第四部・第一章:一五九四年・九月・三鶴
第一〇三話:虎は鶴の地にて生まれ変わる
興福寺から奥州までひたすら歩き、途中で馬を使って半月ほどかけて米沢の城にたどり着いたとき、現・芦澤家当主である兄の芦澤正道は不愉快そうに顔を歪めたという。
当然か。虎王丸を出家させたのは兄の正道と、今は亡き父親の先代当主・芦澤正俊なのだから。
城についてから休む暇も無く足を洗い身支度を調えると、兄であり当主である正道に謁見する。
兄に会うのは一体どれくらいぶりか。虎王丸の
となると一年半以上も二人は顔を合わせていなかったことになる。出家しもう二度と会うこともなかったはずの実弟の顔を、正道は汚らわしいものでも見るかのように目を細くしてにらみつける。
「この愚弟が。寺でくたばっているかと思ったら、生き恥を晒しやがって」
「………………」
虎王丸は何も言わず、じっと頭を下げていた。
還俗が決まってから、虎王丸は頭を剃るのを止めて髪を伸ばしていたが、それでもまだ結えるほどには長くなく、雑草のようなまばらな髪を頭巾の中にしまっていたが、今、兄に謁見している最中は頭巾を外し、頭髪をあらわにしている。
短い髪を見せなければいけないことに虎王丸は恥ずかしさを感じてはいたが、正道は髪だけではなく、虎王丸の姿形はもとより存在すら否定し、あらゆる罵詈雑言を弟に浴びせた。
虎王丸はす、と意識を半分別のところにやり、兄の罵倒を聞き流す。
正道に罵られるのは初めてではない。というより虎王丸が覚えている限り、兄に優しくされた覚えなどない。
弟を邪魔者扱いするのも、人格を否定するのも、時に直接意地悪されるのも全部経験済みで、昔はなぜ兄はこんなにも冷たいのか、どうすれば仲良く出来るか一生懸命考え、兄に好かれるよう子供なりに努力もしてみたが、結局徒労に終わった。
兄とはわかり合えないと諦めたのは、蟄居を命じられてからだ。諦めてしまえば楽で、寂しさは心の奥底にしまい込み、そのうち出家させられ興福寺にて鍛錬と修行に明け暮れる日々を過ごしていれば、兄への思いなど忘れられていた。
仏に仕える身としての心構えがやっと出来てきたときに、還俗の要請が芦澤家より届いた。
父が亡くなり、次の当主になる兄に反感を持っている重臣達が虎王丸を担ぎ上げたのだ。正道が当主につくのを認めることとして、実弟の虎王丸を呼び戻すことが反対派の家臣達の提示した条件だった。
当然、そんな条件を突きつけられた正道は面白くない。だが家中が分断されるのは避けたい。芦澤家の敵は少なくない。わずかな隙をみせればあっという間に攻められる。戦乱の世はまだ終わっていないのだから。
こうして兄弟はまた再会した。兄から憎き弟への罵声はようやく終わろうとしている。
早くこの場を去りたい虎王丸へ、正道は吐き捨てるように言い放つ。
「お前も結局、呪われた一族のものというわけか」
ぴく、と頭を下げていた虎王丸が反応し思わず顔を上げてしまう。
その瞬間、初めて兄と視線がかち合った。自分と似ている顔立ちの兄が、憎々しげにこちらを睨んでいる。
「兄……いえ、ご当主。それはどういう意味で……」
「話は終わりだ。あとのことは任せるぞ」
正道は近くにいる
謁見は終わった。虎王丸はわずかな従者を連れて、三鶴城へと向かう。
もう夜も深いが、兄は米沢の城で虎王丸が宿泊することを許さなく、その日のうちに三鶴という土地へと向かうことになった。
松明を焚きながら馬に乗って移動する虎王丸は、兄の最後の言葉を何度も頭の中で繰り返し唱え、そして首をひねる。
――呪われた一族、とは、どういう意味だろう……?
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次の日、三鶴城についた虎王丸は、まずは三鶴城城主である
元々三鶴という国は、代々坂ノ上家が治めていたが、奥州仕置きにて坂ノ上家は滅亡し、三鶴は芦澤家の領地となり、城主に寺から還俗させた前・坂ノ上家当主の弟の清重が就き、その後見人兼城主補佐として、大定綱義が就いていたが、大定が非業の死を遂げたことにより、空いた城主補佐の地位に虎王丸が治まることとなった。
一通りの挨拶を終えて虎王丸が思ったことは、清重という男はあまり覇気が感じられない、怠惰が薄く膜を覆ってる、城主には相応しくない器の持ち主だということであった。
彼は、誰が補佐に就こうが興味がないようだ。
任された領地のことではなく、考えることは酒か馳走か美しい小姓達のことで、酒臭い清重は虎王丸達を軽くあしらい、色小姓とともに奥へと下がった。まだ日が高いというのに。
虎王丸は同じ仏門に入っていたものとして、彼の怠惰に怒りすら覚えた。寺でなにを教わってきたんだ、と小一時間説教してやりたい気持ちになった。
「虎王丸様。明日元服の議を行います。今日は身を清めゆっくりお休みくださいまし」
年寄の一人がそう虎王丸に話しかける。
この齢八十の老人は、先代の正俊の時に老中を務めたもので、名を宗忠という。宗忠は今後虎王丸の後見人となり、烏帽子親となる予定だ。
右足を悪くし、常に杖をついている宗忠を筆頭に、反正道派の年寄は皆ここ三鶴に送られた。もちろん、兄の策略である。
老人ばかり、それも三鶴という僻地へ反対派と弟を閉じ込めておけば、兄は自分の地位は安泰だと考えたのだろう。
(俺は当主に就こうなど思っていないのに)
虎王丸に出世欲がなくとも、宗忠他年寄りどもはそう思ってはないらしい。
兄・正道の代わりとなり、芦澤家当主となられよ――そのような無言の重圧を、虎王丸は感じていた。必要とあらば武力行使もいとわぬと。
(冗談ではない……)
虎王丸は、兄を殺して当主の座に就こうなど一切思っていない。
兄に対する個人的なわだかまりはあっても、同腹の兄を殺めるなどあってはならないことだ。それは、興福寺にて師僧の果心居士から習った教えもあるが、自分に兄以上の当主の器があるとは思えないからだ。
それに、そういった兄弟の骨肉の争いこそ、敵国が攻めてくる大義名分になり得てしまう。大きな争いが起きるのは避けなければならない。また民草を戦火に巻き込んではならない。
※
※
※
とある吉日。芦澤虎王丸の元服の議が三鶴城にて行われた。
当主である正道は出席せず、必要最低限の人員で略式で行われた儀式であったが、虎王丸は十分だと思った。
まだ髪が短い虎王丸は、仕方なく
ピカピカに磨かれた鏡台の前に座り、
そして黒漆の塗られた烏帽子を被せられた虎王丸は、元服名を芦澤家の
この時より、虎王丸は芦澤正宗となり、一人の大人として認められた。
虎王丸あらため正宗は、加冠後の酒宴の饗応を上座からぼんやりと眺め、老人達が話してくる立身出世を祈る功名談を聞きながら、子供の時間は終わり、これからは芦澤家の一員としてこの三鶴という地を治めなくては、と酒で熱を持った頭の片隅で決心した。
身体の奥底から、熱い塊が強く脈動しているのを正宗は感じていた。
才蔵から貰った、あの梅の花が象られた刀が喜んでいるかのように熱を持っているのを、妙な感触だなと思いながら悪くはない、と正宗は胸をそっと撫でたのだった。
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