序章

序章 一話 「答えの出ぬ問い」

「東十三番の塹壕がやられた!防御網に穴が空くぞ!」


「敵戦車正面、距離五十メートル!無反動砲の援護を早く頼む!」


 迫撃砲弾が雨あられと降り注ぎ、銃声の応酬とともに混乱した交信が無線に飛び交う中、その男は右手に五六式自動小銃、左手にロケットランチャーの発射器を持って塹壕の中を疾走していた。


 頭上を飛び交う機銃弾に首をもぎ取られないよう腰を屈め、砲弾の巻き上げた土泥のシャワーの中を汗と泥に塗れながら、自分を求める仲間のもとへと走るその男の名前は戸賀幸哉。二十四歳の若き日本人医大生だった。


 日本人が戦場にいる……。そう聞けば、普通は戦時中の話だと思うだろうが、幸哉が疾走している戦場は東南アジアの諸島でも、ビルマの戦場でもなく、一九九三年のアフリカだった。戦後に生まれたこの男が何故、異国の戦場で戦うこととなったのか、その理由は半年前に遡る……。





 母が死んだ……。重病と戦い続けていた母親が死んだ……。


 その出来事は幸哉にとって、人生の大きな転機となった。数年前に父親を失い、兄弟も居なかった彼にとって母親の死は唯一の肉親の死だった。


 一九九三年の二月……、戸賀幸哉は母が入院していた病院の近くにある公園で、母が好きだった銀杏の大樹を直ぐ側のベンチに座って見上げていた。葉をつけず、冬の寒さに静かに耐える大樹を見上げる彼の胸には、ある一つの問いが巡っていた。


 自分はこれからどう生きていけば良いのか……。


 幸哉は医大の六回生だった。卒業が目の前に迫り、来年には働く病院も決まっていたが、幸哉はその約束された未来に希望や生き甲斐を見いだせずにいた。


 彼にとって、重病の母親を救うことがそれまでの人生の全てであり、生きる目的であった。そのために医大に入り、医者になる道を志した。


 だが、その母が死んだ……。幸哉にとっての生きる目的は、夢を叶える直前で無情にも消えてしまったのだった。


 幸哉は深い溜め息をついた。その息は冬の寒さのために白い蒸気となって結実し、灰色の雲に覆われた空に昇っていったが、今の幸哉には冬の肌寒さを感じる心の余裕さえも無かった。


 自分はこれから何を目的に……、どう生きていけば良いのだろう……。


 親戚の手助けもあり、余りにも手際よく終わった葬儀の後になっても、幸哉はその答えを見つけることができないままだった。


 母と同じような重病の人を助けるべきかとも思った。だが、どう言う訳か彼はそこにも自分の命を懸ける意義を見い出せなかった。膨らみきった欲望の末に弾け散ったバブル経済の破綻による日本の世の中の暗さと行き詰まりが、幸哉が生き甲斐を見いだせぬ理由の一つであったかもしれなかった。


「弱い人達を救うために生きて……」


 元気だった頃の母が病室で自分にかけてきた言葉を幸哉は思い出していた。


 だが、弱い人とはどんな人なのか?病弱な人?貧しい人?果たして、今の日本に本当に救わなければならない弱い人間などいるのか?


 そんな堂々巡りの考えに頭を悩ませながら、目の前に立つ銀杏の大樹を呆然と見上げる幸哉の両目を、後ろから伸びた白く細い手が覆った。


 答えの見つからぬ問いに苦しむ自分を一瞬の間だけでも救ってくれる温かい掌の感触を瞼に感じた幸哉はその手の主が誰であるか見なくても分かった。


「優佳か?」


 振り返りながら、そう問うた幸哉に笑いかけたのは彼の大学の同級生であり、恋人でもある戸﨑優佳だった。


「一人で何、考えてたの?」


 隣に座りながら、そう聞いてきた優佳の問いに幸哉は言葉を詰まらせた。幸哉と優佳は付き合って、もうすぐ六年になる。卒業後は結婚も考えていた。そんな優佳を相手に自分がこれからの未来、彼女との結婚やその先の生活を含めた未来に希望を抱けずにいることを伝えられるはずがなかった。


「お母さんのこと?」


 答えに詰まる幸哉の目を優しく見返し、優佳が聞き直した。


「弱い人達を救うために生きるって…、どういうことなんだろう……」


 ぼそり、と呟くように答えた幸哉の言葉に、優佳は戸惑った。答えは幾つもあった。だが、幸哉を大事に思うからこそ、優佳は安易な答えを口にしてはならないと思った。


「難しい問題だね……」


 頷いた幸哉は塞ぎ込むように俯き、二人の間に重い沈黙が流れた。


 このままでは幸哉の心が潰されてしまう……。


 そう思った優佳は恋人を答えの出ぬ問いから一瞬の間でも解放しようと、敢えて明るい口調で別の話題を切り出した。


「また、家に来たら?」


 その言葉に顔をあげた幸哉の顔は心の辛苦から一瞬でも解放されたためか、少し楽そうに見えた。


「お父さんも幸哉に会いたがってたよ。」


「そう……」


 優佳は笑顔を見せたが、自分の言葉に答えた幸哉の声がいつもより暗く、活気がないと気づいた彼女の微笑みは何処かぎこちなくもあった。


「帰ろう、幸哉」


 愛する人のその言葉に幸哉は頷き、公園のベンチから立ち上がると、二人の住むマンションへと帰る足を踏み出した。その後ろ姿を銀杏の大樹がものを言わず、静かに見守っていた。

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