一五九四年・七月:山形城
第五十二話:帰投・山形城
さや達が芦澤家の刺客達を退け、坂ノ上家を裏切った
山形城に帰投した最上義明と最上家家臣達の中に、紫月とレラもいた。さやは気を失ってからまだ目を覚ましていない。
最上家の医者にさやを診てもらったが、左肩と右太ももの打撲の他に、軽い切り傷が数カ所あるだけで、命に別状はないらしい。さやが目覚めないのは
ガリガリガリガリ……
さやの寝室で、紫月は眉にしわを寄せながら小さな仏像を彫っている。気持ちを落ち着かせるために始めた手慰みのようなものだったが、彫っても彫っても気分が晴れることは無い。それどころかあの時の光景が一層輪郭を濃くしてくるような気がして、紫月の心はささくれ立ってしまう。
自分は何に怒っているのだろう? 誰に? 殺戮を楽しんでいたさやに? 彼女を襲った大定に?
いや違う。これは、さやを守れなかった自分への怒りだ。
自分が神旗争奪戦が終わっても気を抜かずさやの傍を離れなければ、呑気に先に入浴などしなければ、もっと早くさやの元へたどり着いていれば、こんなことにはならなかった。
返り血に塗れながら笑みを浮かべていたさやの姿を見て、紫月はかつて最終試験で指定された抜け忍を捕まえ殺し、愉悦を感じていた十五歳の自分の姿と重なってしまった。
忍びは、殺戮に悦びを感じてはならない――師である
命の奪い合いが当たり前のこの乱世だからこそ、忍びは命の価値を知り己を律さなくてはならない。感情に溺れてはならない。自身を粗末に扱ってはいけない。殺人は任務遂行の手段の一つであり、命を奪うからこそその行為の重さを知り、責任の重さを知らなくてはいけないと何度も教えられた。
あれから何年経ったか。任務と修行を重ね、自分はあの頃より成長したと思っていたが、まだどこか殺人を楽しんでいる部分も感じていた。この年になっても、まだ俺は未熟だ。主人を守り、正しく導くことも出来やしない――
「あの……」
寝室の襖を少し開け、レラが紫月の顔を伺う。紫月は仏像を彫っていた手を止め、振り返る。
余程自分は不機嫌な顔をしていたのだろう。レラが怯えたように身を竦める。
「どうした? さや様はまだ目覚めてないぞ」
「いや、
「俺は大丈夫だ。それより芦澤家の奴らがまたいちゃもんを付けてきたと聞いたが……」
大定綱義他、家の者が多数殺されたので、芦澤家は下手人のさやとレラを引き渡せと二日前に最上家に詰め寄ってきた。
が、最上義明は、さやとレラは襲われたから応戦しただけだと正当防衛を主張し、二人を守っていた。
芦澤家も、負けた腹いせに刺客を送ったなどというのは外聞が悪く、あまり強気には出てこないらしい。
「さっき使者が帰ったけど、義明公は頑として譲らなかったみたい。結局、全部大定綱義が勝手に暴走してやったこと、で片が付いたけど……これで良かったのかな?」
レラが罰が悪そうにさやの顔と紫月の顔を見比べる。レラは襲われたところを逃げただけなのだから罪は無いと思うが、さや一人に刺客の相手を任せてしまったのに責任を感じているらしい。
「俺がきちんと戦えていれば、さやは……」
「いや、レラ、お前は悪くない。あまり自分を責めるな」
「でも、ニシパだって……!」
ニシパだって自分を責めすぎだ……そうレラは言いたかった。だが紫月の険しい顔を見るととてもそんな言葉は言えない。
レラは顔を俯けながら、持ってきた皿を差し出す。藍色の丸い皿には、見事な桃が二つ並んでいた。
「義明公が差し入れにって。これは行商人から買った三鶴でとれた桃だそうだ。三鶴ってさやの故郷だろ? これを見たらさやは喜ぶんじゃないかな」
紫月は桃を手に取り、まじまじと見つめる。レラの言う通り、三鶴は桃の名産地だ。柿より桃や梅の方がよく生る。
寒冷な奥州では柿は自生できない。柿は亜熱帯性の植物であるため寒さに弱い果物だからだ。現代でも北海道では道南でしか柿はならない。
三鶴にとって梅・桃・桜と鶴は神聖なものとして扱われ、特に桃は古事記の時代から魔を払う果物として名高い。しかしバラ科の桃は病気に弱く、無事に収穫できた僅かな桃は坂ノ上家などの大名しか食べることが出来なかった。
紫月は食べたことはないが、さやは大好物で、桃を食べるときは無表情なさやが目を輝かせる数少ない機会だった。
「色艶も良く、実も大きい。良い桃を選んだようだな」
ふ、と紫月の張り詰めていた心が僅かにほぐれる。今が旬の桃を見て、さやと三鶴にいた時にあったあることを思い出したからかも知れない。
「ありがとう、レラ。これを食べたら少し休ませてもらう。ほら、これやる」
紫月は彫っていた仏像をレラに渡す。菩薩を彫っていたはずなのに、紫月の心を反映したかの如く、それは憤怒の不動明王になっていた。
「……いらねえよ。しかもどれだけ彫ったんだよ」
紫月の周りには、掘り終わったいくつもの仏像が転がっていた。そのどれもが怒りの表情を浮かべている鬼神ばかりだ。
「桃のお礼に義明公や駒姫にもあげてやれ」
「こんなの、姫様は怖がるだろ」
確かにな、と紫月は口元を緩ませる。小刀で桃を切ると、甘い香りが部屋一杯に漂う。
香りを嗅いで、紫月の脳裏にあの時のことが鮮明に思い出される。
あれは、俺がさや様付きの忍びになって、間もない頃……
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