縁切り屋

きと

縁切り屋

 夜の住宅街。

 ひとりの女性が、足早あしばやに歩いて行く。

 辺りには、女性以外の姿はない。

 普段なら少し怖いと感じるだろうが、今の女性は、別の感情に支配されていた。

「あ~もう! ほんとにムカつく!」

 苛立いらだちを隠せず、女性は声を上げる。

 何故、女性は腹を立てているのか。

 理由は単純だった。

「あのヤロー、浮気なんかしやがって!」

 そう、女性は恋人に浮気されたのだ。

 付き合ってもう四年になり、幸せに愛を育んでいたと思っていた。

 でも、今日。自分以外の女と仲睦なかむつまじく腕を組んだ恋人とばったり出くわしてしまった。

 しかも、恋人に話を聞くと、どうやら浮気は、今日出くわした女だけでなく、複数の女とそういう関係にあるらしい。中には、体だけの関係もあるとか。

 自分の信じていた恋人に裏切られた悲しみもあったが、悲しみより強く怒りの感情が女性を支配した。

 その場で、恋人には別れを告げてきた。何があっても許せそうになかった。

「ああもう! あんな奴との縁なんて――」

「切ってしまいたい、ですかな? うるわしきおじょうさん」

 ピタリと苛立ちに任せた歩みが止まる。

 後ろからしゃがれた声で話しかけられた。

 ここは、人気のない住宅街。

 女性は、その事実に今更ながら恐怖を感じる。

 びついた機械のように、ゆっくりと声の方へと振り返る。

 背後にいたのは、真っ黒な着物に身を包んだ老人だった。

 杖をつき、背中は丸まっている。

 かなり怪しい風体だった。

 逃げようと思い、走りだそうとした女性をよそに、老人は話を続ける。

「麗しきお嬢さん。あなたは、今、自分の縁を呪っている。どうしようもない世界の流れで、偶然に結ばれた縁。それを切りたいと思っている。……違いますかな?」

「そう、ですけど……」

 逃げようと思っていたはずの女性は、いつの間にか老人の話を聞いていた。

 はっきりとした理由はないが。なんだか、引き込まれてしまったのだ。

「人のつながりは、偶然に結ばれるもの。その偶然を呪う人がいたならば、我々、縁切り屋の出番でございます」

「……縁切り屋?」

「はい、我々縁切り屋は人と人を結ぶ縁を、自在に切ることができるのです」

 老人は、言いながら着物の袖からはさみを取り出す。

 なんてことはないような、普通の鋏に見える。

 でも、老人の話が本当であるならば。

 その鋏で、切れるということだろう。

 あの恋人との縁も。

「さて、うるわしきおじょうさん。いかがなさいますかな?あなたが、呪っている縁。この場で切ってしまうことも可能です」

 あんな最低なやつとの縁。

 あんなものは、なくなったところで、何の支障もない。

 女性は、老人の提案に乗ろうとした。が。

「ですが、それ相応の代償だいしょうもありますことは、先に話しておきましょう」

「代償?」

 言われて、老人への恐怖が再び湧き上がってくる。

 やはり、何か怖い儀式ぎしきにでも参加しなければならないのか。

 女性が、そんな考えを巡らせていると、老人はのんびりと話し出す。

「はい。一度、その人との縁を切ってしまうと、戻らないのです。金輪際こんりんざい、一緒に遊ぶことも、電話がかかってくることも、町で出会うことも、なくなります。もう二度と、会えなくなるのです」

「なんだ、それなら……」

「本当によろしいのですな?」

 老人の目つきが急にするどくなる。

 女性は、思わず後ずさりをする。

「人の縁は偶然に生まれるもの。その偶然を呪うこともありましょう。ですが、その縁のおかげで、何事にも変えられない、大切な時間を得られたこともあったのではありませんか?」

「…………………………」

「迷っているのなら、一晩、考えてみると良いでしょう。私の名刺を渡しておきましょう。答えが出たら、ここに電話を。……お待ちしておりますぞ、麗しきお嬢さん」


 翌日。女性は、携帯電話を握りしめて、名刺を穴が開くほど見つめる。

 やがて、意を決して、名刺に書かれた電話番号を入力する。

 相手は、すぐに電話に出た。

「もしもし、あの……」

「ああ、昨日のおじょうさんですな? どうでしょう。答えは、出ましたかな?」

「……はい」

 女性は、ごくりと唾を飲み込むと告げる。

「あいつとの縁は、切らないでください。なんというか、確かにもう会いたくないと思っているのですが、二度と会えなくなるのは、違う気がして」

 縁は切らない。

 それが女性の選択だった。

 あの恋人。いや、今はもう元恋人だが、一日たった今でも思い出すとムカつくし、復縁することはないだろう。

 でも、いつの日か、恋人という関係でもなくても、また笑いあうことができる日が来るのではないか。

 そして、恋人だった関係で、過ごしたあの四年間。

 あの日々は、確かに輝いていたから。

 その全てを呪い、なかったことにするのは、違う気がしたのだ。

 少しの沈黙の後。

「ヒッヒッヒッ。そうですか。それもまた、ひとつの正解でしょう。それでは、またご縁があれば」

 ぷつりと、電話が切れる。

「これで、良かったのかな……」

 女性は、力なく呟く。

 そして、パンッと頬たたくと。

 その顔から、迷いは消えていた。

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縁切り屋 きと @kito72

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