水底の淵
@kazen
水底の淵
私が人魚に遭遇したのは、長袖で外を歩くと肌が汗ばんでくるような、季節が春から夏へと移ろい始める頃合いだった。
当時抱えていた大きな案件を片付けた私は、疲労困憊した心身を癒すために小旅行に出かけることにした。
フリーランスだから時間に余裕を作るのは難しくないし、ウェブデザイナーの仕事はパソコンとネット環境があればどこでもできるから、急な案件が入っても問題ない。
在宅仕事をしていると、仕事と私事の境界がどうしても曖昧になってくる。だから私は時折そうして家を出て非日常に身を置くことにしていた。
海の見える旅館かホテルを適当に選んで一泊して、景色と料理を楽しもうという、人によっては小旅行・非日常という表現は大袈裟だと感じるかもしれない程度のものだったが。
そんなだから本腰を入れて旅程を組んだりはせず、ネットで適当に検索して地物の海の幸が満喫できるという旅館を選んで予約し、その翌朝には着替えとノートパソコンを携えて新幹線へと乗り込んでいた。
外壁はやや古ぼけてはいるが青い屋根瓦が落ち着いた佇まいを感じさせる旅館の部屋に荷物を置いて、夕食までの時間で周囲の海辺を散策することにした。
受付で確認したところ、近くに二つ海岸があるのだそうだ。
一つは海水浴に使われるような砂浜で、もう一方は岩礁の連なる磯になっており、地元民くらいしか訪れない場所だとか。
歩くことを想定してハイキング用の靴底のしっかりした靴を履いてきていたので、磯の方に行ってみることにした。
旅館の門を出て、道なりにいくらか進んだところで垣根が防砂林にかわった。
防砂林を横目に歩いて十分程で、目印として教えてもらっていた小さな立て看板が見つかった。
立て看板の横、まばらな防砂林の合間を縫うように海側に土むき出しの道が海の方に伸びていて、そちらに磯があるようだった。
踏み入れると、足元はすぐに砂から岩にかわり、なだらかな下り坂の先に広がっていたのは、岩礁の多い岩場だった。
強い潮の香りが心地よい。
海岸線が水平線と平行に伸びているため、視界いっぱいに海が広がるのも好ましかった。
足元には小さなカニが何匹も歩いており、潮だまりの中には極彩色のヒトデや、何年ぶりに見たか思い出せないアメフラシのグロテスクな姿があった。
思わず童心に返り、潮だまりを一つ一つ覗いて回った。
そのせいで気づいた時には、そろそろ旅館に戻らなければ夕食に間に合わない時刻になってしまっていた。
久々に子供のような磯遊びをしてリフレッシュできた。名残惜しいが、最後に水平線を眺めて帰ろうと、海に向かって突き出した岩場の突端に立った時、1メートルほど下の海面を漂う何かに気づいた。
波間に漂うそれを見た時、まず、ああ面倒な事になったと思った。
水面に黒い髪を広げてたゆたうドザエモン。
うつ伏せの状態だったので、性別はわからない。
この岩場に打ち寄せられる過程で失われたのかどうかはわからないが、片足がないようだった。
以前にも、海の近くのホテルに泊まった時に偶然水死体に遭遇したことがあったから、それほどの動揺はなかった。仰向けだったなら、あの時のように無様に悲鳴をあげてしまったかも知れなかったが。
それはともかく、億劫ではあるけれど、無視して旅館に戻るわけにはいかなかった。
警察に通報したなら、夕食には間に合わなくなるのは確実だ。
せっかくのリフレッシュ気分が台無しだ。
嘆息してスマホを取り出した時だった。
水死体がくるりと裏返り、私は息を呑んだ。
波の影響でひっくり返ったのではなかった。
明らかに意志の、筋肉の動きの感じられる、主体的な動きだった。
仰向けになった水死体と、目が合った。
欧米人のような、深い青色の瞳。
無言でこちらを見つめ返し、瞬いた。
掌中から滑り落ちたスマホが岩場を跳ね、とぷんと水面を破って海中に消えた。
濡れた黒髪の貼りついたその細面は、海水を吸ってぶよぶよに膨らんだものとは似ても似つかない。生きている人間の女性のものだった。
季節外れの海水浴を楽しもうと考えた地元の人間だろうか。
だが、ここは岩礁が多く、遊泳に適しているとはとても思えなかった。それに女性は片足がない。
不思議とその時、女性が救助を求めているかもしれないとは、微塵も考えなかった。
あらためて女性を見やると、その顔は美しいと言って差し支えないが、顎より下に不健康に青黒いシミが広がっていた。
咄嗟に思ったのは、何かの皮膚病だろうか、ということだった。海水が治療にいいとか、そういう理由で海に浸かっているのかと。
広げられた両手、なだらかな胸――上半身のすべてに広がった青黒いシミが、夕日を反射してきらりと輝いた。
ああ、もしかしてシミではなく、ウェットスーツだったかと納得しかけたが、よくよく見るとそうではなかった。肌が変色しているのでもない。
肌が青黒い小さな金属片のようなものに覆われて、硬質化しているようだった。よく似たものを、私は見たことがある。
鱗?
呟いた瞬間、その女性は身を翻した。
波をかき分けて頭から海中に潜り、水上に露になった下半身から振り飛ばされた水滴が、女性の下半身を見て唖然となった私の頬を叩いた。
片足が、ないわけではなかった。
足が一本しか、なかった。
いやそもそも足ですら、なかった。
上半身と同じ青黒い鱗に覆われた、尾鰭のある下半身。
人間の上半身と、魚の下半身。
水中に消えたそれが何か、私の知識の中には一致するものがあった。
「……人魚?」
独語して、あまりに馬鹿げたことだと首を振った。
人魚が実在するなどという話は聞いたことがない。
王子に恋して泡と消えた人魚姫は、アンデルセンの書いた童話の中の架空の存在だ。
子供の頃、テレビ番組で見た人魚のミイラは、猿と魚のミイラを繋ぎ合わせた精巧な作り物だと結論付けられていたではないか。
いい大人が人魚を見たなどと、酒席の馬鹿話でさえできるようなものではない。
揺れる海面を一時眺めて、目を閉じた。
水死体を見間違えたのだ。その水死体も海底に消えた。
そういうことにしておこう。
いずれにしろ、もう目の前に人魚はいないのだから、その真偽を確かめる必要も方法もなかった。
落としたスマホは残念だが、明日の帰り道にでも新品を買えばいい。一日程度ならスマホがなくとも大きな支障はない。
自分を納得させるように頷いて目を開けると――人魚がそこにいた。
海中に消えたはずの人魚が上半身だけを水上に出し、海水に濡れたスマホをもった右手をこちらに伸ばしていた。
……スマホを拾ってきてくれた? 人魚が?
手の甲側と違い、掌側は青黒い鱗ではなくやや赤みを帯びた灰色の小さな鱗に覆われていて、爪は小さく、人間のものより爬虫類や鳥類のものに似ていた。
何故か指先を仔細に観察してしまったのは、他にどうしていいかわからなかったからだ。
人魚はスマホを差し出したまま、青い瞳でじっとこちらを見つめていた。
屈んで手を伸ばせば、そのスマホを受け取ることができる。できるが……
逡巡する私を見て、小さく首を傾げた人魚は、微笑みを浮かべた。
その端正な容貌に相応しい、美しい笑みだった。
なあ。
微笑みながら人魚が発したそれは、意味を持った――意思の疎通を図るための言葉ではなかった。
強いて言うなら鳴き声の類で、なあぉと表音するのが近いだろうか。
人魚は猫のように鳴く。
頭の中で繰り返していると、人魚はスマホをもった右手を、青黒い鱗で覆われた胸元へと引っ込めた。
かわりに左腕をあげて、こちらを手招く。
なあぉ。
耳に心地よい、幼児の喃語にも似たその鳴き声が鼓膜を震わせた瞬間、差し出された人魚の手を取りたいという抗いがたい衝動が、不意に胸の奥からこみあげてきた。
ああいや、いっそ――何もかも捨てて、この海に飛び込んでしまいたい。
人魚は私を連れて、私が今まで見たこともないような、素晴らしい景色の中を泳いでくれることだろう。
そこにはきっと、地上の、目を背けたくなるような汚濁は存在しない。
流れの澱んだ地上で生きるのは、息苦しい。
暖かな海の、その底で、母なる潮流に抱かれて優しい夢を見よう。
そうだ。もう、地上に未練はない……
人魚に向かって、一歩踏み出そうとしたところで、気付いた。
人魚は、笑っていなかった。
口は微笑みの形をしているが、目元が笑っておらず、冷静に私を見つめていた。
その青い瞳は、人魚の行動に対して私がどう反応するか、こちらの挙動を注意深く観察しているかのようだった。
引っ込めた足の靴底が、波に濡れる岩場の縁をかろうじて踏みしめた。
私は、何をしようとしていた?
いつの間にか額に浮いていた冷や汗をぬぐい、こちらに左腕を差し出したまま、再び小首をかしげる人魚を見下ろした。
神話には、人を幻惑して海底に引きずり込む、人魚の姿をした怪物が登場するというが、この人魚がその怪物なのだろうか。
一見して、こちらに対して親しみを持っているようにさえ見える、この人魚が。
その時、ぞっとするような想像が、悪寒とともに背筋を震わせた。
人魚は人の言葉を理解していないか、話せないが、自分の行動が人間からどんな反応を引き出すかは知っている。
私の落とし物をわざわざ拾ってきたのは、その行為によって警戒を解いた人間がいたからではないか。
微笑みを浮かべたのは、それが人間の好意を喚起するということを学んだからではないか。
それでも差し出した手をとらない人間は、耳に甘いその鳴き声で惑わせる。
幸いにも私は、怪物に幻惑されることなく、踏みとどまることができた。
だが、もう一度あの誘惑に耐えることはできるだろうか。
目の前にいる美しい人魚が、突如としてとてつもなく邪悪なもののように感じられ、私は耳を塞いで踵を返した。
なあぉ。
逃げだした獲物に翻意を促すように、人魚が鳴いたような気がした。
それから私は旅館にも戻らず、そのまま自宅へと逃げ帰った。
旅館に謝罪の電話をかけて残した荷物を着払いで郵送してもらい、フリーランスとして仕事をこなす日常へと戻ったのだが、一つだけ変化があった。
私は、猫の鳴き声が苦手になった。
あの時聞いた人魚の甘い鳴き声の残滓が猫の鳴き声と重なって、鼓膜と心を揺らすのだ。
我儘なクライアントとの折衝や、強行スケジュールで徹夜を余儀なくされて心身ともに摩耗した時などは、あの人魚がいた海に戻りたい衝動にかられてしまう。
時が経つにつれ、その衝動は薄れるどころか、逆に日に日に強くなっていく。
いつしか、仕事を放りだし、猫を探して徘徊することが多くなった。
いずれ遠くないうち、冬の鳥羽口を待たずに、私はあの岩場に戻るだろう。
人魚のいた海に。
そうして、人魚の甘い鳴き声を待つのだ。
水底へと続く水面の淵に、人を誘う鳴き声を。
水底の淵 @kazen
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