第三話:姫の従者
雪と風が再び強くなってきて、視界を白く染め上げる。吐く息が白い。
短い茶色がかった髪が風に吹かれ乱れるのも意に返さず、さやは荒く雪を踏みしめる。
さやは苛立っていた。
何故、自分はあんな奴を助けてしまったのか。自分に与えられた任務は、赤熊の駆除。そして試作忍具の性能実験である。
一人前の忍びなら、もうとっくに赤熊を駆除出来ているはずだ。なのに自分は半日かかっても目標を見つけることすら出来やしない。熊の代わりにあの少年を見つけて、崖に落ちていく所を目撃してしまい、つい身体が勝手に動いてしまった。
きっと他の忍びなら、あんな坊やを助けたりしなかっただろう。仮に助けたとしても、怪我の治療までして肩を貸して、あまつさえ試作品の忍具を見せびらかすことなどしないはず。
あくまでも任務優先。それが忍びのあるべき形だと思うし、「あいつ」だってそうしていた。
どこまで自分は甘いのだ。
「…………」
悔しさに奥歯をかみしめ、周りを見渡す。
吹雪が激しくなり視界が濁ってきたが、この程度なら見える。向こうに「あいつ」がいる。
さやは半里先(約二km)に、見慣れた人物を認識し、そちらに歩を進める。
起伏の激しい坂を飛ぶようにしばらく登り、その人物の目の前に立つ。すると青年は体中に力をいれ戦闘態勢をとり、懐の武器に手を伸ばした。
「
紫月と呼ばれた大柄な浅黒い肌の忍びの青年は、さやの一言で全身の警戒を解く。
「姫様」
じろり、とさやが睨んだ。そう呼ぶなと視線が言っている。青年――
「……まだ赤熊は見つかりませんか」
紫月が苦言を呈する。さやは苦虫をかみつぶしたかのように顔を歪ませた。
本来、自らの主人であるさやに熊退治など単独でさせることはない。が、紫月は彼女を見守ることしか出来ない。今回の任務はさや一人で成し遂げなくてはならない。それが彼の里から出された彼女を認めさせる条件である。
「紫月、この下の洞窟に、足を折った少年がいる。お前はその少年を保護してきて」
紫月の問いに答えず、さやはいましがた登ってきた坂の下を指さし言った。
「少年?」
紫月が眉を寄せながら反芻する。
「おそらく、武家の坊や。右目が白く濁っているからすぐに分かると思う。麓まで運べば誰かお付きの者がいるでしょう」
そう言いながら、さやはすんすん、と着物の匂いを嗅ぐ。さっきあの少年に肩を貸した際に、彼の着物に焚かれていた香木の匂いが移ってしまった。恐らく
「……それは、出来かねます」
紫月は静かに答えた。さやの顔が険しくなる。
「私の
「だけど、この任務は……!」
「もちろん、この任務はさや様お一人で成さねばなりません。だけど私は同時に貴女を守らなくてはならない。先ほど見失った時、どれだけ焦ったことか……」
少し叱るように紫月は言う。やはり勝手に彼の監視外に動いたことを怒っているのだ。紫月は今回さやを手助けしてはならないが、決して死なせてもいけない。彼女の近くで行動を監視し見守らなくてはならないのだ。
さやは、居心地が悪そうに
「……わかった。私も行けばいいんでしょ? アクリは?」
「ワン!」
途端、紫月の合羽の胸元が丸く膨らんだかと思うと、そこから子犬が顔を覗かせ嬉しそうに鳴いた。
アクリと呼ばれた刀身のような銀灰色の毛を持つ子犬は、尻尾を振りながら嬉しそうにさやの足下にすがりつく。さやがアクリを持ち上げてあやしている間に、紫月は両足の
「向こうに緩やかな丘があります。これを着けて一気に降りましょう」
細長い不思議な木の板を両足に装着した紫月は、もう一組同じ板をさやに差し出す。さやは億劫そうに肩を落とし、「……それ、着けなきゃ駄目?」と不満そうに返した。
「ここを下るなら、これが早いです。その少年を麓に運ぶのにも役立つでしょう」
譲らない紫月に、さやは渋々それを受け取った。これは二、三度使ったことがあるが、さやはいまいち扱い慣れていない。本当ならあまり使いたくないが、紫月の言うとおり斜面を下るならこれを着けた方が速い。
子犬のアクリがさやの胸の中で、「くぅーん……」と切なそうに鳴く。恐らくあの少年の
少しの間我慢して、とさやはアクリの頭を撫でると、両足の
※
※
※
洞窟内にて。少年は勢いの落ちてきているたき火を見ながら、左膝を抱え思案に耽っていた。
さやと名乗った忍びの娘が出て行ってから、どれほどの刻が経っただろう。
一刻(約二時間)くらいのような、まだ四半刻(約三〇分)も経っていないような、長いようにも短いようにも感じられる。
折れた右足のせいで、洞窟の外に出て、新しく木の枝を探したき火に木を新しくくべることも出来ない。誰かに助けてもらわないと何も出来ない状態。なんと自分は無力なのだろう。そしてなんと器が小さいのだろう。
『私は、忍びのさや。そして…………
そう寂しげに告げた彼女の顔が忘れられない。
国亡し……恐らくあの娘は戦乱に巻き込まれて、住んでいた国を亡くしたのだろう。ということは家族も……
『羨ましいよ。そうやって
思いっきり軽蔑の眼差しを向けながら、そう告げてきた彼女の言葉が胸に刺さったままだ。
自分で自分の不幸に酔っていた事を指摘され、少年は頭を掻きむしる。
「…………」
右足に巻かれた添え木を見ながら、さやの横顔を思い出した。
彼女は俺の忍びではない。従者でもない。もちろん家族でもない。全くの赤の他人である彼女に俺を助ける義理はない。
だが、あの少女は俺を助けてくれた。骨折の処置までして、この洞窟まで運んでくれた。そんな彼女に、俺はまだ礼を言っていない。
なんて情けないのだろう。女に助けてもらい、更に礼も言えてないとは。男として、武士として失格だ。
本当ならいますぐこの洞窟を抜けて、さやを追いかけたかった。だが、自由にならない右足がそれを許さなかった。骨が折れた右足はどんどん痛みが増してきて、心なしか身体が熱を帯びてきたように感じる。少年に出来るのは、
人を呼んでくる、とさやは言っていたが、この山に入っているのは、俺とさやと、あとは俺のお目付役である従者だけだろう。さやに俺の従者が見つけられるだろうか。
思案に耽っていると、洞窟の上からザザ、と何かが滑り落ちてくるような音が聞こえた。
雪崩でも起きたか? と思ったが、この山にはまだ大きな雪崩が起きるほど雪は積もっていない。しかし音は二つ聞こえどんどん大きくなり近くに迫ってきている。一つは規則正しく雪の上を滑っている音だが、もう一つは不規則に、雑に滑っているようだ。獣が歩いているにしてはあまりにも音が綺麗すぎる。
斜面を降り、ザッと足に制動をかけ綺麗に洞窟の入り口に止まったのは、黒い合羽の人物である。
少年は一瞬、さやか? と思ったが、その人物はさやより一回り大きい体躯であり、どうやら男のようである。男は黒い頭巾をとると、足下の
いきなり見知らぬ人物が目の前に現れたことで、少年は警戒し、傍らの刀に手を伸ばす。
「な、何者か」
少年の問いには答えず、浅黒い上背のある男は目を細めてこちらを観察している。険のある視線を寄越している男は、口を動かし何か言いかけた。が、洞窟の外でシャアアア、と何かが滑り落ちる音が聞こえて男は後ろを振り返る。「きゃああ!」と甲高い女の叫び声が響き、黒い物体が凄い速さで地面に転がり落ちる。
男は、「さや様!」と言い、地面に放り出された物体の元に駆け寄った。
(さや!?)
少年がその人名に反応し、洞窟の出っ張りを掴みなんとか立ち上がり、壁を伝い、右足をかばいながら出口まで歩くと、そこには頭からつま先まで雪まみれのさやが、男――
滑雪……現代で言うスキーの歴史はとても古く、紀元前には雪上での移動手段として確立しており、日の本でも雪国では荷物に板をつけて、そりとして滑らせ移動する物資の運搬手段として既にあった。同時代、海を挟んだはるか西方の雪国、ノルウェーではスキーは軍事訓練の一種として採用されている。
スキーの技術は、季節問わず活動する忍びにとって必要不可欠な技術だ。さやも紫月から習ってはいたが、まだあまり上達していない。特に足の筋肉に力を入れ雪面との摩擦で制動する術が上手く出来なく、今もこうして斜面を滑り落ちてしまった。
紫月の手を借り立ち上がったさやは、頭を振り身体中に着いた雪を落とす。
するとふいに洞窟の入り口にいた少年と目が合ってしまった。
「あ………」
今の失態を見られてしまった……さやは恥ずかしさのあまり顔を背けてしまう。白い頬がほんのり朱に染まった。
「さや様、この少年が……?」
「そ、そう! 早く麓まで運んでいって」
少年と視線を合わせないまま、そう早口でさやは命じた。命じられた紫月はあっけにとられている少年の元に向かい、「失礼」とだけ言い少年の身体を軽々と持ち上げた。
「おい、何すんだ!」
紫月はそのまま少年を片手で脇に抱えた。が、少年は降りようと暴れる。紫月がなんとか少年を落とさないよう身体を揺らして苦戦しているところに「大人しくしろって!」とさやがぴしゃりと告げた。
「これから私は赤熊を退治しなきゃいけないの。足の折れてる奴は任務の邪魔」
そう冷たく言い放ち、さやは少年から視線を山の下へと移す。
瞬間、周りの空気がひりつき、さやの眼球の虹彩がわずかに光る。ここより数町もの下の、通常の人間には認識不可能な距離の先にさやは見つけた。彼女の獲物を。
その獲物――人食い赤熊は、情報どおりマタギ達に負わされた深傷と冬の寒さで動けないのか、白樺の木の元で休んでいる。あれ以上降りられると人里についてしまう。
急がなくては。
「ま、待てよ! 俺、まだお前に礼をしてない!」
紫月に抱えられている少年がそう叫ぶ。さやと紫月は思わず少年の顔を凝視した。
「俺だって、元服はしてないが武士の子だ。片目が見えなくても足が折れてても、何か出来るはずだ、だから……」
「少年、少し黙っていろ」
紫月が静かに言い、彼の添え木が巻かれた右足を少し小突く。折れた骨に伝ってくる痛みに少年は顔を歪ませる。が、さやは紫月を手で制して「その言葉……本当?」と少年に問いかけた。
「私に礼がしたい? 本当に?」
さやが近づいてきて紫月の脇に抱えられた少年の顔を覗く。鳶色の瞳の虹彩が光っており、少年は一瞬息を呑んだ。が、精一杯虚勢をはり「ああ」と力強く頷いてみせる。
「じゃあ、礼として……」
さやは合羽の内側に手を入れ、ごそごそと何かを探している。クナイ、棒手裏剣、かぎ爪、鎖分銅、爆ぜ玉に煙玉……一体合羽のどこにそれらを収納していたのか、あらゆる種類の忍具を雪面にぼとぼとと落とした後、「あったあった」とさやは言い、そして両手に、ぴんと鋼で出来た弦を張る。
「赤熊退治の囮になって」
「……え?」
少年の口から間抜けな声が出た。紫月が眉をしかめ主人に諫める言葉をかけようとしたが、さやの真剣な視線を受け、口をつぐむ。
さやと紫月と少年の間を、子犬のアクリが心配そうに彷徨いていた。
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