第三部・第一章:一五九四年・夏・月の里

第七十一話:束の間の休息

 里にいる時のさやの朝は早い。

 朝。卯の刻午前五時~七時

 日が昇り始め、鶏が鳴き、鐘が鳴らされるとさやは起床する。

 火の一族の屋敷で、さやと同じ「つちのえ」の位の忍びが一部屋四名程に分かれて寝起きしている。起床すると寝間着から装束に着替え、顔を洗い、歯を磨き、厨房で湯を沸かし、白湯を飲んで兵糧丸を食べ、軽く柔軟すると、さやは外の訓練所に移動する。


 訓練所につくと、さやはまた柔軟をした後、訓練所の外周を走り始める。五週ほど走った後、設置されているアスレチックのような器具を使い、跳躍や昇降をして身体を温める。終わった後も柔軟は欠かさない。


 辰の刻午前七時~午前九時

 朝練で掻いた汗を拭いて、広間にて朝餉。朝餉のメニューは階級や年齢により異なる。今日のさやの朝餉は、胡麻入り雑穀米と味噌汁、かやの実に卵焼きだ。卵焼きは好物なので嬉しい。

 食べ終わった後、厨房にて皿洗いをし、それぞれの仕事や鍛錬をする。午前中は勉学に励む者が多いが、今日のさやは、洗濯を命じられている。


 洗濯場には、二つの大きな円筒状の器具が置いてある。これは忍具制作班が開発した洗濯機である。

 筒の中に洗濯物と水と、灰汁あくやエゴノキの実、無患子むくろじの樹皮の粉を洗剤として入れる。

 そして蓋をし、把手を掴んで中を丸くかき混ぜる。何度も回して、逆方向にも回す。それを五十回ほど繰り返し、筒の下の方の蓋を開けると、汚れた水が出てくる。上から中蓋を押して洗濯物を圧迫し、更に脱水させる。それを洗濯係の者がお互いに交代しながら水が汚れなくなるまで行う。これなら手や足にあかぎれを作ることなく、また腰を痛めずに洗濯出来る。絹織物は手洗いしなくてはならないが、大半のものはこの洗濯機で洗える。

 すすぎが終わり、脱水させると、しわを伸ばして干していく。手や足にあかぎれを作る心配はなくなったが、水に入れた洗濯物は重く、把手を掴んで回すのに結構な力がいる。さやは手首が少し痛くなった。


 洗濯が終わると、次は鳴り物の練習。忍びは芸人に変装して旅をすることもあるので、芸事も習わなくてはならない。今日は笛と鼓、それと三弦さんげんの練習だ。三弦は後の三味線の前身であり、三線さんしんとも言う。中国から琉球貿易を経て伝来し、この時代から徐々に流行っていく。かの豊臣秀吉は側室の淀君に「淀」という三味線を作らせて贈っている。

 さやは、琵琶より軽妙な音を出す三弦の感覚になれず苦労した。とりあえず本調子の調弦のやり方を覚え、先生の演奏を真似て弦を鳴らす。三味線に使われる皮は猫やニシキヘビなどだが、ここ奥州出羽では犬の皮を使う。津軽三味線の前身であり、通常の三味線より力強い音が出る。


 鳴り物の授業が終わると、ちょうど正午の鐘が鳴る。ここで軽い昼餉をとり、午後からは身体を使った鍛錬だ。


 さやは訓練所に行き、師である紫月から鍛錬を施される。今日の訓練は鬼ごっこである。紫月が鬼となり、さやは捕まらないよう訓練所にある小さな山の中を逃げる。痕跡をなるべく残さずに逃げる、忍びに必要な遁走術と陰行術おんぎょうじゅつ、さらに瞬発力や持久力も上げられる訓練だ。


「では、はじめ!」


 紫月の合図で、さやは全速力で山の中を駆ける。教わった通り足跡などを付けないよう、木の上を跳躍して移動したり、草や枝をなるべく踏まないよう走る。

 合図から三十数え終わったら、鬼である紫月が動き出す。ほとんど音も無く走り出し、標的を探す。

 痕跡を探すが、以前より見つけにくい。さやの成長に感心しながら、紫月は耳を澄ます。上手く隠れてはいるが、西北西より微かに物音が聞こえる。紫月はそちらへと走り、さやは捕まらないよう必死に逃げる。

 そうして四半刻約三〇分後、紫月に背中を叩かれる。これで鬼に捕まってしまった。さやは悔しそうに息を吐く。


「以前より長く逃げられましたね。痕跡もほとんど分かりませんでした」


 紫月が今回の訓練についての総評を述べる。捕まったのは悔しいが、前より上達していると聞き、さやはぐっと拳を握る。


 次はアクリの調教だ。さやはアクリの顎の下を撫でて、目の前に餌を置く。アクリは食べようとするが、「待て!」と手をだして、さやはアクリに命じる。アクリはそのままじっとして、主人の許可の命を待つ。

 きちんと言うことを聞いているのを確認して、「よし」とさやはアクリに餌を食べても良いと許可を出す。アクリは尻尾を振りながら餌を食べる。今日の餌は鶏肉である。産卵成績の良くない鶏を潰したものだ。


 アクリは今年で四歳。人間の年齢だと約三十二歳。もちろん犬種によって推測年齢は異なるが、恐らく雑種のアクリはもう自分より年上の成犬だ。だけど体型は子犬の時からあまり変わっていない。さやが胸に抱けるくらいだ。

 これは忍犬の肉体活性の術の副作用で、普段は細胞分裂が抑えられて、老化が凄く遅くなるらしい。いざというときにアクリは急激に成長して、さやを乗せられるほど大きくなれる。だがその時に細胞分裂が急激に進み、術が解けたときには一歳ほど成長する。

 今まで肉体活性の術をアクリが使ったのは三回ほど。この里に来たとき、さやを救うために一回。もう一回はさやが忍びとしての修行中、紫月が丸薬を与えて術を発生させて一回。そして最後の一回は、奥羽山脈での赤熊退治の時で、これで合計三回だ。

 肉体活性の術は、少なからずアクリの身体に負担を強いる。任務のためとはいえ、こんな小さい身体に無理をさせているな、とさやは少し胸が痛む。


 次に様々な毒の匂いを覚えさせ、口に運ばないよう躾ける。忍びは番犬を無力化するため毒を餌に混ぜて食べさせることもある。そういったことがないよう、様々な毒の匂いを覚えさせる。

 特に馬銭マチンは番犬対策として使われる有名な毒だ。馬銭の他、銀杏、ノウルシ、トリカブト、土の中に埋めて放置した宿茶の毒など、食べられる餌と交互にアクリの目の前に出して、毒を食べそうになったら「駄目」と手で押さえてアクリに覚えさせる。忍びと同じく、忍犬も確実なもの以外口にしないよう調教する。


 これらの訓練を、アクリは難なくこなした。問題は彼がという点だ。

 忍獣班には、メスの忍犬もいる。番犬に使われるのはほとんどがオスの犬なので、その中に異性を入れて注意を引き吠えられないようにする偶犬術ぐうけんじゅつという術が忍びにはある。

 偶犬術に引っかからないよう、忍犬は毒の匂いを覚えると同時に、異性の犬に興奮しないよう調教しなくてはいけない。

 しかしアクリは雌を見つけると目の色を変えて、尻尾を振って近寄ろうとする。それを何度もさやは阻止して叱る。繰り返すと最初の頃よりは大人しくなったが、やはりまだ雌犬に気をとられがちだ。


(そういえば、駒姫にも凄く懐いていたな)


 山形城で、駒姫の足元にじゃれていたアクリを思い出し、人も犬も男は美女に弱いのか、とさやはため息を吐きながらアクリを胸に抱くのだった。


 ※

 ※

 ※


 酉の刻午後五時~午後七時

 日が西に傾き始めて、一日の日課をこなした忍び達は、夕餉を食し、浴場で湯浴みする。

 湯に入れる順番も、階級によって違う。階級が上の者から先に入り、下の者は湯張りや追い焚きをしなくてはならない。


「あらぁ、これから湯浴み?」


 さや達が浴槽に水を入れていると、顔を上気させた澄党の党首がゆらりと現れる。思わずさやは膠着し、ぎくしゃくしながら蹲踞そんこし頭を下げる。

 里長と上役達、そして「きのえ」の位の各党の党首は、それぞれの屋敷の内湯にてもう湯浴みを済ませている。澄党の党首も湯上がりのようで、くせっ毛を手ぬぐいでまとめ、水色の単衣ひとえといった軽装だった。


「ちょうどいいや、今あたし機嫌がいいから、お湯を作って上げる」


 そう言って彼女は浴槽に張られた水に手をかざす。さやの横を通るとき、良い匂いがした。恐らく藤袴フジバカマだ。党首ともなると良い入浴剤を使えるんだな、とさやは少しだけ羨ましく思った。


 党首がかざした手を動かし特定の文様を描くと、水が蠕動し、温度が上昇する。浴場内に湯煙が発生し、あっという間に浴槽の水は湯へと変貌する。さや達は息を呑む。


 これが、澄党の党首、瑞乃ミズノの血族だけが行使できる術。液体の温度を自由に操れる術である。


 月の里の術は、血を触媒とし術式を書いて発動するのが基本だが、例外として血脈による術は血で術式を書く必要は無く、ただ手をかざしたり、特定の印や文言を唱えるだけで発動できる。

 瑞乃が女性初の党首になれたのも、この異能のおかげである。彼女の血族だけが行使できるこの術を、瑞乃は血族一の精度で発動できる。具体的には液体の温度を、摂氏二℃から九十八℃まで自在に操ることが出来る。

 この術のおかげで、真夏でも冷えた水が飲めたり、今のように一瞬で湯を沸かせる。しかし液体の組成が複雑になるほど、また液体の体積が大きくなるほど術者の負荷が増していき、求められる精度も高くなる。

 例えば人間の血液は真水より複雑な組成なので、温度を一℃上げるのにも大変な負担となる。しかしこの術は忍術開発や薬品の開発に欠かせなく、水の一族の長でありながら、瑞乃がよく風の一族の管轄である医療班や実験室に出入りしているのは、この術が必要な時が多いからだ。


「さ、湯が湧いたわよ。四十二℃で良かったかしら?」

「あ、ありがとうございます」


 さや達は深く頭を下げる。瑞乃は妖艶に笑いながら、藤袴の香りを残して蝶々のように浴場から出て行った。

 きっと藤袴を手に入れられたから機嫌が良かったんだろうな、とさやは思い、浴場の外で待っている者に「湯が入りましたよ!」と声をかけたのだった。


 ※

 ※

 ※


 子の刻午後十一時~午前一時

 夜はとっぷりと深くなり、夜勤の者以外は眠っている。

 火の一族の屋敷の近くにある長屋。そこは紫月とお千代の家であった。


 里では、一定の階級以上の夫婦や家族には家が用意される。「ひのえ」の紫月とお千代の家は、六畳一間の小さい家だったが、二人にはちょうど良い広さだった。

 その一間の上に敷いた薄いしとねの上で、紫月とお千代は全裸で汗を掻きながら横になっていた。

 ちょうどお千代が里に帰投し、紫月と四ヶ月ぶりに顔を合わせた彼女は、家に帰るなり紫月の唇を奪い、褥に押し倒した。

 その後はお千代の柔らかい豊満な身体に飲み込まれ、久しぶりに紫月はお千代と交わったのだった。


 さやはもう紫月とお千代が夫婦なことを知っている。「私は大丈夫だから、今日は紫月はお千代さんと家に帰りなよ」とさやが言うので、家に帰るとこれである。


「女房を数ヶ月も一人にしておいたんだから、今夜は寝かせんからね」というお千代は、激しく紫月の身体をむさぼった。久しぶりに味わう女の味に、紫月の身体は正直に反応し、少し早く果ててしまった。


 ふと、お千代との初夜を思い出す。お千代は紫月より三つ上で、しかも前の夫を亡くしている。なので床の上の経験はお千代の方が上で、青臭い若造だった紫月は、初夜の時緊張しすぎて上手く

 男として凄く情けない気持ちになり落ち込んでいた紫月を、お千代は優しく受け止めてくれた。

 そして次の夜、今度こそはと緊張をほぐすため酒を飲んでリベンジした紫月は、途中まで上手くいってたのに、いざ本番となると、また紫月のモノは萎縮したまま怒張しなかった。

 またしてもの失敗に、お千代は笑うことなく朝まで添い寝してくれた。結局、三回目で肉体的に夫婦になれた。その時の経験のせいなのか、今までお千代に床の上で勝てたことなどなかった。房術に長けたお千代の手で様々な性技と快楽を覚えさせられた。

 そのうち出来た子が産まれて七日で亡くなってからは、床入りの回数はぐんと減った。今でもお千代は、里にいるときには我が子の冥福を小さな仏壇へ祈り、線香をあげるのを欠かさない。


 あれからもう何年が経ったか。心の傷は段々と癒えてきて、二人は床入りも普通にするようになった。もう子は出来ないが、こうして身体を重ねることで、お千代は心の傷を忘れようとしているようにも見えた。


 銀梅花ぎんばいかが象られている香炉から、甘い匂いが漂ってくる。お千代が用意したその香を嗅ぐと、不思議と気持ちが高揚してくる。精力がみなぎり、血がたぎるような――


「……お千代? この香は……」


 紫月の厚い胸板をまさぐっていたお千代は、悪戯がばれたかというように、紫月の股間に手をやる。

 交わったばかりで縮んでいたそこは、いつの間にか


「おい、まさか!」

「今夜は寝かせんといったね。まだまだ夜は明けんよ。あっしはまだ満足しておりんせん」


 イチモツをいじられながら、紫月は思い出した。匂いで幻術を起こしたり人の能力を高めるのに長けた血族がいたことを。

 その一族は優れた調香技術で様々な香を作り、香りで敵を撹乱したり幻を見せたり、時には味方の能力を高める香さえ調香するらしい。

 この香炉から匂う甘い香り。恐らく強い催淫効果がある。気づかない俺はなんて間抜けなんだ。


「お千代! お前はいつの間に!」


 文句を言ってやろうと半身を起こすと、紫月の顔はお千代の豊満な胸に埋まる。

 お千代がぐいぐいと頭を押さえ込んで、紫月はますます柔らかな肉に埋まり、息が苦しくなる。


(……まあ、でもいっか)


 悲しいが紫月は男である。女のに挟まれると、すべてのことがどうでも良くなってしまう。


 香のおかげなのか、その晩紫月とお千代は八回も交わってしまった。

 色艶の良い肌を朝日に煌めかせながら笑みを浮かべるお千代とは対照的に、精を搾り取られた紫月は、今までのどんな過酷な任務よりも体力を消耗し、げっそりとした顔で一日中寝込んでしまったという。

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