第四話:赤熊退治
吹雪が一旦去り視界が晴れていく。
途端、さっきまで感じたことのない匂いを感じた。
それは、彼が渇望していた人間の血の匂いである。熊は本能の赴くまま、匂いの元へ歩を進める。
よだれを垂らしながら重傷の身体を押して歩くと、そこには左手から血を流している少年が座っていた。紅い血の跡が白い雪の上にいくつか点々と散っている。
血の匂いに当てられた熊は、そのまま少年を食おうと突進し、そして立ち上がり巨躯を露わにする。
その時。
ビン―――
熊の腹が何かに引っかかり、音が鳴る。まるで楽器の弦を雑に弾いたかのような音がしたかと思うと、熊の目の前でいくつもの爆ぜ玉が
爆音。空気が大きく揺れた。
言われるがまま左手を小刀で斬りつけ血を流し、熊を誘う囮役になった少年は、爆ぜ玉の大きな音に思わず耳を塞いだ。
少年の目の前には、鋼で出来た弦が木と木の間にいくつも張られている。熊がこちらに気づきやってきて弦に触れると、その衝撃で爆ぜ玉の導火線に点火する仕組みだ。
爆ぜ玉の音で動揺した熊の後ろに、さやが降りてきた。さやは、左手の
ヒュン、と空気を裂いて、棒手裏剣が熊の脇腹に刺さる。
トリカブトとアカエイの毒を中心に独自に調合した特性の毒が棒手裏剣の先端に塗られている。これで大抵の熊は毒が回り大人しくなるのだが、人を喰らった赤熊は筋肉が発達しており、そしてとても大きい。一発の棒手裏剣だけでは仕留められず、熊は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに手足を大きく動かす。
その手が弦の一つを引っ張り、爆ぜ玉がまた爆ぜる。しかし今回の爆ぜ玉には火薬の他に唐辛子の粉が入っており、爆ぜ玉が爆ぜると轟音とともに唐辛子の粉が熊の顔を襲った。
視界を奪われた熊に、さやは何度も棒手裏剣を
何本もの棒手裏剣が脇に刺さり、熊の動きが鈍くなる。棒手裏剣に塗られた毒が身体に巡ってきたのだろう。
さやは熊の元へ走り大きく跳躍すると、腰の宝刀を抜いて、刀を熊のうなじに刺す。さやの虹彩が爛々と光る。
熊の口から苦悶の雄叫びが上がる。
うなじは熊の身体のなかで比較的柔らかい部位だ。しかしさやの力では致命傷に到るまで刀を刺せなかった。
さやに背にとりつかれた熊は身体を大きく揺らし暴れる。そのあまりの激しさに、さやの小柄な身体が乱暴に宙を舞い、そしてそのまま地面にたたきつけられた。
「さや!」
弦が張り巡らされた罠の格子の向こうで、囮役の少年が叫んだ。地面に落ちたさやは、すぐに態勢を整え、熊を上目遣いで見据える。
さやと目が合った熊は、少年からさやへと標的を変えた。作戦「丙」は失敗に終わった。ならば次の作戦「乙」に変えるまで――さやは熊に背を向けて走る。熊は本能の赴くまま標的を追う。
少しの間追いかけっこが続いたが、熊はあっという間にさやへと肉薄する。熊の鋭い牙がさやの合羽をわずかに引き裂いた。
が、いきなりさやの姿が下方に消えた。熊は勢いを落とせず、その巨躯を宙に浮かす。
「!」
さやと熊が崖から落ちていく。高い崖の下には、十本以上もの鋭利な槍が地面に刺さっており、穂先を天に向けている。このまま落ちれば、熊とさやはその槍のどれか一つに身体を貫かれるだろう。
「アクリ!」
さやが叫ぶ。すると横から熊と同じくらいかそれ以上の成犬に成長したアクリが飛んできて、さやの合羽の首元の布を噛み横に大きく移動し、降下していくさやを救う。これで崖の下に落ちていくのは熊だけになった。
いくつもの槍の穂先が、落ちてきた熊の身体に刺さる。落下速度が足された自身の重さで、槍はずん、と熊の身体をいくつも貫いた。
人食い赤熊は、咆哮し少しの間身体を痙攣させていたが、逆立った赤い毛が治まり、完全に心の臓が停止する。
その様子を、さやはアクリと共に見届けた。さやの目には、赤熊が心の臓を初めとする身体の広範囲を槍で貫かれ、生命反応が失われるのがはっきりと見えた。
少年を抱いた紫月が崖の下に降りてくる。紫月も、赤熊が完全に死んでいるのを確認した。
ただ囮役として座っていた少年は、いくつもの槍に身体を貫かれ、雪面を血で汚す熊の姿を見て、そしてさやの姿を確認する。さやは合羽の後ろを爪で引っかかれただけで、特に怪我はないようだ。
片膝を立てて臨戦態勢をとっていたさやは、興奮し乱れた息をゆっくりと整え、長い息を吐きそして瞑目し、こう呟いた。
「任務、完了」と。
※
※
※
人食い赤熊を倒しても、それだけでは終わらない。赤熊を倒した証拠として、毛皮と、
それが終わると、紫月は合羽の内側から今度は刀を取り出した。熊の解体のためである。
さやは、紫月の元に遠慮がちにやってきて、「……私は合格?」と不安げに尋ねた。
「最初の罠では仕留め損ないましたが、その後すぐに作戦を変え任務を遂行出来ました。作戦立案、実行力、咄嗟の判断速度、どれをとっても合格でしょう」
淡々と告げる紫月に、さやは胸をなで下ろした。今まで習った全ての技術と知識を総動員し、自身の能力を加味して立案した罠と作戦に「合格」といってもらえたので、さやは全身から緊張がほぐれ、つい膝をついてしまう。
その時、自分が宝刀を鞘に収めていないことに初めて気づいた。熊のうなじを刺したその刀には、血も脂も全くついていなかった。
さやは刀を一振りしたあと、ゆっくりと鞘に収めた。チン、と鯉口が涼やかな音を立てる。さやの目には、その刀が生き生きと脈動しているのが視えた。やはりこいつは、戦いに使われるのが嬉しいらしい。
そうこうしているうちに、紫月が赤熊の身体を仰向けにし、喉元を切って血抜きを始めた。といっても何本もの槍に貫かれ、既にかなりの出血しているのでそれほど血は出なかった。
さやは手伝おうと立ち上がり短刀を構える。が、紫月が止めた。
「この熊は肉が固いので、解体にはかなりの力が必要です。私がやりますので、さや様はあの少年の手当をお願いします」
紫月の指さす方向に、囮に使った隻眼の少年が雪面に座っていた。熊の血の匂いで興奮したアクリに唸られており、少年は怯えている。
「アクリ! お座り!」
さやの一言で、アクリはぴん、と姿勢を正す。熊退治に協力してくれた忍犬の顎をさやは撫でていく。
アクリは気持ちよさそうに身体の力を抜き、その場にへたりと寝転ぶ。するとその成犬は身体をぶるりと震わせ、毛を逆立てながらどんどん小さくなっていき、最終的に元の子犬の姿に戻った。
それらの様子を、少年は傷ついた左手と、折れている右足を庇いながら全て見ていた。
十本以上もの槍を、涼しい顔で合羽の内側にしまっていったあの黒い男、謎の丸薬を与えられ、急に身体を大きくさせたアクリとかいう犬、瞳の虹彩が光っているさや……一体、自分の目の前で何が起きているんだ!?
頭の中が混乱し、しかし右足が折れているため座っているしか出来ない少年の元にさやが小走りでやってきて、座って目線を合わせる。彼女の鳶色の瞳はもう光っていなかった。
さやが、いきなり少年の左手首を掴む。少年が痛そうに顔を歪ませる。
そこには、刀で斬りつけた傷があった。浅い傷ではあるが痛いのに変わりはないだろう。
赤熊を退治する囮になって、と少年に頼んだら、彼は戸惑いながらも承諾してくれ、さらに人の肉を求める赤熊を確実におびき寄せるため、血を流す必要があると紫月が言ったら迷わず刀で左手を切った少年に対し、さやは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
彼がいなければ赤熊を退治できなかっただろう。さやは少年の傷口を竹筒の水で洗おうとした。が、少年が無理矢理左手を引っ込めて言う。
「いきなり何するんだよ! なんなんだお前ら?」
さやは、思わずはっとなって口をつぐむ。また言葉が足らなかった。努力はしているが、余計な感情と言葉を迂闊に表に出してはいけないと教えられた習い性はなかなか治らない。
「あ、いや、傷を手当てしようかと……」
ごにょごにょとそう呟くさやに、少年は怪訝そうに眉を寄せる。ちらり、と紫月がこちらに叱るような視線を寄越した。
紫月の熊の解体は順調に進んでいた。
熊の顎から尻尾まで刀で真っ直ぐ線を入れ、毛皮を削ぐように剥いでいく。手足はこの熊は硬すぎて落とすことが出来ない。
次に内臓。といっても毒を塗った棒手裏剣を何本も喰らっているので、肉の大部分が毒に汚染されてしまっている。内臓も槍が刺さってほとんどやられていたが、お目当ての
解体しながら、紫月はさやと少年の様子を窺っていた。アクリは元の姿に戻ったらしく、さやはどうやらあの少年の傷の手当てを無言で行おうとして、少年に警戒されている。
自分が言えた義理ではないが、我が主人はどうにも気持ちを言葉にするのが苦手のようだ。
幼い頃から感情を抑制し、不用意な言葉を口にしないよう厳しく育てられたので無理はないのかもしれない。だが、忍びになるには最低限の話術も必要である。いや、それ以前に、まず少年に言わなきゃいけない事がある。紫月はそう視線でさやに訴えかけた。
視線を受けたさやは、自分の口下手を呪いながら、頭を掻きむしり蚊の鳴くような声で「……ぁりがと」と呟いた。
「え? なんだって?」
少年が聞き返してきた。さやは少年から顔を背け、「……その、赤熊退治の囮になってくれて、感謝する。ありがと」とややぶっきらぼうに礼を言った。白い顔がまたほんのりと朱に染まっている。
「あ、いや、うん……」
思いがけず礼を言われてしまって、少年まで照れてしまう。うなじを掻きながら、「俺も、右足の手当ての礼言ってなかったし、感謝してる」と照れながら言う。
「私も、その、右目のこととか、無神経なこと言って、ごめん……」
さやがそう詫びる。
二人の間になんとも言えない変な空気が流れた。
そのやりとりを見ていた紫月は、ほっとしたように息を吐き、解体作業に戻る。アクリの餌用に熊の無事な部分の肉を削いでいく。その時手元がわずかに狂い、胃を傷つけてしまった。
赤熊の胃からは、彼が食った人間の肉が、消化しきれていないドロドロの状態で出てきた。その他に溶けかかった人骨もいくつか。頭蓋骨、肋骨、わずかに肉がついているおそらく腕の骨。液状の黒い髪。五人もの被害者の遺骨である。
紫月はそれを見て眉を寄せたが、そっと目を瞑り手を合わせる。無事な骨を洗って遺族に持って行こう。時間があったなら経を読んでやりたかった。
※
※
※
その後、赤熊の死骸を埋葬し終えた紫月と、さや、肉が食えてご機嫌のアクリと、木で作った杖をついてなんとか片足立ちで立っている少年の元に、数名の人間が近づいてくるのをさやと紫月は感じた。
また吹雪いてきた白い視界の向こう、さやはその者達の身なりから武家の者……少年の家の従者達だと分かった。
どうやら少年が見つからないので、人を呼んでいてこんなに遅れたらしい。
「……紫月、行こう」
さやが促し、赤熊の毛皮と胆嚢を持った紫月とアクリは、少年から背を向け走り出す。
「待てよ! さや!」
少年が、走って行くさや達に大声で叫ぶ。さやは足を止めた。杖をつきながらの不安定な姿勢で、しかしこちらに真っ直ぐな視線を少年は寄越していた。
「俺の名は、
それを聞いたさやと紫月が、一瞬目を大きくした。殺気だった紫月が前へ出ようとする。が、さやが手で制した。
「今は右目が見えなくて弱い俺だけど、必ず翼の生えた虎になってみせる! だから、さや……」
それ以降の言葉は吹雪が酷くなったので、さや達には聞こえなかった。さやは、そのまま無言で背を向け走り出す。その後ろに紫月が続く。
激しい吹雪を顔や黒い合羽に受けながら、さやは、やはりな、と感じていた。
ここらを領地としている、身なりのいい隻眼の少年。となると、やはりあの家の次男しか考えられない。なんという運命のいたずらであろう。
紫月は何も言わず、主人の様子を伺っていた。
彼の主人である亡国の姫は、口を真一文字に閉じながら、きっと前を見据えていた。その虹彩がまたわずかに光っている。無表情を装っていても、その禁術で発眼してしまった瞳は、感情が昂ぶった時には制御しきれてない。今の彼女が感じているのは、復讐心か、それとも――
西暦一五九三年、
戦乱の世が一時的に治まり、民衆は仮初めの平和を享受している裏で、豊臣秀吉に後の跡取り息子となる
そんな日の本で動き出す、亡国の姫と、その従者である忍び。これはその二人が暗躍する物語である。
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