んでくるような気がした。
彼は虐殺に加担した……。ここに来て命令されるまま、多くの人々を傷つけ殺めた……。だが、その事を悔いていた彼は自ら部隊を捨て、この村に償いに来たのだ……。そして、恐らくあの少女は……。
「この村の子供……」
最後は独り言のように声に漏らした幸哉は既に村の出口へと歩み出していた三人の上官達の方を振り返ると、渾身の誠意を込めて頭を下げた。
「すみません……!」
静寂の中に響いた幸哉の声に狗井、ソディック、エネフィオクの三人はそれぞれに驚いた表情をして青年の方を振り返った。
「ど、どうした?」
日本風の誠意の表し方ではあったが、深く頭を下げた幸哉の様子から並々ならぬ思いを察したエネフィオクが動揺したように問うた。その声と同時に顔を上げた幸哉は三人の目を順に見返すと、震える声で自分の思いを口にした。
「彼を……、埋葬させて下さい……」
真剣な表情で口にした青年の意思が数秒の間、理解できず、唖然とした表情を浮かべた三人の中で最初に口を開いたのはエネフィオクだった。
「なんでだよ。こいつらがどんな酷いことをしたか知ってるだろ。放っとけば良いんだよ」
眉を吊り上げたしかめっ面でそう言い放ったダンウー族兵士の言葉を聞き、残酷な意趣返しのような考え方に胸が潰れるような思いがした幸哉はしかし、反論する言葉も見つけることができず、
「でも……、確かにそうですけど……」
と力無く声を漏らすことしかできなかった。
そんな青年の様子に苛立ちが頂点に達したのか、幼き少女のいる手前、それまでは感情を抑えていたエネフィオクが初めて幸哉を一喝した。
「しっかりしろ!引き金を引いたのはお前自身だろ!それなら覚悟を決めろ!後ろを振り向くな!」
ダンウー族兵士の言葉は正しかった。兵士になると決意したのは幸哉自身……、そして敵を撃つと決めたのも彼自身……、他の誰に強制されたのでもない……。覚悟はあったはずだった……。
「覚悟なら……、もう決めています……」
俯いたまま震える声ではあったが、そう言い返した幸哉に悲しげな表情を顔に浮かべたエネフィオクが、
「なら、こんなことでくよくよするな!」
と更に叱咤の言葉を続けた。だが、青年は死体の傍らに俯き立ち尽くしたまま動かなかった。
「お前……」
説得に応じないなら力尽くで連れて行く、といった様子で幸哉の方に歩み出そうとしたエネフィオクの行動をその前に出た狗井が止めた。
「良いだろう……」
予想とは反し、自分に同意を示してくれた上官の声に思わず顔を上げた幸哉の双眸を見返す狗井の目は真剣だった。
「如何なる敵といえ、敬意を払うことを欠いてはならない……」
いずれはその敬意が平和に繋がることもあるかもしれない……。そう続けた狗井はエネフィオクの方を振り返ると、
「時間はまだある。埋葬は無理だがな……」
と言って、微笑で部下を宥めた。エネフィオクの方も全く不服が無い訳ではなかっただろうが、狗井の言葉に頷くと、それ以上反論することはなかった。
「隊長がそう言われるなら……」
エネフィオクに続き、頷いたソディックの同意も確認した狗井は再び幸哉の方を振り返ると、「来い」と一言だけ残し、獣道があった方の村の出口へと青年の傍らを歩み去って行った。
「行くぞ、足を持て」
自分の意思が通ったのが現実のことに感じられず、呆然と狗井の背中を見つめていた幸哉の肩を傍らに歩み寄ったエネフィオクが叩いた。
「狗井さんがお前の言うことを聞いてくれるんだ。急げよ」
そう言ったエネフィオクの目に既に怒りの炎は無かった。
「ありがとう……、ございます……」
声は小さく震えていたが、精一杯の感謝の念を言葉にして伝えた幸哉はエネフィオクに指示された通り、仰向けに倒れた政府軍兵士の足側に回るのであった。
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