第六話:怪僧・果心居士
さやが十一歳のとき、
主人の異変に気づいた紫月は、発熱しぐったりとしたさやを後ろに乗せ、馬を駆けて
疱瘡……今で言う天然痘は、致死率三〇パーセント以上という高い確率を誇る感染症である。顔を初めとする全身に出来物が発生し、運良く助かったとしても醜い
現代では発症阻止率一〇〇パーセントのワクチンが発明され根絶されているが、その前身である牛痘を経て種痘が出来るのは十八世紀からで、この時代では防ぐ術がなく、助かるかどうかはほとんど運でしかなかった。
城についたさやは、一人別の部屋に隔離され、複数の
さやの母の正室は泣き叫び、父である当主は表向き落ち着いてはいるが、今までのどんな戦での苦境の時よりも顔色を悪くしている。
さやを失えば今度こそ後継者がいなくなり、坂ノ上の血が途絶え、最悪の場合お家断絶もあり得る。仮に生き残ったとしても、顔を痘痕で埋め尽された姫など、誰が貰ってくれるのか。
しかし当主には何も出来ず、唯一、当主の間に飾っている宝刀をさやの枕元に置き、疱瘡神を宝刀が斬ってくれるよう祈った。
坂ノ上家最大の危機ともいえるさやの
紫月は、主人であるさやの額の汗を拭いながら、一人だけ、この事態を打開できるかもしれない者を思いついた。
現在奥州を
彼は、居士の尊称の通り、大和国(今の奈良県)の興福寺に僧籍を置いている在家の僧侶、らしい。
らしい、というのは、紫月初め、“月の里”の忍びでさえ、その僧侶の身元をついに掴むことが出来なかったのだ。
見た目は五十歳程の壮年。紫月ほどではないが背が高く、柔和な笑みを浮かべたぱっと見はごく普通の坊主であるが、噂では法力を使い様々な幻術を使い、あの織田信長や松永久秀、明智光秀に徳川家康、果ては豊臣秀吉の前でその幻術を披露し、一時は仕官していたと言うのだが、これも本当の所は疑わしい。
確かなのは、桁外れの医療の知識を持ち、そして疱瘡を初めとする不治の病に冒された人々を幾度も救ってきたという事だけだ。
紫月の所属する月の里では、門外不出の薬の調合法や、病の治療法が独自に確立していたが、果心居士のはそれよりもっと凄く、彼の手にかかれば治らない病など存在しないと言われている。
事実、紫月や他の忍び達が、里にて疱瘡や
紫月はその時疱瘡にかかっており、今のさやと同じ症状で寝込んでいたが、果心居士の治療により痘痕もなく見事に回復してみせた。
その時居士がどのような治療を施したのか、高熱でうなされていた紫月や他の里の者も一切解らなかった。居士は治療の間、決して人を近くに寄らせなかった。里の隔離された小屋に患者を集め、もし治療中自分の姿を見よう者が一人でも居れば、この者達の命はないと脅したからだ。
結果、紫月は一命を取り留め、他の者も後遺症は殆ど無く回復した。
そのような経緯から、紫月は果心居士を信頼し、里の方でも上客として扱い、彼から薬学や幻術の類いも学んだ。
なので、さやを疱瘡から救えるのは、果心居士のみである、と紫月は当主に進言した。
「馬鹿な!
紫月から進言を受け、当主は怒鳴った。身元も分からぬ、怪しげな術を使う"自称"居士など信用できないというのだ。
「
そう言いながら、紫月は忍び装束の腕をまくり、髪をかき上げ顔を当主にはっきりと見せた。浅黒い肌には、たしかに痘痕など見当たらない。
疱瘡に限らず、病気を治療するには早ければ早い程いい。事は一刻を争う。こうしている間にさやはどんどん死に近づいているのだ。
いくつか問答を繰り返し、重臣達に黙るよう怒鳴られても、主人のためにと決して退かない紫月に、当主は折れた。
「……良かろう。その果心居士とやらをここに連れて参れ」
「お館様!」
「ただし、もしさやを救えなければ、儂がその坊主とお前を斬る。それだけではない、おまえの里にも責任を負って貰う。その覚悟があるならその者をここに連れて来い」
里にも責任を負って貰う、と聞き、紫月は一瞬固まった。自分一人ならともかく、失敗すれば里にまで手を出される。里と主人を天秤に掛け、更に果心居士の能力を加味し、紫月は頭の中で計算する。通常ならば迷わず里の安全をとるのだが、紫月にはあの男が失敗するとは思えなかった。
「……御意」
深く礼をし、紫月は三鶴城を後にした。目指すは果心居士の逗留先の宿坊。
馬を走らせ半刻(約一時間)もせず、紫月はその宿坊に付いた。緊急事態だ、と寺の者を押しのけ居士と出会うなり、久しぶりの再会に喜ぶこともなく、今の自分の主人が疱瘡にかかっているので助けて欲しい、と頭を下げた。
果心居士は、その申し出に柔和な顔を歪ませ、また疱瘡か、と
「時間と身の安全と手間賃さえくれれば、治すことは不可能じゃないけど……その子、今の症状はどのくらい?」
「発症が確認できたのが昨日の昼、今は赤い発疹がポツポツと出来はじめている頃だ」
「ならギリギリ、かなあ」
よほど自分は凄い形相だったのだろう。紫月の決死の表情を見て、居士はふう、と息を吐き頷いた。
「いいよ。僅か十一の子供を死なせるのも忍びない。その代わりに……」
「ああ、安全な宿の確保と、十分な報償もお館様に進言してやる」
居士は納得いったように笑う。そして人一人入れそうな程大きな
哀れ、居士の従者達は置いて行かれることになったが、紫月は構ってられなかった。
※
※
※
さやは、熱にうなされ、ずっと夢を見ていた。
三鶴城の一室、当主の間にて、さやは一人背を伸ばし座っている。周りに誰も居なく、ただ「過去」を象徴する宝刀が
『生まれたのは姫だそうだ』
『なんで男ではないのだ』
『女の身で家督を継ぐなど』
『なぜ、男に生まれてこなかったのだ』
『なぜ、あの姫はもっとしたたかに生まれてこなかったのか』
それは、家臣達のさやへの心ない中傷の言葉だった。
生まれたときから、家の中が圧迫されているように感じ、それが自分を巡る後継者争いのせいだと幼いさやは分かっていた。
母もよく言っていた。おまえが
さやは乳母から礼儀と行儀作法を習い、母から武家の女の心得を学び、父から武芸と当主としての心得を学んだ。
しかしどの分野においても、さやは並以上の成績を残せなかった。おまけに容姿も、
何にも秀でていない、地味で笑わない姫……乳母や母は笑えと執拗に命じてきたが、さやはどうしても笑えなかった。
笑う努力はしているのだが、笑おうとすると、誰かが見て私を陥れようとしているんじゃないか、私の存在を疎ましく思っている家臣がまたヒソヒソと噂するのではないか、所作を間違えて怒られるのではないか、そんな考えが頭を占め、表情筋を強ばらせ、さやは愛らしく笑うことができなかった。
被害妄想と一概にはいえない。さやは跡取りとして、朝起きてから床についた後も一挙手一投足を監視されていたからだ。
特に異母弟達が相次いで亡くなった後はより厳しくなり、一人の時間など無かった。一人になれば暗殺される、何か粗相をしでかせば、さやが次期当主になることを反対している家臣達が言いがかりをつけ、さやを排除するかもしれない。言葉は時に刃物になる、お前の言う事は坂ノ上家の言葉と同義になるのだから考え無しに言葉を発してはいけない。そう言われ続け、さやは滅多に言葉を発さない、笑わない、まるで地蔵のような子供に育った。
見かねた乳母から、行儀見習いとして城下町から来ている侍女と仲良くするように、と命じられた事がある。しかし同年代の子供と接することのなかったさやには、その子との正しい距離感が分からない。気安くベタベタと接するのも良くない、かといって家来として上から命ずる訳にもいかない。その子と
さやに唯一、人より秀でているものがあるとすれば、それは忍耐力である。
冬の厳しい奥州の人間は他方より我慢強い、と言われているが、さやは決して弱音を吐かなかった。吐けなかった、と言った方がいいのかもしれない。
学問も、兵法も、武芸も、子供には難しいとされるレベルを求められても、さやは嫌とは言わなかった。必ず解こう、やってみようと挑戦する。その結果が芳しくなくてもまた挑戦する。また失敗し怒られても、さやは粘り強くついていった。その諦めない、どんな苦難にも耐えてみせるその姿勢だけは、父と同じかそれ以上と言えるだろう。
だが、さやとてまだ十一。時々無性に叫び出したり、人目を
もし自分が男だったのなら少しは違ったのだろうか?
もし自分が産まれてこなかったら? 今のように家の中が内紛状態に陥ることもなかったのかもしれない。
そんなことを考えているとさやは呼吸が出来なくなり、やがてどろどろとした黒い触手が発生し、さやの身体を蝕んでいく。
苦しい。息が出来ない。怖い。
父上、母上、紫月……誰でもいい、私を助けて――
※
※
※
目が覚めた時、さやの手は誰かにしっかりと握られていた。
握っていたのは大きな大人の手だった。さやが視線を横にずらすと、そこには自分の手を握ってくれている紫月の心配そうな顔があった。
「……
そう呟くと、周りから歓声があがった。どうやら自分は横に寝かされていたらしい。自分の周りには見知らぬ僧侶と、それから涙を流している母と、その母の肩を抱く父、その他重臣達が部屋中に散らばっていた。
「姫様……」
紫月がそう言い、肩を落とし脱力する。心から安心したように。
まだぼうっとする頭を押さえ、さやは半身を起こした。傍にいた壮年の僧侶がそっと背に手を貸してくれた。
はて、自分は一体なんで寝ていたのだろう?
「さや!」
身を乗り出すようにさやの元に来て、母はさやの身体を抱いた。その直情的な行為にも驚いたが、さやには、母が泣いていたことのほうが衝撃的だった。
今まで母が泣いているのはおろか、笑っているところだって滅多に見たことが無かったからだ。さやほどではないが、母も笑わない人だった。ただ、父といるときに母は笑っていた。それでも口を押さえ控えめに、だ。
「さや、もっと顔を見せておくれ」
母がそう言い、さやの顔を両手で掴んで上げさせた。その顔を母や父、重臣まで何かを確かめるかのようにのぞき込んだ。顔を背けたくとも母の手に掴まれているので出来ない。それが済むと今度は寝間着の袖をまくって、腕までじろじろと見ている。細く白い腕にも顔にも、何一つ痘痕は見当たらなかった。
「ううむ……確かに
「それは、仏のみが知ります」
父の問いに、果心居士と呼ばれた僧侶が笑いながら答える。疱瘡? 私、疱瘡にかかっていたの?
そう認識したとき、ぞわ、と悪寒が走り、思わず身体を抱き、そして顔に手を伸ばす。顔。そうだ、私の顔は?
顔をべたべたと触り、
その銅鏡には、痘痕にまみれた顔、ではなく、痘痕どころかシミ一つ無い、見慣れた自分の顔が映っていた。
疱瘡で生死の境目を彷徨っていたさやは、
そして、このことがきっかけで、果心居士は三鶴城に正式に客として招かれ、当主の意向によりさやの教育係に就くことになった。
通常、大名の跡取りは高僧に師事し教えを学ぶのだが、仏教の教義により、女児は弟子にとれない。なので、客僧の世間話に、さやが付き合っている、という体をとり、さやは果心居士という常識破りな僧侶の元で様々な教えを学んでいった。
あるときは、生と死の重さとその役割ついて、あるときは、仁・義・礼・智・信という儒教の五常の倫理について、あるときは、陰と陽について、またあるときは、花の色は何故あのように鮮やかに目に映るのか、何故空は青いのか、何故人は男と女に別れているのか、等など。兵法や仏教の教えは元より、儒学、
果心居士は一応興福寺法相宗の在家の僧侶だったが、なまじ正式な師弟関係に無かったのが幸いし、その枠組みから飛び出した教えをさやに授けることが出来た。
それはさやにとって心地よい時間だった。
居士の世間話は今までのさやの暮らしていた世界での教えとはまた違った。答えの無いような問いに、さやは必死で考え、答える。居士はそれらの答えを決して否定しない。さやの瑞々しい感性から出た言葉を受け入れ、更にこんな考えもある、と彼女の世界を広げる助言をするのだ。
その時、さやは三鶴という狭い国から飛び出し、見たことの無い風景を思い浮かべることができ、知らない人々の暮らしと思考を聞くことができ、嗅いだことの無い土地の匂いを知ることが出来た。
三鶴城の一角にある小さな
今が戦乱の世であることを忘れてしまうほどのどかな時間がその庵には流れており、さやは、生まれてはじめて楽に呼吸が出来たような気がした。
その二人の様子を、いつも紫月は襖越しに一歩下がったところで見守っていた。
※
※
※
しかし、平和な時間はそう長くは続かなかった。
一五八八年。豊臣秀吉は三年以上前より諸大名に自身の勢力下への参入を呼びかけており、奥州では
秀吉は九州、関東、奥州地方に「
しかし翌年一五八九年、坂ノ上家が
当主は秀吉に逆らう気はなかったが、家内の武闘派が会津に攻めるべきと激しく訴えかけてきた。その理由の一つとして、数年前の、側室が産んだ嫡男の不審死が芦澤家の放った刺客によるものと分かったからだ。
血気盛んな武闘派は農民上がりの秀吉の言うことなど無視し、三鶴と隣接する芦澤家の会津に攻めるべきだ、これは正当な戦だ、このことを軽視すれば坂ノ上家の
いくら当主が諫めても武闘派は日に日に声を荒げていく。このまま放っておいても武闘派は勝手に会津に攻めてしまい、家の分断が確固としたものになってしまう。それは避けたい。その妥協案が、僅かの兵で秀吉側に気づかれないよう小さな戦いで短期で終わらせることを条件に、芦澤領へ攻めることだった。
しかし見通しが甘すぎた。
秀吉の怒りを静めるため、坂ノ上軍は会津から手を引き、当主は武闘派の家臣の中で特に過激で先頭に立っていた三名を斬首に処し、その首を塩漬けにし、秀吉の居城である大坂城まで送りつけた。
その頃、同じく
秀吉は難攻不落と言われている小田原城を攻略するため、各大名家に参陣を命じた。坂ノ上家も例外ではなく、この戦いでの働きによっては先の惣無事令違反を不問にすると約束した。
奥州各地から参陣命に従った大名家が軍を派遣する中、坂ノ上家は先の過激派の家臣を処刑したことに端を発した家中の内紛を鎮めるのに苦労し、要求された数より僅かに足りない軍を、指定された期限より大幅に遅れ派遣した。
一五九〇年、七月。小田原城が開城。ここに後北条氏は滅亡した。
小田原参陣に遅れ、大した戦功も上げられなかった坂ノ上家は、名門後北条氏の滅亡を目の当たりにし、豊臣秀吉という存在に恐怖した。
関東の最大の敵であった後北条家を排除した秀吉は、次に奥州を平定するため
そしてここから、奥州仕置きのための行軍を結成。いち早く恭順の意を示し、小田原攻めで大軍を派遣し戦功も著しかった芦澤家に、自身の
その討伐対象に、惣無事令を破り、小田原攻めに遅参し、目立った軍功も上げられなかった、坂ノ上家も入っていた。
ここに、奥州仕置きのための最後の決戦……
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