幕間

幕間:怪僧は虎を弟子にとる

 一五九四年・瑞祥歴五年の四月。奥州一の大名の次男である芦澤虎王丸あしざわこおうまるは、遠い大和国奈良地方の法相宗興福寺に出家させられた。


 元服も果たさぬまま仏門に入ることになった虎王丸は、果心居士という風変わりな僧侶の元に弟子入りさせられた。あの芦澤家の嫡子ということで、寺側も師僧を誰にするか迷ったのだろう。


 果心居士は虎王丸を芦澤家の者という色眼鏡で見ることはなかった。体格の良いその僧侶はやる気があるんだかないんだか分からない声音で、「今までの過去は忘れて修行に励むんだぞ」と虎王丸の肩を叩きながら言った。


 虎王丸は師である果心居士から、僧名を「果慶かけい」と名付けられた。「果」は果心居士から、「慶」は興福寺出身の有名な仏師である「運慶」から一文字ずつ取って決められた。

 果慶、もとい虎王丸は、僧侶などお堂で経を読むか精進料理を食して、あとは仏に祈る静かな暮らしをしていると思っていたが、その想像はいとも簡単に砕かれる。


「もっと腹から声をださんか!!」


 仏門に入った虎王丸を襲ったのは、武士の鍛錬よりはるかに厳しい修行の日々だった。


 朝、日が昇る前に起きて掃除、経を読むときは声が小さいと怒鳴られ、礼拝のために三千回足腰を曲げては伸ばし、曲げては伸ばしを繰り返して腰と太ももと膝を痛め、参拝のために荒れた山道を駆け、出てくる料理は残すのはもちろん音を立てては駄目で、作法を少しでも間違えれば怒鳴られ、何度も棒で殴られ、罰則として写経を命じられた。

 冷遇されていたとはいえ、一大名の嫡子であった頃は、食事は座っていれば出され、掃除も身の回りの世話も従者がやってくれていた。しかし修行僧の今は、湯を湧かすのすら自分でやらなくてはいけない。虎王丸はここで初めて火の付け方と料理を学んだ。

 その中でも豆腐の肉餅ハンバーグは、さっぱりとした肉に似た味がして、果心居士や他の僧侶に人気のある料理で、虎王丸はよく作るはめになった。


 あまりの厳しさに郷愁の念を抱く暇などなく、経を覚え、作法を覚え、さらに修行に付いていくために体力もつけなければならない。虎王丸は過酷な修行のせいでげっそりと痩せていく己の身体を鍛えるべく、僧兵に交じり槍や薙刀の訓練を開始した。


 興福寺は代々大和国の守護を任されている。故に僧兵の数が多く、練度もその辺の田舎武士より桁違いに高い。

 僧兵は衆徒しゅうととも呼ばれ、興福寺の御家人のようなもので、それぞれの領地を治め、興福寺に年貢を収めていた。検地によると、知行二万石は越える。下手な小国より石高が高い。

 あの有名な十文字鎌槍流派の宝蔵院流槍術は、興福寺発祥の武道である。それくらい武術に長けている興福寺は、比叡山延暦寺とあわせ、「南都北嶺なんとほくれい」と呼ばれ寺社勢力の強さを称えられた。


 そのような武力を持つ興福寺の僧兵は、皆筋骨隆々で、重たい槍や薙刀を棒きれのように軽く扱う。

 虎王丸も芦澤家にいたときに自己流で鍛えてきたつもりだったが、ここは次元が違う。基礎的な筋力トレーニングを他者の倍以上こなさなければ、とても追いつけない。


 毎日の厳しい超体育会系な修行のほかに、僧兵の鍛錬も加わり、虎王丸の身体も精神も悲鳴を上げ、気を失うことも多くなった。時にはこんな所から逃げ出したいとさえ思ったこともある。だが、そんな時心の支えになったのは、必ず芦澤家に戻ってやるという決意と、自分を助けてくれたさやという忍びの娘の姿であった。


 虎王丸は、自分は性に関して淡泊な方だと思っていた。もちろん武士の男として最低限の性教育は受けていたし、十二の時精通が来ると、乳母を相手に

 家の繁栄のために、跡継ぎを作るのは一番重要なことである。次男とは言え、いつかはどこぞの姫をもらい子を作らなければいけない。

 しかしどんな美しい女を見ても、虎王丸が劣情を催すことはなかった。二つ上の兄など色狂いで、男も女も手当たり次第手を付けているというのに。

 惚れた腫れたなどという恋愛は、身分の低い民達の嗜みだ。武士は感情を露わにするのははしたない、と教わっている。男女の駆け引きは戦と同じで、必ず損得勘定が付いてくる。どこの娘を嫁に貰うかは、その家の規模や勢力を考慮し当主が決めるもので、そこに本人の意思など介入しない。それを寂しいとも悔しいとも思わない。そういう教育を受けてきたのだから。


 だが、あの冬の山でさやという目の光る娘に助けられてから、虎王丸はおかしくなったようだ。


 眠れない夜、気がつくとさやのことを思うことが多くなった。足を折った自分に肩を貸してくれた時の横顔、赤熊に向かっていく時の凜々しい顔つき、照れたように礼を言ってきた時の赤く染まった彼女の頬。どんなに頭を振っても、さやの姿は頭の隅にいつもこびりついており、時々夢にまで出てくるようにまでなった。

 その時、彼女は着物をはだけていてほぼ裸で、何故か自分とねやにいるのだ。


「……っ! はっ!?」


 夢から覚めた虎王丸は、自身の股間がのを感じ、彼女を汚してしまった罪悪感に酷く落ち込んでしまう。

 僧侶は煩悩を捨てなくてはいけない。女の夢を見て夢精するなど修行が足りない証拠だ。虎王丸は念入りに経を読み、僧兵と共に修行に励み、座禅を組んで欲望を捨て去ろうと努力した。


 だが、どんなに頭を空っぽにしても、夢にさやが出てくる。


 何故自分は一度会っただけの忍びの娘にここまで固執するのか。きっとそれは、彼女がどことなく母に似ているからだろう。

 母は、虎王丸が蟄居を命じられていた最中に亡くなった。葬儀に出ることは許されなかった。虎王丸は母の死に目に会えず、菩提寺へ行くことも禁じられ、ただ心の中で母の供養を願うのが精一杯だった。


 大名の正室らしく、母は強くて優しい方だった。女性としてのきめ細やかさと、武家の女の強かさを併せ持つ仁愛の方だった。虎王丸と兄の正道は母から沢山の愛情をもらった。長男、次男と差別せず、均等に、平等に二人の子を愛した。少なくとも虎王丸はそう思っている。


 男女の恋愛を自分とは縁の無いことと思っていたのに、性には淡泊なほうだと思っていたのに、母に似た強さを持つさやに、俺は欲情してしまっている。恋、とはこのことをいうのか。


 だとしたら何という厄介なものだろう。どんなに忘れようとしても、努力すればするほど劣情は増していき、熱病に冒されたように身体が熱くなる。どうしたらいいのだ? この煩悩をどうすれば捨てられる――?


「無理に捨てようと思うからこそ、余計に苦しむのだ」


 ある日、師である果心居士に相談したところ、そんな答えが返ってきた。


「お主はその娘を汚らわしいもの、と思っているのか?」

「い、いえ………」


 虎王丸は頭を振った。汚らわしいのは劣情を催している自分であって、決してさやではない。


「欲を完全に消すことなど、人間には出来ぬ。煩悩を捨て去るのではなく、煩悩と上手く共存するのだ」

「煩悩と、共存……?」


 目を白黒させている虎王丸に対し、果心居士は面白そうに笑って見せた。


「果慶よ、偉い坊主ほど強い煩悩を抱いているものだぞ。良い般若湯が飲みたい、旨いものが食いたい、美しい稚児を侍らしたい――どんなに修行しても、それらの欲は消えぬ。ではどうするか? それを邪な考えと切り捨てず、自身の一部として認めるのだ」


 煩悩を捨てるのでは無く、自身の一部として認める……。つまり、俺がさやに惚れている気持ちを抑え込むのではなく、それも俺を構成しているものとして許す、ということなのか?


「師も、そのような煩悩と共存しているのですか?」

「おお。儂だけでは無く高位の坊主は皆そうだ。儂とて美女を見て何とも感じぬことはないし、毎晩の般若湯は楽しみだしの。欲をなくしては生きられぬぞ」


 す、と虎王丸の心が軽くなった気がした。さやを思うこの気持ちが間違ったものではないと師に言われ、忘れる必要は無く、ただ、その気持ちを持つ自分も間違いなく芦澤虎王丸、もとい果慶なのだと分かり、頭の中がスッキリと晴れていった。


 それから果慶こと虎王丸は修行に精を出した。さやのことを思う気持ちはそのままに、心身ともに確実に強くなっていった。

 僧兵との乱取りも、段々と勝つことが増えていった。修行の成果が現れたのか、筋肉もついてきて、数ヶ月前の痩せていた頃とは桁違いに体格がよくなり、背も伸びた。


 そのおかげで、虎王丸をで見る者もいなくなった。

 元々十六という、稚児としてはが立っている歳であったし、右目が白濁して、痘痕あばたも少しある美形では無い自分を男色相手に選ぼうというものは少なかった。

 に誘われる危険性もやっとなくなり、虎王丸は安心して夜眠りにつけるようになったのだった。


 ※

 ※

 ※


 そうして八月になり、寝苦しい夏の夜、そいつは現れた。


「若」


 厠に立ち、自室に戻った所、暗闇に一人の男が控えていた。

 忘れもしない、白銀の髪と透けるように白い肌、そして薄ぼんやりとした紫の瞳――


「才蔵……か?」


 何故お前がここに? と問う暇もなく、才蔵は静かにこう告げた。


「若。お父上が亡くなりました」


 静かに、才蔵が告げる。虎王丸が出家する前から床に伏せりがちだった父。芦澤家当主・芦澤正俊まさとしが亡くなった。


「そうか……父上が……」


 不思議と悲しいという気持ちは起こらなかった。冷たいと思いつつ、どこかでこの事態を予測していた自分がいた。父が亡くなったということは、当然兄である正道が次代の当主に就くのだろう。


「次のご当主は、兄君である正道殿が就く予定ですが、拙者がこうしてやってきたのは、虎王丸様、貴方に還俗げんぞくしてもらいたいという伝言を言付かってきたわけでして」

「還俗だと!?」


 虎王丸が興福寺に来てまだ四ヶ月しか経っていない。しかも出家させると決めたのは父と兄で、自分を恨んでいる兄が今更呼び戻したりなど考えられない。


「先代からの重臣達の中には、兄君が当主に就くのに反対している者が少なくないのです。それで、貴方様に白羽の矢が立ったと」


 ふと、この四ヶ月、すっかり忘れていた兄の顔を思い出す。確かに兄は短気で苛烈、さらに色狂いと性格に難ありで、虎王丸の傅役もりやく他、兄は当主の器では無いと反対してた家臣達が確かにいた。おまけに、父が倒れたのは兄が毒をもったからではないかという噂まで立っていた。


「だからといっていきなり還俗とは……。寺にも慣れてきたところなのに」

「兄君の行動や言動に憤慨し、芦澤家から離反した者も多く、今の芦澤家は分裂の危機にあります。還俗してもいきなり虎王丸様が当主になることはなく、拙者を寄越した重臣は、まず貴方様に三鶴を治めて頂きたいそうです」

三鶴みづる?」


 ……て、どこだっけ?


 虎王丸は頭の中に地図を浮かべ必死に三鶴という国を思いだそうとしたが、どこにあるか分からない。芦澤家の領地は広大だ。奥州仕置きで更に領地が増えたと聞く。その三鶴という国も、豊臣秀吉に改易か領地没収されたどこぞの小国なのだろう。


「……今ここで答えは出せない。師にも相談しなくてはいけないからな」

「拙者は、若が芦澤家に戻ってくることを祈ってますよ。ちょうど良いです。この刀を差し上げます」


 才蔵はそう言うと、懐からを取りだし、虎王丸に渡す。

 刀を受け取った虎王丸は、苦笑しながら「僧侶がこんなものもてる訳ないだろ」と言い返す。


「その刀は霊験あらたかな宝刀です。元々芦澤家の所有するものでしたが、訳あって拙者がお借りしていたので、こうして若に返せて良かったです」


 言いながら才蔵は、虎王丸に向かって指を動かしたかと思うと、手に乗っていた宝刀は、微かに光りながら虎王丸の身体の中に入っていった。


「な、何をしたんだ!?」

「その宝刀が若を守ってくれるよう、若の体内に収納させて頂きました。これで誰に咎められることはありません」


 茶目っ気たっぷりに才蔵が片目を瞑る。宝刀を体内に入れられた虎王丸は、身体の奥深くから熱を持った刀が脈動しているのを感じた。


(本当に俺が……芦澤家に戻るのか)


 故郷を思い出して最初に浮かんだ顔は、父や兄では無く、さやの顔だった。

 このまま還俗すれば、またさやに会うことが出来る……?


 要件を告げた才蔵は、静かに興福寺をあとにした。


 真夜中に、こっそりと寺から才蔵が去って行くのを、果心居士は月明かりの下ではっきりと見、これから一波乱ありそうだと顔をしかめたのだった。

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