序章 六話 「入国」

「おい、おいってば!何うなされてんだよ、行くぞ!」


 遠い日の夢から幸哉の意識を引き戻したのは健二の乱暴な揺さぶりと粗暴な声だった。


「あ……、着いたのか……?」


 まだ夢半ばの意識で目を瞬かせながら、幸哉は親友の顔を見上げた。


「そうに決まってんだろ!早く降りんぞ!」


 焦った様子の健二の顔から周囲に視線を向けると、他の乗客達は既に飛行機から降り始めているところだった。その様子を見た幸哉も急いで、荷物をまとめると、急かす健二の後ろに続いて、飛行機から降りた。


 あたふたとしながら、幸哉が飛行機から出た瞬間、日本以外の土地に初めて降り立った彼にサバンナ気候の熱気が襲いかかってきた。


「赤道が近い上に内陸国だから、気候は日本とは全然違うぞ。服装は短パンとTシャツ、それから日差しを避けるためにポロシャツを羽織るくらいにしておけ」


 照りつける日差し、日本の夏以上に容赦のない湿度と気温の高さに顔を歪めながら、幸哉は健二の忠告のありがたみを噛み締めた。更に健二が教えてくれていたのは服装のことだけではなかった。


「日本とは人間も全く違う。いいか、話しかけてくるやつは全部悪人だと思え!俺以外の人間は信頼するな!」


「水に関しても、日本の常識は通じないぞ!水道水を飲むのはアウトに決まってるが、川に飛び込んだりするのも絶対にダメだぞ!寄生虫だらけになっちまう!」


 日本に居た時は、その口煩さにうんざりしていた幸哉だったが、実際に異国の地を踏んだ今、彼はタラップを先に降りる親友の、日本での忠言に深く感謝しているのであった。


 強い日差しが滑走路のアスファルトに反射して、体を上下から焦がす中、空港の警備員に誘導されるまま、幸哉と健二は他の外国人旅行者とともに空港建物に入った。


 空調が効いておらず、外と同じように蒸し熱い空港建物に入って、最初に二人を待ち受けていたのは入国審査である。審査は三つに別れた個室で行われており、三つの部屋の前では旅行者達が列を連ねて、自分の番を待っていた。


「俺が言った通りにやれば、大丈夫だ」


 初めての経験に緊張する幸哉に、列の後ろに並ぶ健二が声をかけた。部屋が三つしかないため、二人は三十分以上の時間を列に並んだ状態で立って待たされることとなったが、遂に幸哉の番がやってきた。


「入れ」


 部屋の中から聞こえてきた粗暴な英語の声に従って、幸哉は三つある内の一番右端の部屋に入った。

 入国審査が行われる部屋は広さはほんの数平方メートルほどの狭い個室で、壁にはズビエの地図が貼られている他、小型の扇風機が取り付けられており、生暖かい空気を狭い部屋の中に循環させていた。


 部屋に入るなり、幸哉は動揺した。何故なら、机を一つ挟んで自分の前にいる審査官が日本で見た出国審査官と全く異なり、迷彩服の軍服を着込んだ軍人にしか見えない男だったからだ。


「パスポート」


 粗暴な英語でそう言った男は幸哉にとって、人生で初めて直に接するアフリカ系黒人だった。言われた通り、幸哉がパスポートを手渡すと、暫くの間、それを見続けた男は今度は幸哉の手にしているスーツケースを指差した。


「スーツケース、オープン」


 男が発した片言の英語に従って、幸哉は焦りながら、自分のスーツケースを目の前の机の上に置くと、その中身を開いた。迷彩服を着込んだ入国審査官はスーツケースの中の荷物を物色するかのようにして確かめた後、何故か深い溜め息をつくと、次は幸哉の腕を見て、何かを寄越すように指を指した。


「ん……?腕時計?はい……」


 幸哉が外した腕時計を手渡すと、男は上機嫌そうな笑みを浮かべ、現地語で幸哉に何かを言うと、そのまま腕時計をポケットに仕舞ってしまった。普通の日本人の感覚なら驚くところだが、幸哉は全く平然としていた。これも健二の入れ知恵のおかげだ。発展途上国の入国審査では旅行者の金品を審査官が個人的に接収することも多い。


 腕時計を手に入れて、上機嫌になった審査官は幸哉にカバンを閉めるように言うと、片言の英語で、「行って良し」と伝えた。


 出口は入り口とは部屋の反対側にあり、荷物をまとめた幸哉は男の指示に従って、部屋を出て行った。戦利品を手に入れたためか、軍服姿の審査官は幸哉が部屋に入ってきた時よりも、心做しか上機嫌に見えた。


「な、俺の言った通りにすれぱ、大丈夫だったろ?」


 入国審査室を出ると、先に審査を終えて待っていた健二が幸哉の肩を組んできた。


「腕時計、取られたけどな……」


「良いだろう?そんぐらい。どうせ、思い入れがあった訳じゃなかろうし……」


 勝手に決めつけられたことに、ムッとしつつも、幸哉は健二の後に続いて、両替所に向かった。一応は首都郊外の、ズビエ国内で最も大きい空港ということだが、日本の空港と比べると、人けは少なく、建物の中は閑散としていた。


「ここで両替するのは一部で良い。街でもできるからな」


 健二の言葉に従って、幸哉は所持金の一部をズビエ・フランに両替した。一ズビエは約百十八円…、ズビエは国の一部が内戦状態だが、インフレなどはしていないようだった。


 両替を終えた二人はタクシーを拾うために、空港エントランスへと向かった。


「荷物……、お持ちしますよ……?」


 エントランスに出ると、一人の男が片言の英語で話しかけてきたが、幸哉は無視して健二の後を追った。


「知らない人間で話しかけてくる奴は全員悪人と……」


 ホテルまで乗っていくタクシーに関しては健二が既に調べてくれていた。


「タクシー、一つとっても、詐欺まがいなのが大勢いるからな」


 タクシーに乗り、運転手に行き先を伝えた健二が得意げに話す言葉を聞き流しながら、幸哉は車外を流れる景色を見つめていた。道路は舗装されておらず、外には野良犬が歩き、日本とは明らかに異なる風景がそこには広がっていたが、建物はどれもコンクリート製で、幸哉が想像していたようなあばら屋や物乞いの姿などは無かった。


「意外と都会的だな……、とか思ってんだろ?」


 話に答えないことを不審に思ったのか、健二が幸哉の視線の先を追って、笑いながら言った。


「ここは首都だからな。都市圏から一歩、外に出てみろ。同じ地球か、と目を疑うぜ?」


 異国の地を初めて見る幸哉にとって、健二の話は全く想像できないことだったが、自分が助けようと真に思える人達はそこにいるかもしれないと予感した彼の胸の中には奇妙な高鳴りがあったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る