第二十九話:初花

 赤い血のようなものがついた腰巻きを見て、さやの頭は混乱する。

 最初はどこか怪我でもしたかと思い、足の内側を調べたが、どこにも外傷は見当たらない。お腹がズキズキと内側から痛むだけで、皮膚はどこも痛くない。

 なら、疫病だろうか? この時代、疱瘡ほうそう労咳ろうがいなど沢山の疫病が蔓延している。疱瘡は以前かかったことがあるから違うだろう。疱瘡は一度かかったら二度はかからないことは経験則ですでに知られていた。

 労咳も、咳が出ていないからおそらく違う。なら別の疫病か? 皆と同じ食事を取り、同じ水を飲んでいたが、自分に最初に症状が現れたのだろうか? どの施設も常に清潔な状態を保っている月の里では、ネズミすら見たことが無いし、もちろん触ることもなかった。全身の肌を見たが、特に爛れたり発疹があったりはしていない。


(疫病ならば、自分は隔離されなければならない……)


 さやはふらつく頭を押さえながら、自分の身体になにが起こっているのか色々と憶測を立て、どのような行動をとればいいか一生懸命考える。出血以外に身体に目立った異常はない。昨日から少し頭がぼーっとしているが、今のところ吐き気もないし身体が熱を帯びている感じもない。

 そこまで考え、さやは急にもよおしてきてしまった。かわやに居て身体が条件反射的に反応してしまったのかもしれない。さやは用を足しながら、便が妙に水っぽかったのを見て、やはり疫病か、と顔色をまた青くする。


 厠を出た後、手水ちょうず場で手を丁寧に洗いながら、腰巻きをどうしようかと思った。何か異常があれば監視役のお千代に報告しなければいけない。しかしさやは汚れた腰巻きを見られるのが恥ずかしい。それに疫病にかかってしまったのなら、自分は誰とも接触してはならない。いや、しかし……もしかしたら……。


「さやさん?」


 後ろからお千代が声をかけてきた。さやは驚いて汚れた腰巻きを背に隠し、お千代から距離をとった。疫病が伝染らないようにだ。


「厠が長いからどうしたのかと思ったら、一体、後ろに何を隠していんす?」

「いや、これは……」


 じりじりと近づいてくるお千代から必死でさやは逃げるが、いつの間にか壁際に追い詰められ逃げ場がなくなった。


「さあ、早く見せんさい」

「お千代さん、近づいちゃ駄目!」


 後ろに隠した腰巻きを取られそうになり、さやは思わず手を突き出し叫んでしまった。お千代の柳眉りゅうびが歪む。


「わ、私、疫病にかかっちゃったかもしれない……」


 口元を手で覆いながらそう告げるさやに、お千代は顔を険しくする。月の里は狭く基本的に外界から遮断されている。疫病にかかった者が現れたなら、一刻も早く対処しなければ里が全滅してしまう。

 お千代はさやから距離をとって、同じく口元を袖で塞ぎながら、さやから具体的な症状を聞く。咳や発熱は無く、皮膚の発疹や爛れも無く、ただ便が少し緩く、腰巻きを赤く汚してしまったらしい。


「……さやさん、その腰巻きを見せんさい」

「え……いや、でも……」


 さやは口ごもる。汚してしまった腰巻きを見せるなんて。あとで自分がこっそり洗うつもりなのに。


「いいから、それを床においてこちらに寄越しんさい」


 お千代にキツい口調で言われ、さやは恥ずかしそうに身動ぎしながら、汚れた腰巻きをたたんで床に置きそっとお千代の方へ滑らせて移動させた。お千代は腰巻きをつまんで拾い、拡げてまじまじと観察する。汚れた部位が露わになり、さやは恥ずかしさに顔を赤らめる。


「……ううん、これは……」


 真剣な顔で腰巻きを検分するお千代の姿を見ていられなく、さやは顔を背ける。羞恥心が頂点に立ち、白い顔を真っ赤に染めながら、さやは思わず顔を手で覆う。排泄の様子を聞かれるよりもっと恥ずかしい。


「これは、かえ? いや、でも……」


 お千代は顎に手を当てて、何やらブツブツと呟いている。はつはな? なんだろう? どこかで聞いたことがあるような……。

 腰巻きの検分が終わったお千代は、汚れた腰巻きを預かり、さやに白の腰巻きに代えるよう言う。


「まだこれだけじゃ、疫病かか判断がつきんせん。次に腰巻きに血がついてたら、あっしに見せんすよ? いいね?」

「私は、普通に過ごしてていいの?」

「万が一ということもありんす。今日はお勤めはお休みにするから、誰とも会わないように納戸なんどで待機しんさい。食事は運んであげるから」


 お千代はそう告げ、代わりの白い麻の腰巻きを持ってきた。さやはそれを受け取り、白だとますます汚れが目立ってしまうと思ったが、お千代はあえて色が分かりやすい白にしたのだ。

 さやは使わなくなった家具や敷き布、着物が仕舞ってある行李が積まれている納戸に手燭を持って入り、膝を抱えた。

 もし自分が疫病なら、この先どうなってしまうのだろう? 疱瘡にかかったときのように苦しむのだろうか? まだ何も為していないのに、ここで終わってしまうのだろうか? 両親の仇を討つことも坂ノ上の血を残すことも出来ず、この納戸の中で朽ちるのだろうか?


(やだ、まだ死にたくない)


 死に方を選ぶことなど誰も出来ないのは、果心居士達と死体を埋葬したときに実感したが、納得はしていなかった。ここで死んだら、自分を生かすために死んでいった者達が浮かばれない。死は天命と言っても、こんな中途半端な所で死んだら、あの世にいる父と母に顔向け出来ない。


 病で苦しんで死ぬくらいなら、いっそ自害したほうが潔いか? そう考えさやは頭を振る。確実に自害する方法ならいくつか知っているし、ここならそのための道具も調達しやすい。しかしそれは靡いてはいけない誘惑だ。


 寺院で果心居士に喝を入れられ、宝刀を受け継ぎ生きて復讐してやると誓ったが、死への甘い誘惑はいつも傍にあった。眠れない夜やふと一人になったとき、それは闇から手を差し伸べ、そっとさやに語りかけてくる。何故生きているんだ、死ねば楽になれる、何故そこまで苦悩する必要があると。


 その手を握ったらどんなに楽だろう。三鶴が焼け落ちる悪夢を見ることも、おかしな禁術が発眼してしまった瞳で見たくも無いものが見えてしまうことも、常に神経を尖らせることもしなくてよい。ぐっすり眠れて安らかな夢が見れるかもしれない。だがその誘惑をいつも断ち切っていたのは、自分が坂ノ上の末裔であることの矜持と、紫月からの思いだった。


 坂ノ上の者が、こんな誘惑に屈してはならない。それは戦で逃げるのと同じだ。今まで自分を守ってくれた紫月にも申し訳が立たない。これから自分を守るよう命じたばかりなのに、紫月はそれに答えてくれたのに、あるじが生きることを放棄するのは許されない――その思いが、さやを今まで支えてきた。


 鈍く痛む腹を押さえ、さやは再び身体を観察するが、肌に異常はなく、意識もしっかりしている。

 もうひとつだけ心当たりがあるのだが、は以前乳母から簡単に聞いていただけで詳しくは知らないし、を教えてくれるはずだった母や乳母ももう居なく、どのように対処していいか具体的には分からなく、さやもを認めたいような、認めたくないような複雑な気持ちなのだ。


 とにかく、今はお千代さんの判断に任せよう。さやは目を瞑り、ゆっくりと息を整えた。


 ※

 ※

 ※


 その日は結局一日中納戸で待機させられた。さやは三度腰巻きを変え、それらをお千代に提出した。最初は茶色がかっていたのに、段々と鮮やかな赤になっていき、量も多くなっていった。


 鈍い腹の痛みを抱えたまま眠りにつき、朝、納戸へとやってきたお千代は、赤い打ち掛けと朱色の小袖を持ってきて、「さやさん、おめでとうござりんす」と満面の笑みを浮かべ、これに着替えて広間に向かうように、と言われた。

 一体なんなんだとさやは目を白黒させたが、お千代はにこにこ笑いながら、「感慨深いことでありんす」と袖で目元を拭って見せた。


「お千代さん? 私は疫病じゃないの?」

「ああ、昨日一日里を調査したけどね、疫病が蔓延している様子はなかったから、さやさんの腰巻きを医療班に見せて、これは初花はつはなだってわかったんよ。おめでたいことでありんす」

「……初花て?」


 お千代は少しだけ目を丸くし、「……さやさん、初花のこと、お母様から聞いてない?」と不思議そうに尋ねてきた。


「……もしかして、初汐はつしおのこと?」

「ああ、さやさんの家ではそう呼んでたんね。そう、初汐。さやさんは大人の仲間入りをしたんよ」


 初汐……現代では初潮とも呼ばれるそれは、成熟した女性に初めて来た月経のことである。

 初汐はつしお初花はつはな初火ういたび……呼び方は地方や家によって様々であるが、月の里では初潮のことを初花と呼んでいた。


 この時代、女性は初潮を迎えて一人前とされ、男児で言う元服の儀である「裳着もぎの儀」を行った。これを行うことで婚姻が許される。

 腰結こしゆいに選ばれた者が吉日にうちぎの上から腰に裳を着せ、髪上げという髪を束ねて後ろに垂らす儀式を行うが、今日はお日柄が悪く、さやも初潮を迎えたばかりで身体的にも辛く、経血で袿を汚してはたまらない。


 月の里では、初潮を迎えた者は、赤い打ち掛けに朱色の小袖を着て、化粧をし、一族の屋敷の広間で上座に座り、皆に赤飯を炊いて祝う。

 興奮気味なお千代に白粉をはたかれ、紅をさされ、かもじを付けられ、あれよあれよという間に赤い着物に着替えさせられたさやは、広間に連れて行かれ、そこで焔党の党首を初めとする火の一族の者が任務についているもの以外勢揃いしていることに驚き、上座に座らされると、党首がさやに頭を下げ、祝いの言葉を述べてきた。お千代を含む他の皆も頭を下げてきたので、さやは申し訳ない気持ちになってくる。


 そうして赤飯とツマミと酒が運ばれてきて、党首がさやに酒を一献傾ける。濁りの少ない清酒を朱色の杯に注がれ、それを飲むと、さやの頭の奥がぼうっと熱を帯びる。

 その後は無礼講となり、皆は談話しながら赤飯を頬張り、酒を酌み交わす。さやは上座にてずっと座って居なきゃいけなかった。


 じくじくと痛む下腹を感じながら、ぼうっとなった頭で、自分は大人になったんだ……と思っても、なんだか実感が湧かなかった。


 初汐、もとい初花のことはもちろん乳母から聞いていたし、その時が来るのを楽しみにしていたはずなのに、いざ来てみると、こんなものか、と拍子抜けしてしまった。

 確かにこの一月半で自分を取り巻く環境は大きく変わった。三鶴は滅び、両親と乳母を亡くし、天恵眼が発動し、こうして月の里に来ている。その間に自分は成長したのかは分からない。果心居士に天恵眼を制御する術を習い、死者を弔い、紫月に鍛錬を少しだけ施されたが、自分が大きく変わったとは思えない。瞳におかしな禁術が発動しただけで未だに心は子供のままなのに、身体が先に成長してしまった。


(なんだか、ちぐはぐな感じ)


 小豆と黒ごまの混じった甘じょっぱい赤飯を頬張りながら、さやはこの広間に居る女児の何割が初花を迎えたのか、母と乳母の時はどうだったのか考える。母もこの腹の痛みを感じ、そして父としとねを共にし私を妊娠したのか、それはこれより痛かったのだろうかなどと考えながら、これの始末はどうやるんだろうと、お腹をさすりながら思った。


 ※

 ※

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 さて、広間での祝いの儀が終わった後、さやは普段着に着替えさせられ、赤いふんどしのしめ方と、月経の時の処置の仕方をお千代から教わった。

 ふんどしの股に当たる所に、綿を和紙で挟んだ、今で言う生理用ナプキンをあてがわれた。さやは肌袴は履いたことがあるが、ふんどしは初めて着用する。尻に布が食い込む感覚に違和感を覚えた。


 生理用品が発達したのは、二〇世紀に入った第二次世界大戦後である。それ以前、特に江戸時代以前の生理用品の記録は、はっきりとしたものは残っていない。それは、生理は“穢れ”であり、話題に出すことが憚られるものであるという考えが最近まで根強かったからだ。

 身分の高い者は、絹や柔らかい浅草紙なるものをあてがっていたようだが、庶民は草を使っていただとか、ぼろ布や紙をあてがっていただとか伝わっているが、やはりそれも江戸時代の記録であり、この時代の生理事情を示す確かな史料は、前述の理由で残っていない。


 月の里では、綿の端と底を和紙で包んだ簡易ナプキンのようなものが使われており、しかしそれは使い捨てではなく、汚れが酷くなるまで洗って使い回さなくてはいけない。それを赤い月帯の股間部分にあてがい処置していた。

 そして月経が始まった女は、里の端にある小屋に隔離される。現代では月経小屋という場所に、“穢れ”の期間が終わるまで居なければいけない。その小屋には、さやの他に三人ほど女がいた。

 不思議なことに、女の月経の周期は他者と重なることが多い。特に月の満ち欠けと女の身体のコンディションはよくシンクロしている。満月や新月の日は出産がよく重なる。ホルモンの関係だとか諸説あるが、現代でも科学的に判明していない。


 さやは、初花は迎えたが、裳着の儀は五日後の吉日に行われることとなった。それまでさやは小屋に居なければならない。五日後ならさやの月経も治まって、紫月も里に帰ってくるだろう。

 緋色の裳を着せる腰結には紫月が相応しいと党首は決めた。お千代は文で紫月に知らせておくと片目を瞑って笑いながら言った。

 紫月がこのことを知ったらどんな顔をするか、さやは興味を持ったが、それより酷い下腹の痛みに苦しんだ。


(まるで子宮をわしづかみにされてるみたい……)


 今まで経験したことのない痛みに、さやは安静にしているしか出来なかった。小屋の中では、月経中の女達は座りながら出来る草鞋編みや籠編み、月帯や簡易ナプキンを縫ったりしていた。簡易ナプキンは「月布」と呼ばれ、それは小屋の女達が作ることになっている。加えて汚れた月帯や月布は小屋の中で洗わなければならない。さやは痛みに耐えながらそれらのことを女達に教えられ、月布を作り、汚れた帯や布を洗い、いつもの洗濯場とは違う場所に汚れた水を捨てなければならなかった。もちろん湯を汚すので月経が治まるまで浴場にはいけない。小屋の中で、盥に湯を張り下半身を洗うことしか出来ない。排泄も小屋の中の厠でしなければいけなかった。


 痛みをやわらげる方法として、火で温めた温石おんじゃくを腹巻きの衣嚢ポケットに入れたり、軽い柔軟を行ったりした。それでも痛みが重い者は痛み止めを飲んでいた。さやは天恵眼で、他の女の子宮が収縮を繰り返しているのを見てしまい、自分の子宮もあんな風に激しく動いているのだろうか、と軽く恐怖を覚えた。


 痛みに耐えながら、自分が別の生き物に変わるような数日を過ごし、月経が始まって三日目に紫月が里に帰ってきた。

 小屋を出て紫月と再会したとき、余程自分の顔色が悪かったのか、紫月は会うなりいきなり「大丈夫ですか!?」とさやの肩を掴んで問うた。


「大丈夫。痛みは大分治まったし……」

「本当ですか? 顔が真っ青ですよ」


 言われてさやは顔を触る。そういえば、月経中は血を流すので鉄分とやらが不足しがちで、貧血になりやすいと聞いた。鉄を摂取するために、南部領で取れる南部鉄で出来た薬缶で茶を小屋の中の囲炉裏で沸かし、よく飲んでいた。

 四日目。出血が大分治まり、月布を汚さなくてすんできて、五日目にはほぼ出血は無くなり、裳着の儀を行うことが出来た。


 火の一族の屋敷の広間にて、化粧をし、かもじをつけうちぎを着たさやに、腰結こしゆいの役目を仰せつかった紫月が、緋色の裳を着せ、腰紐を結った。

 本来なら髪上げの他に、左右の髪を耳くらいまで切る「鬢削びんそぎ」という儀式が女児の元服では行われるが、さやの髪は短いので、代わりにかもじびんを少しだけ切った。

 それらが終わり、紫月とさやは視線を合わせる。一瞬だけ紫月の瞳が揺れたが、次の瞬間には姿勢を正し、頭を下げ、「おめでとうございます」と厳粛に祝辞を述べた。


 その時、さやは、自分の子供の時代は終わり、これから成人として、坂ノ上当主を継がなければいけない、と実感した。


 暦は十月へと変わろうとしている。さやにはこれから、坂ノ上家の神楽舞を踊り抜くという試練が待っていた。

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