夜行世界

冬気

夜行世界

  八月二十五日

 中学三年の夏。今夜も僕は家を出る。そっとベッドから抜け出し、足音に気を付けながら部屋を出る。親の寝室の前を通り、そのまま台所にある勝手口まで静かに進む。音をたてないよう、気を付けながら勝手口のドアを開ける。夜風が頬を撫でる。少し肌寒く、パーカーでも羽織ってくるんだったと後悔しながら、外に置いてあるサンダルを履く。ゆっくり音をたてないようにドアを閉め、一息つく。裏庭の門を開けて道路へ出る。アスファルトが、夜の暗さに染まり底の無い水のように見える。淡く光る街灯に照らされた所は陸のようだった。夜の水面を歩いていつもの場所に行く。誰もいない道路。昼間なら車や自転車などが通っているが、今は僕一人の世界。妙な心地よさがあった。皆が夢の世界にいる時間、僕は現実の世界にいる。道路に面した多くの家の窓が暗い。一軒だけ、明かりがついている家もあったが通り過ぎた後、もう一度後ろを振り返って見ると明かりは消えていた。街灯の光だけが僕に進む方向を教えるように、どこまでも続いている。家を出てから二回右に曲がったところに目的地はあった。そこを囲んでいる工事用の柵を開けて中に入る。数十分に一回通過する電車が高架上を通っていく音が聞こえた。さっきよりも濃い闇の中を進んだ。

 取り壊し工事中の公園。いや、工事がされていたのは数か月前のことで、地主の都合か何なのかは知らないが、しばらく工事は何も進んでいない。ただ、工事用の柵だけが取り残されるようになった。一か月前の僕は、この忘れられたような場所に魅力を感じていた。忘れられているから誰も来ない、と。昼の嫌なことを一時でも忘れたかった。この場所を見つけたその日、初めて夜に家を抜け出した。初めは、夜の暗さに慣れずにいたが、最近は暗さに安心感を感じている。毎夜のようにこの高架下の公園へ行き、数時間過ごして家に戻る。それを繰り返していた。

 黄色と黒色の柵は錆びた音を立てて開いた。いつも通り、公園の奥のほうにある古びた木製のベンチの左端に座る。腰を下ろした瞬間小さく、ぎしっとベンチが鳴った。公園を見渡す。街灯の淡い光に照らされて錆びた遊具たちが少し輝いて見えた。また、頭上の高架を電車が走っていった。走り去っていく電車の音が聞こえなくなったと同時に、別の音が耳に入ってきた。

 「君は、毎夜ここに来るの?」

 心臓がドクンッと跳ねた。誰もいないはずの公園で人の声がする訳がない。ベンチの右端に女の人が一人座っていた。不思議と驚きや恐怖といったものは浮かんでこなかった。

 そこには街灯の光を透かす黒髪のパーカー姿の女の人がいた。その人は僕をじっと見ていた。夏の海を閉じ込めたような色をしている雫型のネックレスが、彼女の胸の前で淡い光を反射している。それがとても綺麗だった。

「ねぇ、質問に答えてよ」

 僕が呆気に取られているとそう言ってきた。

「はい……。来ますけど……」

 危険な人かもしれない。もしかしたら、犯罪に巻き込まれてしまうかもしれない。そう思ったが、逃げれなかった。いや、逃げなかった、だな。この人は僕に危害を与えない。そう確信していた。根拠なんてない。でもそう感じた。結局、ベンチに座ったまま、生まれてしまった沈黙を埋めるため口を開いた。「あなたは、何者なんですか」

 我ながらおかしな問いだと思ったが、黙っているよりはマシだろう? 彼女は一瞬、驚いたような顔をした。この状況では逃げられるのが普通だ。だが、逆に質問を返されるとは予想外だっただろう。驚きで少し開かれた目は次第に弧を描いた。瞬きを一回したら、驚き顔が無邪気な好奇心に満ちた顔になっていた。

 あんまりにニヤニヤしていて返事が返ってこないので、先ほどの彼女のように急かしてみた。

「あの、質問に答えてください」

「あ、ごめん。君はやっぱり面白い人だと思ってた。質問だね、質問」

 若干気になる一言を残して僕から目線を外した。そしてまたこちらを見て言った。


 「私は……樋口。樋口香澄。十七歳の高校二年生」


 私たち、この公園の共同利用者だねぇ、なんて言ってから彼女は腰を上げた。


 「今日はもう帰るよ」

 ──またね

 そう言い残して街灯の淡い光の中を、工事中の柵の向こう側に消えていった。

 通過電車一回分の時間が経ってから僕もベンチを離れ、街灯の案内に導かれ家に帰った。

  八月二十六日

 いつものように家を抜け出し、公園に向かった。工事用の柵を開け、ベンチに向かう。今日は先客がいた。

 この、香澄という人は僕よりも多くの事を知っていた。特に物理に関してはとても詳しかった。他にも人生面でも豊富な知識があった。彼女との会話は心の負担が無かった。学校で同級生と交わす上辺だけの会話より何倍も楽しかった。友人をもつならこういう人がいいな、と思うほどだった。

 僕らはいくら話しても話したりなかった。彼女にもう少し早く出会えていたら、今までの人生はもっと楽しくなっていただろうなと思った。

  八月三十一日

 明日学校が始まる。以前から一度ぐらい夜の学校を見たいと思っていた。今日行こうとも思ったが、彼女が公園にいる事を思うと気が変わった。

 夏休みが数時間後に終わってしまうこの時にもいつも通り公園のベンチで僕らは話していた。サイレンがいくつも聞こえてきて、どこかで事故でも起きたのかな、なんて話していた。いつも通りだった。だが今夜は、彼女は去り際に「またね」と言わなかった。代わりに「じゃあね」と呟いてから街灯の淡い光の中、工事用の柵の向こう側に消えた。

  九月一日

 公園に彼女が来ていなかった。いつも僕よりも先に来ているのに、今日はベンチが空席のままだった。たまには用事があって遅れることもあるだろうと思って待った。だが、通過電車三回分の時間が過ぎても公園には僕一人だった。今日は都合が悪いのだろうかと思って、その日は家に帰った。

  九月二日

 今日も彼女は来ていなかった。学校のクラスメイトから夏休みが終わる日、学校の近くの交差点で交通事故があったと聞いた。そのことを彼女に話そううと思っていたが、通過電車五回分の時間を待っても結局公園には僕一人だけだった。

  九月三日

 彼女はもうここには来ない。そう確信した。学校が始まったので当然かもしれないが……。だが、僕は彼女にもう二度と会えないような気がしていた。

  五月一日

 樋口香澄がいなくなって八か月が過ぎた。高校受験が済み、高校生活にもやっと慣れ始めた。実は前から僕は彼女との記憶を文章化する事をしていた。記憶が風化してしまうのが怖かったんだと思う。 書き上げたものはインターネットにアップした。彼女がこれを見て、もう一度あの公園に来てくれるのでは、という淡い期待を抱いた。微塵もないかもしれないその可能性に賭けてみたかった。


  9月1日

 朝、目が覚めると、酷い頭痛に襲われた。痛みの中で、知らない記憶が次々と脳内に溢れる。工事用の柵。街灯の淡い光。古びた木製のベンチ。高架上を走る電車。ベンチの左端には知らない男の子が座っていて、何やら私に話しかけている。空想にしてはあまりにも現実的で、知らない記憶だと思えなかった。

 学校に行っても今朝の記憶はまるで本当にあったかのように忘れる事はなかった。だが、日が経つにつれ、おぼろげなものとなり遂には完全に忘れてしまっていた。

  6月10日

 高校受験が済み、高校生活にもやっと慣れ始めた頃、ネットで気になる記事を見た。高校生の新人作家が書いた小説が大手の出版社の小説大賞を受賞した、というものだ。普段は物理学の本ばかり読み、小説など興味のない私だが、その高校生の小説は読まなければならない気がした。学校帰りに本屋で購入し読んでみた。読んでいくうちに、あの知らない記憶がまた溢れてきた。私のあの記憶と小説の内容が完全に合致していた。その日の夜、私は初めて家を抜け出した。記憶にある公園に行こうとした。知らない記憶を辿り、工事用の柵を見つける。柵を開けて中に入る。


  六月十日

 今日、僕が書いた本が世に出る。一か月前、ある出版社から小説を書かないかと言われ、出版することにした。普通なら自信の本が出る事は嬉しいだろうが、反して僕は何も感じていなかった。結局彼女とは会えないままだからだ。

 なぜか今夜はなかなか寝付けなかった。なんとなく以前のようにまたあの公園に行こうと思った。

 公園には先客がいた。ここが他の人に見つけられたのは残念だが、気にせず僕はベンチに向かう。

 「こんばんは」

 形ばかりの挨拶をして空いていたベンチの左側に座る。露骨な視線を感じて先客の方を見る。瞬間、僕は驚いた。夏の海を閉じ込めたような色をしたネックレスがその人の胸で淡い光を反射していた。


 ありえないと思った。目線が隣の男の子に釘付けになる。記憶の中と同じ人が目の前にいる。気付いたら口を開いていた。

 「あなた、何者なんですか」

 高架上を電車が一本通過した後、彼は泣いていた。そして、一言呟く。

 「久し振り」


 二つの世界の私が合わさる。高校二年生の『私』と彼と同じ年の私。彼が事故死するのを変えたくて『私』が過去を変えた。その結果、『私』の記憶と私の記憶が合わさった。『私』と彼との記憶が鮮明に浮かぶ。彼との未来を掴みたくて『私』は過去を変えた。やっぱり、私は彼を知らない。けれど知っている。今度はこの世界の私が彼を知る番。だから私はこう返す。


 ──ねぇ、質問に答えてよ。

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夜行世界 冬気 @yukimahumizura

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