第七章:一五九〇年:十月~十二月・修行

第三十話:月はいつでもそこにある

 坂ノ上家の神楽舞を踊る許可を得るため、紫月とさやは、月山がっさんの頂上にある月山神社へと来ていた。

 月読尊つくよみのみことを祀るその神社には、月の里の者もよく参りに来ており、宮司は紫月と顔なじみだった。

 すでに里長から話は通っており、さや達は祭壇のある広間に通されると、ひとまず宮司が神楽舞の成功を祈って祝詞を捧げる。さやは厳粛な面持ちでそれを聞く。

 次にさやは神社の禊場にて“みそぎ”を行う。これから神楽舞を踊るため、さやは心身の穢れを落とさなければいけない。白装束に着替え、沐浴しながら祝詞のりとを唱える。その後何度も冷水を頭から浴びた。寒さにぶるりと身体を震わせ、やっとさやは解放された。

 身体を清めた後、さやは具足下着という、股の部分が割れている下着を着け、その上から鎧を着、脛当てや籠手も装着した。初めて鎧を着けたさやは、そのあまりの重さに驚いた。さやはこれから修行の間、寝るときもこの鎧を着けていなくてはいけない。それは紫月の指示だった。


「過酷な神楽舞を踊りきるため、基礎的な体力をつけなければいけません。時間が無いのです。覚悟はよろしいですか?」


 紫月の真剣な問いに、さやは顔を強ばらせながら頷く。

 里長からさやが坂ノ上の神楽舞を踊るのは、十二月十二日、満月の日と決められた。あと二月ちょっとしかない。それまでにさやは十二の型を覚え、更にそれを百八回踊れるようにならなくてはいけない。一二九六回も休まず踊り続けるためには、かなりの強行軍をさやに強いなければならない。

 紫月から神楽舞の詳細を聞いたさやは、あまりの過酷さに絶句したが、父を初めとする代々の坂ノ上家当主はこれを踊りきったのだ。坂ノ上家を継ぐため、宝刀に持ち主と認めさせるため、厳しい舞でも踊らなくてはいけない。そのためならどんな修行も越えてみせる。


 さやは紫月に連れられ、神社の境内から抜け、木々が生い茂る別の場所に連れて行かれた。さやはてっきり境内で修行するのかと思っていたから、いきなり違う場所に移動されて困惑した。

 その箇所にはしめ縄が広く囲っており、さやはその中に入るよう紫月から言われ、しめ縄をくぐった。

 途端、さやの身体がずん、と重さを増す。それだけではなく、空気が薄くなったように感じた。


(息が……!)


 さやの呼吸が荒くなる。酸素を取り入れようと肩で息をするが、薄い空気の中ではなかなか肺に酸素が行き渡らない。酸素不足で徐々に視界が暗くなっていく。さやはたまらず地面に膝をつけてしまう。

 すると紫月が近づいてきて、黒色の粉末が入った容器に無色の液体を慎重に垂らし、さやの口元へと持っていく。


「さや様、ゆっくり息を吸って、そして倍の時間をかけて吐いてください」


 さやは言われたとおり、容器の中の気体を吸う。すると視界が晴れていき、頭が軽くなる。座禅を組むときのように、ゆっくりと容器の中の気体を吸い、そして吐いた。それを繰り返していくと、やっと呼吸が元に戻った。


 容器の中には、粉末状の黒色顔料――二酸化マンガンと、過酸化水素水が反応し、酸素を発生させている。しめ縄に囲まれた部分は、結界術により気圧が低く酸素が薄くなっている。月山の高度一九八四メートルより高い五〇〇〇メートル程の気圧と酸素濃度に設定している。平地での気圧が一〇一三hpaだとすると、一九八四メートルだとおよそ八一二hpa、五〇〇〇メートルだと五五五hpa。酸素濃度は五〇%。月の里での忍びの修行場としてここは使われている。高地トレーニングの要領で、低圧低酸素の環境に身を置くことで、体内の酸素運搬・消費力を上げて持久力も上げることができる。

 紫月は、一月はここで修行しさやの体力をあげ、残りの一月で舞を覚えさせようと思っている。しかしいきなり気圧が下がり、酸素濃度も低い環境にさやは慣れていなく、何度も気を失いそうになった。その度に紫月は容器の中の酸素を吸わせる。


 結局、さやが結界内の環境になんとか慣れるのに丸三日かかった。


 次の日から、さやは鍛錬を始めた。腕立て伏せや腹筋、スクワットといった筋力を上げる鍛錬と、結界内の坂を何度も登っては下りを繰り返す持久力をあげる鍛錬を、食事と寝るとき以外ずっと行った。平地より過酷な低酸素低気圧の中、重い鎧をつけたままさやは鍛錬を行う。しかし身体が悲鳴を上げ、頭痛や吐き気を催し、何度も高山病になりかけた。その度に酸素吸入や、薬を飲んだり、酷い場合は休憩を挟んだ。また、食欲も無くなり、紫月の用意した食事が喉を通らないこともあったが、食べないと身体がもたないので無理矢理口に入れた。その結果吐きそうになってもさやは我慢した。

 休んでもなかなか疲労が回復しなく、さやは鍛錬の挙動が鈍くなった。真っ青な顔で、痛む身体を押して繰り返し鍛錬を行うさやを、紫月は眉を寄せてじっと見ていた。


 忍びの修行でも、ここまで強行スケジュールでは行わない。もっと身体を慣らし、徐々に負荷をかけていくのが本来のやり方だが、それでは間に合わない。たった二月しかないのだ。その間にさやを一人前の忍び以上の身体に育て上げなくてはならない。そうでなければあの神楽舞は踊れない。


 さやは、よく我慢していると思う。約二月前まで普通の姫だったはずなのに、家を滅ぼされ、瞳に禁術をかけられ、こんな過酷な鍛錬をして、弱音も吐かず発狂しないのは凄いと思う。しかし、やや我慢がすぎるようだ。顔色が悪く、今にも倒れそうだ。適度に休まないと鍛錬の効果は半減する。


「さや様、ひとまず休憩しましょう」


 紫月の言葉に、さやは頭を振る。息が上がって汗が滝のように流れている。このままではまた酸素不足で倒れてしまう。


「休みましょう、さや様」

「いや、まだやれる。まだ……」

「いいえ、休むんです。このまま鍛錬しても逆効果です。ここでは私が師です。従ってください」


 さやは少しだけ紫月を睨んだが、そのあと長く嘆息すると、紫月から手ぬぐいを受け取り汗を拭いた。

 竹筒の水を飲もうとして、さやの視界がぐるりと回る。

 世界が暗転していく中、紫月の声が聞こえるが、さやはその声に答えることが出来なかった。


 ※

 ※

 ※


 目を覚ましたさやの視界に入ってきたのは、満天の星空と、朧気な光を放っている月だった。

 天恵眼を持ってしても、月の全てを見ることは出来ない。さやは無意識に月に手を伸ばしたが、そこで全身に酷い痛みが走る。


「いっつ……」


 身体がバラバラになりそうな痛みをこらえて上体を起こすと、紫月と目が合ってしまった。さやは慌てて顔を背ける。


「大丈夫ですか?」


 紫月が声をかけてくる。さやは背を向けたまま頷く。すると視界が滲み、ぽた、と一滴の涙が溢れる。

 身体が細かく震える。さやは震えを止めようと強く身体を抱いた。しかし震えは酷くなり、涙も止まらない。

 流石におかしいと思ったのか、紫月が肩に手をかけてくる。


「触らないで!」


 さやは涙声でそう叫んだ。さやが泣いていることを知った紫月は、驚いて身動きが出来なくなった。

 さやは涙を止めようとしたが、意に反して涙はどんどん溢れてくる。


 それは、悔し涙だった。こんなことで倒れてしまう自分の弱さが許せなくて悔しいのだ。


 父ならこんなところで躓いたりしない。紫月なら倒れたりしない。母ならこんなことで泣いたりしない。何故自分はこんなに弱いんだろう。何故自分は女の身に生まれてしまったのだろう。私が男に生まれていればもっと強くなれたかもしれない。男なら後継者争いなど起きなく、三鶴が滅ぶこともなかったかもしれない。

 自分の弱さへの怒りと、悔しさと、悲しさが混じり合って、さやは涙を流し続けた。泣いている自分が情けなくて、更に涙が溢れる。泣いてもいいことなんかないのに。泣いても誰も助けてくれないのに、自分が惨めになるだけなのに――


 身体を丸めて泣くさやの頭に、ぽん、と大きな手が乗った。

 その手が紫月のものだと知って、さやは振り向いてしまう。紫月は真剣な顔でさやの頭をなで続ける。


「や、やめてよ! 私はもう子供じゃないんだから!」


 涙を拭いながら、さやは紫月の手を払いのける。紫月の視線は真っ直ぐにさやを見ていた。


「さや様は、とても立派です。よくやっていると思いますよ」


 さやは、思わず紫月を見返してしまう。その黒曜石のような瞳は、決して冗談を言っているように見えない。


「……やめてよ。お世辞なんか言われたって嬉しくない」

「世辞など言いません。里の忍びと比べても、さや様は強いと思います」


 強い、と言われ、さやは真っ赤な瞳を見開いた。紫月は淡々と続ける。


「十二歳という年齢や、今まであなたの身に起きたこと、それらを加味しても、さや様は精神的にはもう一人前の忍びと言っていいでしょう。いや、それ以上かもしれません」


 まださやは信じられなさそうに眉を寄せている。紫月はふ、と息を吐き、目を伏せる。


「我慢しなくて良いんです。心を完全に殺すことなど誰にもできません。辛いときは泣いたって良いんです。それは決して弱いということではありません」


 さやの視界が、また滲んできた。さやは咄嗟に紫月から背を向け、泣き顔を見られないようにする。

 涙がまた溢れるが、それは先ほどの涙とは違っていた。ずっと父と母に言ってもらいたかった、しかしもう叶わない言葉を紫月が言ってくれた。自分を肯定してくれた、その事が嬉しくて涙が溢れてくる。

 嬉しいときも人は泣くんだ、と、その時さやは初めて理解した。


 嗚咽混じりに背を丸めて泣くさやを、紫月は焚き火の向こうからずっと見守っていた。

 満天の星空から、一つの星が流れる。月は変わらず夜空を照らし、彷徨い人の道しるべとしていつもそこにあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る