猿人荘の殺人

神崎蒼夜

第1話


 夜半も過ぎ、草木も眠りかけている時刻。鬱蒼とした木々に囲まれているオラン荘では、ある騒動が起き始めていた。


「これは……一体……」


開け放たれたそのドアから、部屋の中央を見つめているエドワード・オランは、こわばった表情でそう呟くと、惨状を目の当たりにし気絶してしまった妻――シャーロット・オランを力強く抱きしめた。


「エンジェルの悲鳴が聞こえ、我々が駆け付けた時にはもう……」目を伏せながら、執事のノーマンは普段通りの慇懃とした口調でそう応じる。


「そうか……。それで、彼女は今どこに」


 第一発見者でもあるメイド──エンジェルの姿は、部屋の内部や、廊下には見当たらない。


「彼女でしたら、私たちと共に駆け付けたロジャー様が、食堂へと連れて行かれました」


「あの男もお前たちと一緒に来たのか?」


 怪訝そうな顔で、エドワードはノーマンに問う。なにせ、娘の部屋があるこの東側の廊下へと軽々しく近づけないように、わざわざあの男たち三人の部屋は西側へとあてがったのだ。


「ハイ。眠れないので何か飲み物が欲しいと、厨房を訪ねてきたところでありまして、そこで晩酌をしていたダストン氏と私と一緒に、エンジェルの悲鳴を聞いたわけであります」


 疑問に答えるノーマンの返事を聞き、「なるほど」と唸るように応える。


「無駄話は済んだかお二人さん。それならば、少しばかり手を貸してもらいたいんだがね」


 紫煙を吐き出しながら調度品と一緒に部屋の隅で佇んでいたダストン警部が、ゆったりとした足取りで入口へ近付いてきた。


「自殺の可能性はないのか警部」一縷の望みをかけて問うが、それをあっけなく打ち砕くようにダストンは首を横に振る。


「自分の後頭部を何かで殴打した後、それを自分から離れたところへ置く芸当がこいつにできるなら自殺の可能性もなくはないが、奴さんにそんなことが出来るとは思えん。これはれっきとした事件だ――しかも」


 三者は無言で、部屋の中央のそれを睨みつける。


目や鼻筋は整っており、生前はさぞ好男子然としていたのであろうが、目がひん剥かれ、口元も大きく歪められている今は、ただの不気味な物体として横たわっている、生前はシュバルツと呼ばれていた者の死体。そしてそれの下半身には、上下一体型のオランウータンの着ぐるみが脱ぎかけとなって纏われており、見る者にとってその姿は、さながらオランウータンから人間へと脱皮している様に思えた。


「まったく、厄介な休暇になっちまったもんだよ」


 吐き捨てられた言葉は、エドワードのついた大きなため息と共に、空中へと霧散していった。



 ノーマンに妻と屋敷に滞在している者を食堂へと集めさせている間、エドワードはダストンと一緒に実況見分を行った。その後食堂へと向かうと、既に自分を含めて八名、シュバルツ以外の屋敷に滞在していたメンバーが集まっていた。


「一応の話はノーマンやロジャーから聞いたが本当なのか? その、彼が……」


 焦燥した様子でそう尋ねてきたのは、昨夜ロジャー達と一緒にこの屋敷に訪れたベックだ。


「残念ながら、本当のことだ」ところで、君たちは知っていたのかね? 口からそんな言葉が出かかったが、すんでのところで飲み込む。たとえ知っていたとしても、この状況で話してくれるとは到底思えない。


 頃合いを見計らい、ダストンが咳払いと共に、「ともかく」と話を切り出す。「他に犠牲者が出なかったようで、まずは一安心だ」


言葉を区切り、睨むように一同を見つめる。


「聞いてはいると思うが、改めて俺の方から事件の概要を説明させてもらおう。現場は館の東側にある展示室、被害者はシュバルツとみて間違いない。犯行方法は単純だ。被害者が床に座りながら何か作業をしていたところを殴打、運悪く後頭部に負ったそれが致命傷となり死に至る。そしてちょっとした捜査の結果、入口付近の壁に立て掛けられていた肖像画の額縁から、被害者の物と思われる血液と頭部の毛が付着しているのを発見した。それが凶器と考えて間違いないだろう」


「肖像画ですか……?」困惑そうにそう問うたのはベックだ。


「そうだ。あの部屋の、暖炉の上に飾られていたあの肖像画だ」


 じゃあ、と質問を続けてこようとするベックを手で制し、ダストンはまた口を開く。


「まあ待て、お前らの気持ちはよくわかる。あの部屋にはトロフィーやら像やらが置かれているし、そっちを凶器にする方が一般的だ。だがこいつときたら、肖像画をわざわざ壁から外して殴り殺した後に、そのまま床に放置していった。これはどういうことだ?」


 ダストンの言葉に誰もが押し黙ったその時、「あの……」と、今にも消えてなくなりそうなか細い声が、エンジェルから発せられた。


「肖像画ですが……それはシュバルツ自身が外したのだと思います」


「どういうことだい、お嬢ちゃん?」


「そもそも私があの場に居たのは、シュバルツから頼まれていた仕事があったからなのです。皆さんも知っての通り、彼は夕食後からあの部屋に篭り調査をしていました。その前に、『眠気を覚ますために飲み物がほしいから、指定する時刻に持ってきてくれ』とおっしゃられたので、私はあの部屋に三度珈琲をお運びすることになったのです。それで二度目の時に、肖像画を外している姿をお見かけしました。そして三度目の時には……」


 死体を発見した時の光景を思い出したのか、顔色を青くなりながらも答えた彼女に、「ありがとう」と感謝の言葉を述べながら、ダストンはエドワードを見据える。


「警察にはさっき連絡した。到着までには時間が掛かるそうだが、遅くても早朝には着くそうだ」


紫煙と苛立ちがこもった言葉が吐き出され、食堂が静寂に包まれた。誰もが沈痛とした面持ちで互いを見つめるそんな中、「皆さんに一つ、お話があります」と、緊張感を纏う声でロジャーが切り出した。


続けなさい、とエドワードが身振りで促すと、それに応じる様に椅子から立ち上がり、「では」、と語り出す。


「今からお話することは全て私の推測であり、事実とは異なるかもしれない。そのことを理解した上で聞いていただきたいのです」


「いったい何を話す気なんだ?」


「──この事件の犯人についてですよ」


「なんだと⁉」突然のその言葉に、叫びをあげたダストン以外は、驚きのあまり息を呑みこみ、次の言葉を呆然と待つ。


「犯人がわかってしまったのは、本当に偶然なのです。警部さんの話、そしてエンジェルさんの話を聞いて、偶々閃いてしまった。それだけなのです」


「ロジャーくん、誰が犯人だというのかね」


 疲れを滲ませたエドワードの問いに、悲しそうにかぶりを振る。


「そもそもこの事件は、ここにいる全員に奴を殺害する動機が存在しうる以上、誰が罪を犯してもおかしくはなかったわけであり、あの惨劇は偶然悲劇の引き金が引かれてしまい起きたものだったとも言えましょう」


 水を打ったように静まり返った場に、その言葉が深く染み込んでいく。


「順を追って説明させていただきます。先にも述べたように、今回の事件では動機の面から犯人を絞り込むのは困難だ。だから違う面、すなわち、凶器から犯人を考えていくことにしました」


「凶器っていうと、あの肖像画か」


「そうです。皆さんも疑問に思っていましたよね? 私もそうです。他にも凶器になりうる物はたくさんあった、なのにどうしてわざわざ肖像画なんて使ったのだろう。扉のすぐ真横の棚には、丁度いい具合に手が届く高さに置物等が並べられていたのに……。そこまで考えてふと思い浮かびました。もしかすると、犯人はそれを使いたくても使えなかったんじゃないか。犯人にとって、あの部屋で使えたものはあの壁に立て掛けられた肖像画しかなかったんじゃないか。と」


 その瞬間、「ああっ!」と、劈くようなシャーロットとエドワードの悲鳴と、「クソッタレ!」というダストンの叫びが同時に響いた。


「どうやら、貴方たちも真実に辿り着いてしまったようですね」


「手が届かなかったのか──ッ!」


「そうです」静かに頷き、ある一点を見つめながら、滔々と話を続ける。「なぜ肖像画を使ったのか。それは他の品が置いてあるところには手が届かなかった――それだけのことなのです」


 ある者はバネに弾かれた様に、またある者は憐れみを押し殺すようにゆっくりと、視線をそちらへと向けだす。


「あの部屋の調度品は、我々の手が届きやすい棚の上に置かれています。言い換えれば、子供の手が届きにくいような位置にね」


 誰もが嘆き、悲壮感すら漂う空気の中、ロジャーの手はそれを切り裂くようにしなやかに動き、彼女を指差す。


「……初めて見る人間の姿は、さぞかし恐ろしい異形なモノに見えた事でしょう。ましてや、それが我々の姿をしたものの中から出てきたら尚更だ」


 母親に抱きしめられているドロシーの瞳からは、恐怖を思い出したせいか、大粒の涙があふれ出している。「わたし、怖かったの……。あの部屋を覗いたら、シュバルツの中から化け物が出てきて……。だから……だから……」


 張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れ、言葉にならない嗚咽と咆哮が、静寂に支配された屋敷に響き渡った。奇しくもその日は、彼らオランウータンたちが人間から独立してから丁度百年目という節目の記念日であり、独立の英雄アーノルド・オランを讃える日でもあった。

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猿人荘の殺人 神崎蒼夜 @sawyer1876

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