私の進路の目的は誰にもいえない

鯨月いろ

 うちの学校には幽霊がいる。幽霊と言っても、その実態は生きている幽霊だ。いつでも薄い掛け布団を頭から被って、保健室と図書室、このふたつに不定期に出没する。

 図工の科目でうっかり指を切ってしまった私は、いま、保健室で幽霊と遭遇していた。

 ベッドに腰かけて、いつものように頭まで薄い蒲団を被っている幽霊。淡い空色の生地には、蒲団らしい花柄がうっすらと散りばめられている。どこにでもありそうな掛け布団。幽霊は私と同じ学校の男子生徒だ。彼は開けた顔元からマグカップを啜っている。保健室には香ばしい珈琲の薫りが充満していた。以前、図書館でも同じ薫りが漂っていて、私はてっきり先生が飲んだ残り香だろうと思い込んでいた。こいつだったのか。

——はあ……。

 彼の口から吐息が漏れる。優雅に珈琲を嗜む幽霊。近い未来、この幽霊の歴史には、今この時が黒歴史として刻まれるんだろうな。私も——ほう……と幽霊の未来に思いを馳せる。

「治療は終わったよ。我慢強いね朱莉あかりさん」

 保健室の先生が消毒を棚に仕舞ながら快活に話しかける。切った傷口に塗られた消毒が、私の痛覚と混ざり合い、激しい痛みを主張していた。幽霊に見とれて、痛覚と感情が断絶していたんだ。今さら痛みを意識する。

「ありがとうございました」

 大人しい朱莉さんとして有名な私は、先生のお褒めに冗談を返したりしない。——嘘。冗談を返すほどノリのいい返しを持ち合わせていない。このまま部屋を出るつもりだった。それなのに、何を血迷ったんだろう?

小鳥遊たかなしくん。英語の授業は毎回、隣同士でトークをするの。来てくれないと困るんだけど」

 私は本来お隣の席に座っているはずだった幽霊に声を掛けた。

 正直困ってない。同じ他の班員、三人で出来ていたことで、三人寄れば文殊の知恵? 二人でするより、三人でした方が、つまづいても二人の助力が得られる。メリットがある。だから、幽霊の手も借りたいなんて思ってない。逆に来られた方がきっと困る。だってこいつ馬鹿でしょう? 授業来ないから。これは私の八つ当たり。何に対しての八つ当たりかはいろいろあるし。何でもいいけど。だから私は幽霊の返事に困った。

「わかった」

 てっきり無言か、ごめんか、肩でも震えて縮こまるんじゃないかって思った。

——わかった? 何をわかったの?

 私は大きな地雷を踏み抜いた気しかしなかった。幽霊はそう言ったきり、珈琲を優雅に啜った。


 幽霊が英語の授業に来た。

 幽霊が教室に入ってきたことも初に思う。またあの蒲団を頭からほっかむり、体の正面すら覆って胸のあたりを安全ピンで留め付けている。どこか異国の旅人のようないでたちにも見えるけれど、うっすらと浮かぶ花柄が、ただの馬鹿にしか映らない。

「本当に来たよ朱莉!」

「どうしよう! 私幽霊とペア組むの!?」

 朱莉さんに言われたから来たよとか言われたらどうしよう。私は内心焦る。

教室は騒然とした。

 ずっと不登校だった生徒が教室に入るのって勇気がいると思う。——彼の場合、登校はしていたけれど。教室に通っていないだけってどう呼べばいいんだろう? 授業放棄? ボイコットだろうか? 授業ボイコット?

 幽霊は腰を屈めることもなく、肩身を狭めることもなく、堂々と、気だるげに、席に着く。私の隣。蒲団の裾が床にふれ、埃がついた。幽霊の周りだけぽっかり無言地帯になって、遠巻きのクラスメイトからはちらちらと陰口が囁かれる。

 ペアでの会話は予想外だった。

「朱莉さん、Theが抜けてるよ。The、が」

「わかってる!」

 幽霊は勉強が出来た!

 英語だけかもしれないけれど。

 みんなが幽霊と私の会話に聞き耳を立てている。実際には一斉にみんな声を張り上げて、自分の声すら喧騒に飲まれてしまうのだけれど、そう思う。

なんでこいつ普通に英語話せるの?

 そんな幽霊は英語が終わるや、英語の先生と同じくして颯爽と教室から出て行ってしまった。たぶんこれで、今日の彼の任務は終わりなのだろう。ちょっと羨ましい。

「おわったぁ」

「朱莉、幽霊より馬鹿じゃん?」

「はあ!?」

 後ろの席の美智香みちかあおってくる。

「あいつが可笑しいの。授業にも出てないくせに、なんであいつ出来るのよ~~」

「よしよし。今日の給食のデザート、私のも朱莉にあげる」

「それ美智香の嫌いな奴~~」


放課後図書館に本を返しに行くと、幽霊がいた。カウンターの奥のパソコンデスクの前に座って本を読んでいる。頭までほっかむった蒲団のせいで、彼の表情はわからない。保健室にいるときも、彼は大概、外の景色を眺めていて、顔を窺うことは出来なかった。

今日、初めて彼とペアを組み、対面した彼の顔は、割合普通だった気がする。中の上。お値段と質のバランスが取れている、お値打ちな顔だ。蒲団さえほっかむっていなければ、きっと女子の中には彼を好きになった子だっていたかもしれない。

「またくるの?」

 私の言葉足らずな突然の質問に、彼は私を一瞥いちべつした。

——。

「うん」

 それだけ言うと幽霊はまた本を読みふける。自由だなあこいつ。


 私の書いていた小説がクラスのみんなに読まれた。

 それは私の全てだったもので、それは私の全てを破壊するものだった。

中学二年にもなっていない、中一の夏。私は深い絶望を味わった。

 名無しの落とし物ノートはクラスの皆に回し読みされた挙句、内容から私のものと特定された。だって、主人公の名前、朱莉だからね……。

——うわあああああああああああああああああああああああああああ!!!!

 小説と言う名の妄想。表には出さないはずだった大人しい私の秘めた黒歴史。こんな盛大にぶちまけるとは思わなかった。私は学校を休んだ。

 私の両親は、そんなことを許す人ではなかったから、仮病は一日しか持たなかった。私は保健室に落ち着いた。教室には行ける気がしない。美智香は「気にしてないよ」とメールをくれたけれど、小説の中で美智香を上から目線で慰めている痛い自分を思い出すと、美智香とすら正気で顔を合わせることができない。

「ハアあ……」

 私のため息。珈琲を飲んで、はあと吐息を漏らそうとしていた幽霊は、止めようとして「はぅ」と可愛らしい声をあげた。私とシンクロするのは嫌だったらしい。

 保健室には幽霊がいた。

「その珈琲どうしたの?」

「給湯室」

 給湯室。生徒の私には聞きなれない単語だ。でも職員室と対面して給湯室があるのは知っている。生徒でも使っていいのだろうか? いやだめでしょう?

「コーヒー豆ならここにある。ドリップの器具は給湯室のカゴに入っているから自由に使っていい」

「いや飲まないから」

 お父さんが家で飲んでるインスタントコーヒーかと思ったら、こいつ学校でなに本格的な珈琲淹れてんだ。

それに私、あんな苦い珈琲は飲まないし。薫りは好きだけど。


 今日は英語の授業があった。幽霊はずっと保健室で本を読んでいた。


———みぃんみぃんみぃんみぃん

と、蝉が鳴いている夏も真っ盛りな時期に、蒲団を頭から被っている暑苦しい奴がいる。

「暑くないの?」

「ファッションは我慢だってばっちゃんが言ってた」

 ファッションと言う単語が出てきたことに、私は返す言葉を失った。


 私の不登校ならぬ、教室ボイコットは、一週間で終わった。理由は両親に滅茶苦茶に怒られたこと。学校が両親にチクった。両親は激怒した。私は教室に戻った。腫物の扱いは多少定着してしまった気はするものの、美智香とは普通に会話ができる程度に回復した。上っ面はね~~。


 学年がひとつ上がった。


 私と幽霊はあれから、細くて長い親交を漫然と続けている。

 もっぱら図書室で遭遇した。放課後になって三〇分以内に図書室に行けばまず会える。以前は保健室にいることもあれば、放課後まで残っていることも稀だった。出現率は五分五分だったのに、今は随分とゲットがしやすいモンスターになり下がったなって思う。

——私が来るのを待ってたりして……。自意識過剰だろうか。でも同級生で彼と話している生徒を、私は私以外に知らない。寂しいのかも。そう思うと同情心から私も図書室へ足を運んでやってもいいかって気持ちになる。それにほら、私は本を読むのが好きだから。書くのも好き。見せるのトラウマ……。

 私と幽霊は挨拶を交わすこともあれば、お互いに知らんぷりをすることもある。英語の授業に彼は相変わらず出席を続けて、私のたどたどしい英語が彼との比較で白日の下に晒される。

「テストどうだった?」

「まあまあ」

 相談室で受けた彼の実力テストの点数は、すべて私より上だった。許せないっ。

 図書室に通うようになって私の読書量は飛躍的に増えた。

読書量が増えたことによって、私の勉強時間は飛躍的に減った。幽霊、小鳥遊。お前のせいだ。


 季節は巡って冬を迎える。

 日の出と共にお目覚めをすることが、至難な季節の到来だ。

——お蒲団から出たくない。それか、このまま蒲団に包まれて学校に行きたい。

いやだめだ。カップルが成立してしまう。黒板に私と小鳥遊君の名前が晒される。相合傘ならぬ相合お蒲団。卑猥ひわいだ。不潔だ。傘と違って雨に降られるシチュの蒲団でもないのに、濡れる、と言う単語が出てくる。下な発想。卑猥だ私。不潔だ私。


「きっかけは冬だった」


 その日の放課後。小鳥遊君が蒲団をほっかむって登校するきっかけを聞いた。馬鹿だなあこいつ。自分のことは大いに棚に上げて思う。馬鹿だなあこいつ。

「蒲団をかぶって登校してはいけないという法律も、校則もないんだよ」

「常識もないよね」

 私は子気味のいいストレートパンチをお見舞いする。我ながら上出来だ。

「いいんだよ。中学生のうちくらい馬鹿やったって」

 幽霊は飄々としている。なんだか大人の余裕みたいでムカつく。将来私が大人になったら、ことあるごとに今の小鳥遊君を引き合いに出してなじってやろう。私は心に深く誓った。


 学年がまたひとつ上がった。

 幽霊とは三年間ずっと同じクラスになってしまった。大いに先生の操作が疑われる。生徒同士の自浄作用を狙っているのかもしれない。

しかし、先生も先生で努力をすべきだ。今の先生は生徒の問題行動に、両手を上げて武器は持ってないよアピールをすごいする。問題児は手が付けられないまま、放置を続けられるのが常だ。モンスターペアレンツ対策なのかも。SMS拡散対策もあるかもしれない。

「同情するよ」

 当の幽霊に同情されていた。不憫ふびんだ。


 高校受験を控えるに至って、私は無難に近場の公立、冨岡高校を目標にした。将来の進路は決まっていなくて適当だけれど、冨岡なら、可もなく不可もなく。無難な進路選択が出来そうだと思う。私の人生って無難ばっかりだ。何か突拍子もないことがしたい。

 模擬試験の判定はCランク。焦る。図書室に通って本を借りている場合ではない。

 図書室で勉強する。図書室には行く。家で勉強するよりはかどった。勉強をして親に感心されるのも、勉強をしなくて親に小言を言われるのも嫌だった。反抗期? 受験の時期に反抗期ってどうなんだろう? 我ながら心配になる。そう自分のことを自己分析できてる私ってすごいよねって思っている自分に恥ずかしくなる。

 向かいで幽霊が勉強している。お互いに勉強しているから捗ることもきっと大きい。

「小鳥遊君は高校どこ行くの?」

「朱莉さんはどこ行くの?」

「冨岡高校」

「じゃあ冨岡高校」

——????????

 じゃあって、何?

 その日私は、その簡単な一言が投げられなくて、二人黙って黙々と勉強をした。せっかく勉強した内容は、何も頭に残ってなかった。翌日、先生のやっと小鳥遊の進路が聞けたと言う言葉を、職員室を通りがかった私は聞いてしまった。


「じゃあって何!!!!」


 私は切れた。勉強が手に付かない! 向かいの幽霊がびっくりしている。いつもほっかむっている蒲団がずり落ちて、普通の生徒になっている。

「びっくりした!」

 小鳥遊君は蒲団をほっかむり直すと、また、びっくりしたと繰り返す。

幽霊が——じゃあ冨岡高校、と答えてから三日。勉強の効率が著しく落ちている。


「だ、か、ら!! じゃあ冨岡って何よ!!」


 このままでは落ちてしまう。


「朱莉さんと同じ高校に行きたいから」


 幽霊が蒲団を目深に被って答えた。


——アガ……ッ!?


 アガ……ッっ1?縺昴≧縺エ繧薙□告白? 告られたの?

 恥ずかしくって恥ずかしくって、視線をさ迷わせた先に名前も知らない、カウンターに座った図書委員と目が合った。三つ編みおさげに丸眼鏡をした、図書室にお似合いすぎて逆に浮いてる後輩女子。口元を覆ってきらきらと光る視線を投げている。うわー。私もうわー。私もお蒲団をかぶって悶絶したい。いいよね小鳥遊君はほっかむってて!

「そうなんだ」

「……」

 心臓がバクバクとする。


 二回目の模擬試験の結果は、〖D〗判定だった。


「お前のせいだーーーー!!!!」


 どうするのどうすればいいのどうしたらいいのどうしてくれるの!?

「責任をとるよ!!」

 小鳥遊君がいつになく真面目に答えた。

「それが問題なのよ!」

 受験シーズンって時に、色恋とは無縁だった私に、ピンクべた塗ってどーゆうことよ!? 喧嘩売ってるの? 今のも告白? もうぐだぐだじゃない。私もっとこうさあ、こうさあッ!


「私は小鳥遊君が好きです!」

「ぐだぐだだあ!」


 私はやけになって幽霊に告白した。ぐだぐだにした小鳥遊君が自分のことを棚に上げてひたいを覆う。ここまでくるともうピンクじゃない。原色に近い色でもってくちゃくちゃに描いた、下手な落書きだ。白黒つけたいという衝動に身を任せたのにね。私も幽霊もほら初心うぶだから、突拍子もない下手な抽象画が出来上がってしまう。


 私は図書室通いをやめた。


 将来の進路も何も決まっていなかった私の目標に、幽霊と同じ高校に行く。そーゆうはっきりとした目標が、初めて出来た。

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私の進路の目的は誰にもいえない 鯨月いろ @kujiraduki-iro

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