非常識 傍若無人で 迎え撃て。
雲麻(くもま)
非常識 傍若無人で 迎え撃て。
まさかこんな事になるだなんて、とアイリーンは頭痛を覚えていた。
「アイリーン・オールディス公爵令嬢! 君は公爵令嬢と云う権威の元、下々を苦しめ、王太子の婚約者と云う肩書きを利用し、悪逆の限りを尽くした! 事ここに至って、もはや改心の余地無しと判断せざるを得ない。今この時をもって、君との婚約破棄を宣言する!」
小国でもなく大国でも無い、普通の王国ファニースにて。
本日は他国の賓客を招いての夜会だった。それも、王太子とその婚約者のお披露目と云う、国にとっては大切で、他国にとってもほどほどに重要な催事である。
ファニース王族の正式な入場の前。招待客達が歓談を楽しんでいる中で、突如響いたあり得ない宣言。アイリーンは息を飲んだが、冷静さは保った。乱心したように見える王太子を諫めるため口を開く。この場で自分がすべき事だからだ。
紳士淑女、騎士兵士使用人の別なく、誰も彼もが「は?」と云う顔をしていた。その中で響いたのは、アイリーンの咎める声ではなく。
「――ミ゜ッ!」
その声、人体から出る音か? と聞きたくなるような、奇妙な音だった。
*** ***
アイリーンはオールディス公爵家の長女として生を受けた。
一人娘ではなく、兄が一人に弟が一人。三人兄弟の真ん中だが、たった一人の娘と云う事で父には溺愛され、母からはお人形のように可愛がられていると思う。
見た目も悪くない。むしろ、貴族としては上の上。キラキラ輝く金の髪、ぱっちりした翠玉の瞳、染み一つない艶やかな白い肌。顔は小さく卵形。首も手足もほっそり長く、体の凹凸も理想の通り。職人が丹精込めて作った一点物のお人形さんのよう、と母はよくうっとりしていた。
そうして両親に愛された分、兄と弟からは疎まれたが、別に虐められる事もなく。「なんでアイリーンばっかり」みたいな僻み妬みは受けたものの、まぁ仕方ない事と流せるていどの関係だった。
(仕方ないわよ。父親はたいてい娘が可愛いものだし、貴夫人は娘を着飾るのが趣味みたいなものだから)
アイリーンが生まれたファニース王国は、大国と云う程でもないが小国ほど弱くもない、平均的な規模の国だ。周囲の国とは良好であったり睨み合ったり、これまた普通。
特色と云えば、良質な魔石を採取出来る鉱山が周辺国より多い事くらいか。魔石は地脈の影響で採れたり採れなかったりするので、ファニース王国は運が良い国と云う事になる。普通の鉱山資源と違って、地脈によって生成される魔石鉱山は復活に多少の時間はかかれど、枯れる事はないからだ。
そのせいで土地を狙われたりもするが、魔石を適度に輸出する事で友好国を作り、国家間の均衡を保つ。外交が非常に大切と云う意味では、ちょっと苦労をしてる国でもあった。
(まぁ、どの国でも苦労はあるけれど。苦労知らずの国なんて、どこにも無いわ。ご都合主義な物語の中だけよ)
オールディス公爵家は魔石鉱山の一つを管理し、代々外務卿を務める由緒正しきお家柄だ。そこに娘が生まれて、同じ年齢の第一王子がいれば、婚約者となるのはお約束と云うもの。
一応は内定扱いで、確定ではない。アイリーンは幼い頃、両親にこう云われていた。
「アイリーン、クロヴィス殿下と仲良くするのだよ」
「アイちゃん。王妃様になるのは大変だけれど、挫けないで。でもどうしてもダメだと思ったら、ママに相談してね。ママが頑張ってどうにかしてあげるから」
「ママ……!」
「どうにかって、どうするんだい?」
「太后陛下の前で泣き喚いて駄々こねて取り消して貰うわ」
「やめてくれ。私がどうにかするから……!」
「ママやめて、私がんばるから……!」
とりあえず頑張らなきゃな、とアイリーンは幼心に思ったものである。
貴族の娘、その中でも最高位である公爵家の娘として生まれたのだ。家のため、国のため、望まぬ結婚をするのも仕方の無い事。それに王子様と結婚なんて物語のようでちょっと素敵だな、とも思っていた。
子供の頃からクロヴィスは、可愛いかった。煌めく金の髪も、宝石のように輝く青い目も美しく、顔の造形はパーフェクト。成長した今も変わらない王族らしい美貌は、幼い頃から発揮されていた。誰もが「かわいい……」と呟いて骨抜きになる、素敵な美少年だったのだ、クロヴィスは。本当に王子様らしい外見の王子様だった。
まぁ現実は、美麗の王子様とは云え同い年のちんくしゃクソガキに、夢を踏みにじられる結果になった訳だが。幼い頃の苦い思い出と云うやつだ。髪を引っ張られ、頬をつねられ、泥をかけられて泣かされた。
そしてやらかしたクロヴィス王子は、アイリーンたちオールディス一家の前で、国王自らの手により尻叩き百回の刑に処された。
「ごめんなさい、もうしません」と泣きわめくクロヴィスを両親と一緒に指さして笑い、アイリーンの溜飲は下がったものだった。兄はドン引きしていたが。懐かしい思い出である。
(それでお兄様は殿下と仲良くなったのだから、怪我の功名よね)
どうやら気が合ったらしいクロヴィスと兄は急速に仲良くなり、兄は側近候補に抜擢された。兄妹揃って第一王子寄りになったので、オールディス公爵家は第一王子派でクロヴィスの後ろ盾という扱いになった。
――こっからがややこしい話。けれど、どこかでも聞いた事のある話だ。
ファニース王国の王侯貴族は一夫多妻が認められている。現国王には正妃の他、二人の側妃がいらした。正妃はオールディスとは仲があまり宜しくない――ストレートに云うならドチャクソ悪い――アドコック公爵家の出で、第二王子の生母。クロヴィス第一王子の生母は、第二側妃――妃の序列で云うなら第三席――のヘルソン子爵家の出だ。
本当によくある話。国王は政治的理由で決められた婚約者のアドコック公爵家令嬢より、とある夜会で出会ったヘルソン子爵家令嬢に熱を上げただけの事。アイリーンから云わせて貰っても、正妃は性悪で感じ悪いし、第二側妃の方が可愛くて朗らかだ。自分が男でも第二側妃へ入れ揚げる、そう思う。
この辺に関しては、人によって評価が分かれる所だ。正妃を蔑ろにしたと国王を責める人もいるだろうし、第二側妃への愛を貫いたと絶賛する人もいるだろう。それはもう人それぞれ。国王が悪いのか正しいのかは、後の世の人々が決める事だ。なのでアイリーンは単純に、「第二側妃さまかーわいーい。あー、未来のお義母さま予定の方が優しい人で善かった~」と思っている。
正妃に睨まれながらも国王の寵愛を受け、“真っ当に”側妃をやっている時点で普通の人ではないとは分かっているが。それでも会う度「可愛い人だわぁ。陛下羨ましいわぁ」とIQ溶かして思うのだから、アイリーンは深く考える事をやめている。ただ、「魔性の女」と云うのは第二側妃のような方を云うのだろうと、心に留めていた。
とにもかくにも。
第一王子であるが生母の実家が子爵家ゆえ、後ろ盾に乏しいのがクロヴィスだった。そこへ婚約者候補と側近候補にオールディス家の子供達が添えられたのだ。オールディス家が第一王子派だと断定されても、仕方のない事。
(クロヴィス殿下自身、けっこう優秀な方ですし?)
特別な天才ではない。完璧超人ではない。その賞賛は、第二王子へ向けられている。けれどクロヴィスは決して無能ではなかった。むしろ優秀。国王になるに全く不足のない能力の持ち主だ。
何よりアイリーンが評価していたのは、人に好かれる才能である。
(第二王子殿下は、こう、強烈なカリスマで「黙って俺について来い!」系だとしたら、クロヴィス殿下は……「あぁ、この人の為に何かしてあげなくちゃ、自分が助けてあげなくちゃ……!」と思わせるほっとけない系って云うのかしら?)
第二王子の周りにいる人々が、「さすがは殿下!」「殿下の仰る通りです!」「殿下のご命令に従います!」的な過激派信者系だとしたら、クロヴィスの周りには世話焼き有能系が多いと云うか。
クロヴィスは優秀だがドジっ子な部分もあって、「もー。仕方ない殿下ですねぇ」「まったく、殿下は俺がいないとダメですね!」「殿下のためなら、まぁ、命くらいかけますよ」的な連中が多い。気がする。軽く見えて重いと云うか。クロヴィスが何しても見捨てない、最後までついて行く系と云うか。
(この辺も好みの問題かしらねー)
あくまでアイリーンの偏見だが。
第二王子周りは、強い人に引っ張って貰いたい、自分で考えて責任を取りたくない、優秀だが精神が弱い系の人たちが多いと思う。
それとは逆にクロヴィスの周りは、有能で我が強く、能力は高いが扱い辛くて普通の職場だと変人・奇人のレッテルを貼られて爪弾きにされそうな人ばかりだった。
アイリーンとしては、周りの意見を柔軟に取り入れて、どんな人材も分け隔て無く重用し心を開かせるクロヴィスこそ国王に相応しいと思うのだが、多くの人は完璧超人な第二王子がよりよく見えるらしい。
あんな俺様勘違い野郎の方が支持率高いなんて、世の中間違ってる。血筋が良くても性格クソじゃないか、と口悪く思ってしまう。
(まぁ異母とは云えクロヴィス殿下の弟君ですし? それなりには親しくしてますけど? 私が本当はあの野郎の方が好きとか、気持ち悪い勘違いやめて欲しいわ)
公爵令嬢として、アイリーンは正しく教育されていた。両親共に変わり者な部分があるので、他の令嬢よりはのびのび育てて貰ったが、それでも根本の部分は清く正しい貴人の娘である。
結婚は家のため、国のため、民のため。領民の血税で育てられたこの身に、自由などはない。よりよき未来のために、自我など棄てて当然だ。
けれど――けれど。
それでもアイリーンは人間だ。少しは自分の希望や願いはある。
アイリーンは、なるべく笑顔の多い人生を歩みたい。例え公務が大変でも、プライベートでは穏やかに過ごしたい。今の王妃を見てるとことさら思うのだ。
嫉妬して、憎んで、怒って、イライラして。顔を常に険しくする人生の、なんて空しい事だろう。
(クロヴィス殿下となら、笑顔で人生終われそうなのよね)
優秀だけどドジっ子で、王子だけど平凡で。両親の愛情をたっぷり受けて育ったクロヴィスは、同じく両親から溺愛されたアイリーンとお似合いのはずだ。
いつも思わぬドジでアイリーンを笑わせてくれるクロヴィスと人生を一緒に歩めたら、それは楽しい道行きだろうとそう思っていた。
思って、いたのに。
「アイリーン・オールディス公爵令嬢! 君は公爵令嬢と云う権威の元、下々を苦しめ、王太子の婚約者と云う肩書きを利用し、悪逆の限りを尽くした! 事ここに至って、もはや改心の余地無しと判断せざるを得ない。今この時をもって、君との婚約破棄を宣言する!」
なんでこんな事になったのか。
アイリーンの前で堂々と宣言するクロヴィスの腕には、愛らしい令嬢が絡みついている。彼の周りには、兄と騎士団長子息、宰相子息、魔術士団長子息、大商人の息子の他、多くの取り巻きが。
アイリーンは頭が痛くなった。クロヴィスが王族としてあり得ない行動を取った事と、その彼を止めなかった兄を始めとした側近たちに。
見た目可愛いピンク頭の令嬢はまぁどうでもいい。
とにかく、公爵家の娘として、婚約者として、この騒ぎを的確に手早く収めねばと思うアイリーンの耳に変な音が聞こえた。
「――ミ゜ッ!」
それはおおよそ、人の声とは思えぬ音だった。しかし何故か、人の声だと確信出来てしまえる音でもあった。
思わずアイリーンは動きを止める。ついでに音のした方を見た。
アイリーンだけでなく、王太子も、彼の腕に絡みついている美少女も、その取り巻き達も、本来無関係な人々も、ついそっちを見てしまう。
大勢の視線が集まる先には、口を押さえて目を見開いた美青年とその護衛らしき二人の青年がいた。
輝く黄金の髪に瑠璃色の瞳をした美青年は、ファニース王国とは趣の違う、藍鉄色の貴族礼服を見事に着こなしていた。誰もがため息をつくような美貌の持ち主だが、表情の柔らかさから人の良さが滲み出ている。
二人のスーツを着た護衛は、同じ顔をしていた。恐らく双子か年の近い兄弟だろう。栗色の髪に檸檬色の瞳と色も同じだったが、表情とまとう雰囲気が違う。片方は気だるげで粗野な印象を受け、もう片方は温厚で慇懃な印象を受けた。
不思議な三人組だ。来賓のリストには全て目を通したが、かなりの数があったのでとっさに誰なのかが分からない。金髪の貴族は多いのだ。
「……だんなさま。マジでその声、どっから出てんの?」
「わ、わからない。どっからか出ました」
「一度声帯を検査した方が……いや、横隔膜ですかね。それとも肺……?」
一方、注目を集めている三人はどこ吹く風。護衛の一人は呆れた顔で美青年を見下ろし、だんなさまと呼ばれた美青年は口元に手をやったまま困り果て、もう一人の護衛は不思議そうに美青年の背中や腹を撫でていた。
完全に周りの状況を無視している。その様に王太子が顔を怒りに染めた。
「な、なんだ貴殿達は! 私の宣言中に無礼ではないか!」
「はぁあ~~? 無礼云々で云ったら、いきなり夜会で婚約破棄宣言する方が失礼で非常識であり得ないじゃん。そーゆーデリケートな話はどっかの個室でやってー」
「んなっ?!」
相手が王族、王太子である事を考えれば果てしなく無礼な発言だが、当を得ていた。アイリーン含め周りの人々もうんうん、と頷いている。
「そうですそうです。うちの旦那様はただ今婚約中なのですよ? そのような繊細な時期に身を置かれる旦那様の前で婚約破棄宣言だなんて、貴方には人の心がないのですか!」
「ひぇ、やめてやめて。気にしてませんから!」
「ちょっと~~だんなさま泣いちゃったじゃ~~ん」
「謝って下さいよ
「泣いてません! 泣いてませんけど! ちょっとびっくりしただけで泣いてません!」
泣いてはいないが、涙目にはなっていた。少々情けないタイプのようだ。と云うか、護衛だと思っていた二人は本当に護衛だろうか。主だろう旦那様を思いきりからかっているのだが。
アイリーンは場の空気を変えるため、と云うか、三人が与えてくれた隙を有り難く利用するために口を開いた。
「来賓の方の仰る通り、この場でするお話ではないでしょう。殿下、続きは場所を変えて……」
「そう云って逃げる気か! アイリーン!」
「違います」
「このお嬢様、場所変えるって云ってるだけじゃん。なんで逃げる事になんの?」
「え……?」
声が思ってたより近くから聞こえ、アイリーンは驚いて振り返る。さっきまで七歩ほど離れた場所に居たはずの三人組が、アイリーンのすぐ側まで来ていた。
貴族の美青年は申し訳なさそうに会釈してくれたので、こちらも礼儀として返す。慇懃護衛は丁寧に頭を下げていたが、気だるげ護衛はアイリーンではなく呆れた顔で王太子達を見ていた。
「つーかさぁ、ファニース王族の入場ってまだじゃね? あんたここで何してんの、おーじ様」
「さ、先ほどから無礼だぞ貴様! 名を名乗れ!」
「俺ー? ヴェルトってーの。だんなさまの護衛で、姐さんの部下で、ヘイスの弟ー。あ、だんなさまはこっちね」
「フロード王国公爵、ランヴァルト・ウルリク・フォン・グランフェルト閣下でございます」
どよ、と周囲が大きくざわめいた。クロヴィスたちもギョッと顔色を変える。
フロード王国は、我が国ファニースとは比べものにならないほどの大国だ。そこのグランフェルト公爵家の当主と云えば、今まさに時の人。とんでもない人物の婚約者として、一躍名が世界中へ知れ渡った最高位の国賓だった。
(なぜすぐに気付かなかったの、私!)
自分が思うより、婚約破棄に動揺していた事を知る。
すぐさまアイリーンは令嬢としての最敬礼を、改めてグランフェルト公爵へ向かって取った。左手でドレスの裾をつまみ上げ、右手の平を心臓へ当て、行きすぎない程度に頭を下げる。
「ご挨拶が遅れて大変申し訳ありません。オールディス公爵家長女、アイリーンと申します。グランフェルト公爵閣下にお見苦しい姿を見せたこと、深くお詫び申し上げます」
「あ、いえいえ。お気になさらず。僕は
アイリーンの下げた頭に、朗らかな声が落ちてくる。それは他国の公爵とは思えないほど穏やかで、アイリーンへの思いやりに満ちた声だった。
「なんでここでグランフェルト公爵家が出てくる……?」
「殿下、ファイトですファイト」
「目的達成のためです。頑張ってください」
小声でクロヴィス達が交わす言葉が聞こえてきた。アットホームで和気藹々としたそれは以前と変わらない。
ちょっと視線を向けてみると、頭を抱えるクロヴィスを兄と宰相子息が励ましていた。ちなみにその時、令嬢と大商人の息子は騎士団長子息と他の取り巻きたちの手によって、彼らから引き離されていた。
思わぬ横やりに驚いたのは彼らも同じだったようだが、クロヴィスはぺしぺしと両頬を叩くとこちらを見た。腕にはもう令嬢をくっつけていない。彼女はクロヴィスの隣へ戻ろうとしていたが、周りが絶妙に邪魔していた。
「え、えーっと。グランフェルト公爵閣下、ご機嫌麗しゅう。ファニース王国第一王子クロヴィスです。この度は我が国へようこそお越し下さいました」
「これはご丁寧に……。グランフェルト公爵ランヴァルトです。お見知りおき下さい、クロヴィス殿下」
「いえいえこちらこそ……」
握手をする二人は、普通に王侯貴族だった。クロヴィスはまだ動揺を引きずっているが、王族として正しく挨拶している。
夜会の場で婚約破棄宣言するような非常識王族には見えない。
(……これ、何か裏があります?)
こっそり兄へ目配せをすれば、うん、と軽く頷き返された。さすがにテレパシーは使えないので真意は分からないが、理由があると云う確証は得た。
さて、その真意は一体なんだと云うのか。
理由としては、分かりやすくハブられている令嬢と大商人子息だと思われるが。
(そう云えば噂になってましたね、この二人)
ファニース王国王都には王立学院所がある。学院には王侯貴族他、家が裕福か優秀な能力を持つ平民も入学出来た。身分差は考慮されるが、学ぶ権利は平等だ。先進的な学院として扱われる、我が国自慢の学習機関であった。
王侯貴族は十三から十八までの間学院へ通い、専門的な学問を学び、社交性を身につける。平民はテストなどで結果を出せば、各家からスカウトが来たり、公務員になれる資格を得られるようになるのだ。
アイリーンたちも当然この学院に通っていた。とは云っても、一月前に無事卒業。大人の仲間入りを果たし、ついに婚約発表の段階に来た訳だが。
この令嬢の噂は――確か男爵家の者だった、はず――、在学中頻繁に聞いた気がする。良く云えば天真爛漫、悪く云えば恥知らずな彼女は、王侯貴族平民構わず将来性があって見目の良い男性に声をたくさんかけていたらしい。自分の婚約者に粉をかけられたと憤慨している令嬢を、幾人か見かけた。アイリーンは特に気にしていなかった。一時の事、“はしか”みたいなものだと思っていたからだ。
(殿下の態度が変わっていたら、私も気にしたかも知れないけど)
クロヴィスにはまったく変化がなく、むしろアイリーンに「変な男が近付いて来てないか」「何かあったらすぐに云うんだぞ」「たとえ学院であっても、一人きりになってはダメだ」と云っていたくらいだ。クロヴィスは心配性だと笑ったものである。
で、件の変な男。それが大商人の息子だったはず。
やたらと高位の貴族令嬢に声をかけ、自分の所の商品をセールスして来るとか。大人しい普通の令嬢たちは対応に苦慮していたらしいが、アイリーンは勝手に名前を呼ばれた時点で「慮外者!」と扇子(鉄の板入り)でシバキ倒したので問題なかった。
アイリーンに対して平民が「アイリーン嬢!」と声をかけて来るなどあり得ない。普通は、「恐れながらオールディス公爵家ご令嬢、ご挨拶させていただいても宜しいですか?」と云う。
下の者が目上の者へ声をかけるのは礼儀に反するが、学院ではある程度目こぼしがある。教員から伝言を頼まれたとか、移動教室の場所が変わっただとか。そう云う些細な連絡が学院内ではありえるので、例外的に許されていたのだ。けれど、言葉遣いに気を付けるのは当然の事、相手との身分の釣り合いも考えなくてはいけない。アイリーンに伝言があるなら、最低でも伯爵家の縁者でなくては。
学院において学問を学ぶ権利は平等であったが、貴族社会の縮図でもある場所だ。身分差はきっちり適応されている。
つまり、件の大商人の息子は論外だった。
アイリーンがやつをシバキ倒した後、顔色を悪くしたクロヴィスがやって来て「そう云う事は警備員か周りの令息にやらせなさい」と云っていたけれど。それについてははしたない真似をした自覚があったので、謝罪済みである。問題なかったと云ったな、アレは嘘だ。ちょっと問題あった。
「あのう、やはり婚約破棄と云うのは宜しくないかと……」
「いえ、その、グランフェルト公爵がお気になさる事では……」
「こんな大勢の前でやらかして気にするなはムリあるけどー」
「あの、この人なんなんですかね。すっごい馴れ馴れしいんですけど」
「すみません、あの、彼の本来の上司が私の婚約者で……」
「あ、はい、こちらこそすみません。何も文句ないです」
「なになにー、俺の話? ならハブる事なくねー?」
「ひぇっ、めっちゃ親しげに肩組んで来た……?!」
「ヴェルト、やめてくださいヴェルト。他国の王子殿下ですから!」
中間管理職同士の世間話に傍若無人を添えて、みたいになってる。どうするのだろうか、この宙ぶらりんな状況。
そうアイリーンは遠い目をしつつ、「お飲み物はいかがですか?」と聞いてくれたヘイス(と云うらしい)にノンアルコール飲料を頼む。無難にリンゴジュースを持ってきてくれた事へ礼を云い、念のため毒が入っていないか魔導術で
さすが王城の夜会で出されるリンゴジュース、豊かな甘みがありながら、のどごしスッキリ後味爽やか。初めて口にした味だが、どこの銘柄だろうか。
「実はそちらのリンゴジュース。ファニース王国へ卸したばかりの、当社の新製品でして」
「あら、そうでしたの? とても美味しいわ。産地はどこかしら」
「北大陸のフェルム公国産のリンゴを使用しております」
「まぁ、あのフェルム公国? さすがですわ、北大陸の公国にまで伝手があるだなんて」
「おや、フェルム公国のお話ですか?」
「アイリーン様。リンゴのお話でしたら、わたくしも混ぜてくださいませ」
「我が国も果物が特産品でして、是非ともお話させてください」
リンゴジュースを切っ掛けに、わらわらとアイリーンの周囲へ人が集まって来る。自国の令嬢から他国の紳士まで。よく見たら王族もいる。話題性十分な品を持ってきてアイリーンへ飲ませるあたり、
しかしこのぐだぐだな状況、本当にどうすればいいのだろうか。あと数分で、王族入場の時間になってしまうのだが。
「ちょっとクロ様! 今はそんな男とじゃれてる場合じゃないでしょ! わたしとの婚約発表はどうなったの?!」
「そうですよクロ殿下! そんな連中は放っておいて、本来の目的をですね」
「愛称で呼ぶ許可を出した覚えはないが?」
取り巻きたちの向こう側から、キャンキャンと甲高い耳障りな声がしたが、至極冷静なクロヴィスの声に遮られた。王族らしく、威厳と威圧に満ちた声音に騒ぎ出した令嬢と大商人息子――面倒だから莫迦息子と呼ぼう――が、息を飲んで黙る。
未だヴェルトと肩を組んでいる――いや、組まされている。ヴェルトを真ん中に、右側にグランフェルト公爵、左側にクロヴィスと云う並びだ。クロヴィスが真面目な、ともすれば怒っているような顔をしているのに対し、公爵は困り果てたしわしわ顔、ヴェルトは飽きたのか窓の外を見ていて中々にカオスだ。噴き出さなかった自分を褒めたいアイリーンだ。
その代わり、ヘイスや周辺の紳士が噴いた。ずるい。男性と云うのはどうしてこう、女性が我慢しているにも関わらずやらかすのか。尻を叩いてやりたい。
いや待て。思わぬ笑いにうっかり忘れかけたが、今この男爵令嬢、「私との婚約発表」とか云ったか?
「お兄様、お兄様」
「なんだ妹よ。偉いお兄様を気安く手招きするんじゃない」
「そう云いながら来てくれるお兄様、紳士で素敵ですわ。……あのピンクのご令嬢、私との婚約発表とか云ってましたけど、どう云う事です? 私がエスコートされなかった事案と関係が?」
「……」
「お兄様、適当な云い訳が思い付かないと黙りを決め込むのはお兄様のよくない所ですわ。ほら、お話しましょう? 怒りませんから」
「もう怒ってるだろう。まぁ、その、なんだー……あー、……クロ殿下は頑張り屋さんな訳だが」
「存じております」
「まぁ、そのな、えーっと」
兄妹二人の会話に、興味津々で周りが集まって来る。聞き耳立てるところじゃない近寄りっぷり。それでこそ王侯貴族。他人の話がめっちゃ気になるの、とてもよく分かる。自分だって第三者だったらそうする。
一番距離が近く、兄の隣にさも関係者のような感じで収まってるヘイスには云いたい事があるが、まぁ横へ置いて。
「今回、頑張り方を間違えてる」
「あ、間違えてるんですね。で、何故お止めしませんの、お兄様」
「長い人生、間違えてもいいんじゃないか……この経験がクロ殿下をもっと成長させるんじゃないか……ついでに云えば、可愛くない妹の可愛い一面が見れるんじゃないか…………そう思って」
「お兄様この野郎」
「いたたたたたたた
意味が分からないかつ腹の立つ事を云ってくる兄の耳を筋力強化して引っ張ってやれば、すぐさま抗議が飛んでくる。貴族令嬢にいらない魔導術? とんでもない、いざと云う時はクロヴィスの剣なり盾になるために必須の技能だ。
周りのみなさんも、「まぁ魔力制御がお上手」「さすがアイリーン嬢、多才ですなぁ」と褒めてくれているではないか。
「な、なんでそんな冷たいことを仰るのクロ様! 嫉妬に狂ったアイリーン様にいじめられたわたしを、クロ様は守ってくれたのに!」
「は?」
王子から愛称で呼ぶなと云われたのに従わない非常識さは今更なので置いといて。突然引き合いに出されたアイリーンは、思わず声を出してしまった。嫉妬に狂ったとか、この令嬢を虐めたとか、とんだ濡れ衣を叩きつけられて呆気に取られる。
アイリーンの「は?」を聞き咎めたらしい令嬢が、キッとこちらを睨み付けてきた。大きな瞳に力をいっぱい込めているが、愛らしさが損なわれていないところは素直に凄いなと思う。
「アイリーン様でしょ! わたしがクロ様と親しい事に嫉妬して、わたしの教科書を捨てたり、わたしの持ち物を取り上げたり、わたしのドレスに飲み物をかけて台無しにしたり、わたしだけお茶会に呼ばないで仲間はずれにしたり、わたしの悪口を広めたり、わたしを裏庭に呼び出して囲んだり、わたしを階段から突き落としたのは!」
「わたしがゲシュタルト崩壊しそうですね」
凄い我が強いぞこの令嬢、の気持ちを込めて返せば、今度は紳士だけでなく淑女の皆様も噴き出した。ずるい、アイリーンは笑いたくとも笑えないと云うのに。
「と云うか、嫉妬に狂ったにしては、えっと……」
「……なんかぁ、ショボくない? 狂ったレベルじゃなくないー?」
「ヴェルト……。人によってはとても辛い事なのだから、そのように云うものではないですよ」
アイリーンがどう云うべきか悩んでいたら、ヴェルトがスパッと云い切った。あまりに清々しい云い切りに、グランフェルト公爵の
ただ、アイリーンも思った。教科書やドレスなどの持ち物をダメにする事も、仲間外れにする事も、悪口を広めるのも、呼び出して囲むのも、してはいけない事だ。イジメ行為に正当性などなく、これらを本当にアイリーンが行っていたら断罪されて然るべきである。階段から突き落とすに至っては、もはや犯罪だ。傷害罪、殺人未遂が適応されるだろう。
しかし、だ。
――狂った、と云えるレベルだろうか、これらは。
「嫉妬に狂ったんならさぁー、動物の死骸送り付けるとかぁ、服で隠れる場所を狙って暴力振るうとかぁ、豚の内臓頭からぶちまけてやるとかぁ、友達どころか家族狙って順番に消して行くとかぁ、監禁して気が狂うように仕向けるとかぁ、嫉妬相手の四肢切断して壺に塩漬けにして飼い殺すとかすんじゃねーの?」
「ひぇっ! 隣りの人が怖いこと云ってくる! タスケテ!」
「それ、異世界の演劇の話ではなくって?」
「えー、でも狂ったならそれくらい余裕ですんじゃねーの? 嫉妬で狂って殺したくなるなら、階段から突き落とす程度じゃ生ぬるいってー。ナイフで滅多刺しとか、鈍器で滅多打ちとか、劇薬ぶっかけるくらいするじゃん絶対ー」
「しますわよねぇ」
「こわいこわいこわい。めっちゃ怖い人に肩組まれてる。婚約者も同意してる! 誰かタスケテ!」
「殿下頑張って!」「怖い事云ってるだけで実行してませんよ!」「アイリーン嬢も大概ですけど、彼女も実行してませんから!」「大丈夫、殿下強い子だから!」
「雑な応援してくるな!」
クロヴィスは半泣きになっているが、ヴェルトの発言は当を得ていると思う。“狂った”と云うならそれくらいやるべきだ。
令嬢の云うアイリーンが行った事は、狂ったレベルではない。云ってはなんだが、理性的ですらある。軽犯罪で済むどころかファニース王国の高位貴族ならばもみ消し可能の範囲内だ。狂ったと云うなら、云い逃れできない、激情による後先考えない行為でなくてはならないだろう。
そう思って同意していたのだが、クロヴィスからも令嬢からも引かれた。クロヴィスに引かれるのはまだ納得出来るが、嫉妬に狂ったとか最初に云い出した令嬢が同じ態度なのは納得いかない。
ちなみに周りの紳士淑女は、引いてる人は腰を引かせているし、そうだそうだと云っている人もいる。十人十色、感じ方は人それぞれと云うものだ。
「と云うか、私には一切覚えが無い話なのですが。殿下が守ったと云うのはどう云う事です? イマジナリー・フレンドならぬ、イマジナリー・エネミーでも作り出して戦っていたのですか?」
「何その切ない話ー」
「し、しらばっくれないでよ! あんたしかいないでしょ! クロ様の新しい恋人であるわたしをイジメるやつなんて!」
「殿下……恋人は選んだ方が……あの、女性はたくさんいるのですから、何もよりにもよってこんなの選ばなくても……」
「こんなのって何よ?! どう云う意味?!」
「いや恋人じゃないんだが」
「そこ否定しちゃダメでしょう、殿下」
「否定した時点で計画が破綻しましたが?」
「あ」
どうやら、何らかの計画の元動いていたらしい。兄と宰相子息が突っ込みを入れている。
この令嬢を利用した計画とは一体どう云う設計で目的はなんなのか、アイリーンですら皆目見当が付かない。何をしたかったのだろうか、クロヴィスは。
「……うう、やっぱりムリがあったんだ。僕はそんな賢くないし、演技も上手くないし。ブラッドみたいに堂々としてないし……」
「く、クロヴィス殿下、大丈夫ですか?」
「ちょっと女子~~、おーじ様泣いちゃったじゃん~~」
「私のせいですの? そちらのご令嬢のせいでは?」
「泣きたいのはわたしの方なんだけど?! 何なのよ一体! 話が違うじゃ無い! 意味わかんないッ!」
せっかく手入れされた綺麗な髪を自らの手でぐしゃぐしゃにし、右足で地団駄を踏みながら令嬢は叫ぶ。非常識極まっているが、「意味わかんない」には同意したいアイリーンだ。
本当にこの状況、意味が分からない。クロヴィスは何がしたいのか。事の始末はどうやってつけるのか。異母弟の名前を出してへこんでいる場合ではない。
「――なんの騒ぎか」
混沌とした場へ、鋭い声が切り込んだ。我が国の貴族たちはアイリーンを含め、素早く腰を折った。それに続いて他国の貴族も最敬礼を取り、王族は鷹揚な態度で声の主を迎える。
アイリーンは頭を下げてしまったので分からないが、件の令嬢、大丈夫だろうか。ちゃんと礼を取ってる? いくらなんだって、自国の国王の前でやらかさないで欲しいところだ。ファニース王国貴族令嬢の名を、これ以上下げないで貰いたい。
「ファニース王国国王モーガン二世陛下、ご来場でございます」
云うの遅い。誰もが心の中で突っ込んだだろう。もっと早く云って欲しい、と。
「うむ。クロヴィスよ、いったい何事か」
「陛下……僕はやっぱりダメです。国王に向いてません」
「うん? どうしたどうした。この前頑張ると云っていたではないか」
国王らしく威厳たっぷりにクロヴィスへ対応してると思ったら、次の瞬間にはただのお父さんになってしまった。こう云う陛下の親愛の情に厚いところ、嫌いじゃ無い。嫌いじゃないが、もう少し威厳保ってくださいとも思う。他国の王侯貴族がいらっしゃるのだから。
「おおそうだ。皆の者、お客人方、楽にしてくだされ。余も事情を聞きたい」
云われ、アイリーンも顔を上げ、姿勢を正した。国王から楽にしろと云われて本当に楽な態度を取る人はいない。
「へー。あれがファニースの王様。普通のおじちゃんだねー」
「ヴェルトぉー!」
いた。いたが、見なかった事にする。もうあの人はなんか、アイリーンたちとは見てる世界が違うと思うので。
少し遠くを見つめてから、改めて陛下の方へ視線を向ける。先頭に陛下、隣りに正妃殿下、その後ろには二人の側妃とクロヴィスの異母弟ブラッド。陛下と二人の側妃は不思議そうにクロヴィスを見ていたが、正妃とブラッドは憎々しげに睨んでいた。もうちょっと隠す努力をして欲しい。人が大勢いる場所で負の感情剝き出しとか、王族としてと云うか、人として割と恥ずかしいと思う。
「何も上手に出来なくて……。みんなに手伝って貰って、せっかく一番いい計画を立てたのに、僕が台無しに……」
「これ、泣くな泣くな。なにやらこっそり計画していた事は余も知っておったが、泣くほどの失敗をしたのか?」
「ワイト男爵が……我が国を裏切って他国へ情報を流していたので、反王室の一派ともども一網打尽にしてやろうと思ったんですけど」
「待って?」
思わずアイリーンは声を出していた。この騒動の根本が反逆者への対応だとか、話が飛び過ぎだと思ったのだ。ちょっと理解出来ない。
しかし名前を出されたワイト男爵が逃げだそうとし、警備兵たちに押さえ込まれた事で話は続いた。
「ぱ、パパ! ちょっと、パパに何するのよ?!」
件の令嬢が、ぷんぷん怒りながら警備兵へ突撃して行く。彼女はワイト男爵家の令嬢だったようだ。礼儀作法はあれだが、父を心配する姿は良き娘に見える。自分より大きな男たちへ立ち向かって行く勇気は素晴らしい。ワイト男爵も、「ホリー、来てはいかん!」と止めている。優しい親子愛がチラ見出来た。彼女の名前がホリーだと云う事もいま覚えた。
そう云えばワイト男爵家は、国境線に近い場所に領地を持つ某伯爵家の子飼いだったはず。そうアイリーンが思い出したところで、その某伯爵も騎士に両腕を掴まれて顔色を青くしていた。
ついでに、莫迦息子の父親である大商人が、瑠璃色のドレスをまとった藍鉄色の髪を持つ絶世の美女に、締め上げられている姿が見えた。背景の情報量が多い。
「……うむ、それで?」
「情報目当てだったのか、王子を陥落させて王家の失墜を狙ったのかは分かりませんが、ワイト男爵家令嬢のホリーが近付いて来たので逆に利用しようと思って」
「意外と悪党じゃーん」
にやにや笑いながらヴェルトが合いの手を入れる。アイリーンも感心した。王族にしては感性が普通なクロヴィスが、敵勢力とは云えうら若き乙女を利用する計画を立てるとは。
いつの間にか彼も大人になっていたらしい。アイリーンの髪や頬を引っ張って泣かせたヤンチャな男の子は、国の事を考えられる王子様に成長したのだ。
「情報は充分に引き出せて、証拠も押さえられたので……」
「こちらでございます」
アイリーンの兄がサッと現われて、国王へ恭しく書類の束を渡す。いつの間に移動したのか。
その後ろで宰相子息は両手で一抱えもある箱を、
「トントン拍子に上手く行ったので、ついでにアイリーンとの婚約を無かったことにしようかと……」
「うん、そこが分からん」
国王が書類をペラペラ見ながら云う。側妃のお二人が両脇から覗き込み、正妃が鬼の形相で睨み付けていた。こわい。
「お前、アイリーン嬢のこと大好きだろう。アイリーン嬢ががっかりしない王様になるのだと、はりきっていたではないか」
「まぁ……!」
国王の言葉に、アイリーンはポッと頬を染めた。普通なクロヴィスは普通に照れる青年なので、思春期とか反抗期に入ってからは面と向かって好きとか云われた事がない。しかし国王が仰る以上、事実なのだろう。
ぽろっと出た情報が思いの外嬉しくて、アイリーンはにこにこしてしまった。ヘイスも「良かったですね」と云ってくれる。しかしクロヴィスは浮かない顔だ。どうしてだろうか。
「……アイリーンは……たぶん、僕の事を……」
しょぼしょぼへこんで行く姿に、はしたない事だが駆け寄ってしまった。一体どうしたと云うのか。アイリーンがなんだと云うのだ。
「殿下……」
「アイリーン……」
肩と眉尻を下げる姿に、ちょっとキュンとした。捨てられた子犬みたいな哀愁がある。頭と首をわしゃしゃっと撫でてあげたくなった。
「……アイリーン、最近、笑わなくなったな」
「えっ」
「昔は……僕がドジを踏むと、指差してお腹を抱えて大笑いしてたのに……」
「やめてください、突然の黒歴史暴露は」
「おーじ様笑いものにするとか、やるじゃんお嬢さま」
「やめてください、人を悪女のように云うのは!」
そう、黒歴史である。
クロヴィスと初めて会ったあの日。彼が国王に尻叩き百回の刑に処された時、あまりの愉快さに両親と一緒に大笑いした訳だが。
その後も一度覚えてしまった笑い癖が中々抜けなくて、アイリーンは早々に「箸が転がってもおかしい年頃」を迎えてしまったのだ。クロヴィスのやる事なす事、面白おかしくて堪らない。弟が「姉上笑い袋の化身かよ」と毒づくレベルで、アイリーンは笑い上戸になり果てた。
淑女としてはしたないにも程がある。淑女教育と王妃教育の合わせ技で、なんとか押さえ込めるようになったのだが。お陰様で腹筋が育ってしまった気がする。服を着れば誤魔化せるが、うっすら割れているような気がして仕方ない。専属の侍女たちから「気のせいではありません、少しですが割れてます」と云われたが、信じていない。気がするだけ、気がするだけだ。きっと幻。
「あの……淑女がですね、しかも王太子殿下の婚約者がですね、お腹抱えて大笑いはちょっと……いや、かなり宜しくない事でして」
「僕はあけすけに大笑いする君の笑顔が好きなんだ!」
涙目でクロヴィスは云った。びっくりして言葉が止まる。首から上に熱が集まって、ぶわっと汗が噴き出した。情けない顔での悲痛な告白は、確かにアイリーンの乙女心を打ったのだ。
アイリーンの様子に気付かず、鼻をすすって彼は続けた。
「自分のドジなところも、アイリーンが笑ってくれるなら良かった。でも、学院に入ってから君は、他の令嬢と同じく微笑むだけになって、僕のドジを見ても適切にフォローしてくれるだけで莫迦にしないし、なのに兄弟の前では口を開けて笑うし!」
「いやまぁあの、兄弟なので」
「この笑い袋はちょっと黙った方がいいですよ」
「お黙りやがってくださいお兄様」
「アイリーンが笑ってくれるから……僕は僕のドジなところも、嫌いにならないで済んだのに……」
しゅん、とまたクロヴィスが落ち込んでしまった。兄の足を踏みにじっている場合ではない。
「アイリーンを笑わせられないヘボな僕が国王になるより、優秀なブラッドが王位を継いでアイリーンを娶った方が……」
「全力でお断り案件です」
「え」「えっ」
クロヴィスが顔を上げてきょとんとし、空気になっていたブラッドが心底傷ついたと云う顔になった。
が、知った事ではない。
「宜しいですか、クロ殿下。よくお聞き下さい」
「はい」
「私が大笑いしなくなったのは、淑女だからです。私の両親は爆笑する娘を微笑ましく見守る変わり者ですが、世間では女性が大笑いするのははしたない事とされています。王妃としてあなたの隣りに立つ以上、世間の目を無視する事は出来ません。公務などでは
「はい……」
「なので、結婚したらプライベートでは大いに笑いますわ」
にっこり、アイリーンは笑う。大笑いではないが、淑女が浮かべるにはあまりに好意が明け透けな笑顔だ。
「世間の目がない場所なら、これからもめいっぱい笑います。家族になったら遠慮などしません。お腹を抱えて、足をジタバタさせて、あなたが呆れるほどに笑いますから。だから……婚約破棄なんて、なさらないで。これからも笑い合いながら、一緒に生きてゆきましょう?」
「アイリーン……! う、うん、うん! わかった! 一緒にいっぱい笑って、生きていこう! 僕らの国を、君がいつでも笑える、良い国にするよ! だから――僕と結婚して下さい!」
「――はい!」
喜びのあまりクロヴィスの胸へ飛び込む。彼の両腕はしっかりアイリーンを抱きしめてくれた。
ワッと周りから歓声が上がる。ピューとからかうような口笛まで聞こえた。何故か花びらと紙吹雪まで舞っている。誰の仕込みだ。よく見たらヴェルトとヘイスがバラ撒いてる。何をしてるのか。二人なりに祝ってくれているなら、なんだか嬉しい。グランフェルト公爵の側にはいつの間にか藍鉄色の髪をした美女がいて、二人とも笑顔で拍手してくれていた。ちょっと照れ臭い。
あ、国王陛下の前でやらかした、と正気に戻る。しかし横目で確認した国王は、書類を侍従長へ渡しながらうんうんと嬉しそうに頷いていた。第一側妃はにこにこ笑って拍手していて、クロヴィスの母である第二側妃は少女のようにピョコピョコ飛び跳ねて喜んでいる。
王妃はと視線を巡らせると、肩を落として思い切り落ち込んだ様子のブラッドの背中を撫でていた。困ったように笑いながら、ブラッドを励ましているらしい。優しい家族愛目撃例その三だ。側妃たちには恐ろしい王妃も、息子には優しい母親なのである。
(……なんか、カオスな事になったけど)
婚約発表の夜会で婚約破棄を叫ばれて、謎の濡れ衣を着せられそうになって、国家転覆級の大犯罪が露見した訳だけど。
当初の目的通り、アイリーンとクロヴィスの婚約は発表された。これ以上にない幸せな光景の中で。
(終わりよければ全てよし、かしら?)
とりあえずアイリーンは。
クロヴィスの非常識な宣言を奇妙な声で邪魔してくれたグランフェルト公爵と、傍若無人な態度で非常識な状況をぶち壊してくれた護衛のヴェルトに、感謝の気持ちを捧げた。
彼らがいなかったらクロヴィスの計画は滞りなく実行され、アイリーンは望みもしない結婚をさせられていたかも知れないのだ。
(……非常識には常識で対抗しないで、傍若無人で粉砕した方がいいのね、きっと)
妙な事を学習してしまったアイリーンな訳だが。
周りの人間がそれに気付くはずも無く。そのままなし崩し的に夜会は始まり、ファニース王国の歴史に残る婚約破棄から始まったとんでも
*** ***
「まぁ納得出来ない事も多いのですけどね、お兄様」
「藪から
激動の婚約発表夜会から一月後。事後処理などの終わりが見えてきた頃。
青空の下、流行の天井がガラス張り(紫外線カット仕様)ガボゼを設置した自邸の庭で、アイリーンは兄とお茶をしばいていた。
アイリーンは美容意識のローズヒップティーを。兄はファニース王国南方産の
クロヴィスの側近として忙しい兄を、同じく婚約者として忙しいアイリーンがムリくり予定を合わせて誘った形だ。
誘った時は「え、めんど……」と云う顔を隠さなかった兄であるが、脛に蹴りを入れたら快く受け入れてくれた。物わかりの良い兄で助かる。
「さて……お兄様はクロ殿下の計画が破綻すると、分かっていたのですか?」
「いや? 努力の方向性は間違っていたけど、計画自体は問題なかったぞ。だから上手く行けばお前と殿下の婚約は破棄され、殿下は廃嫡されて自由の身、気に食わないが優秀なブラッドが玉座について面倒ごとを全部押しつけられる手はずだったんだ。まさかあそこでグランフェルト家が出てくるとはなぁ、いやぁ失敗失敗」
「お兄様」
「俺は謝らないぞ」
強く兄を呼べば、兄は憎々しげにこちらを見た。犬歯を剥き出して実の妹を威嚇するとか、どう云う神経をしているのか。
「どうせそうなった所で、お前は王妃の座に後ろ足で砂かけてクロ様を追っかけて来るに決まってるんだ。何も変わらん」
「あまりにも無責任ではありませんか。我々は貴族なのですよ? 民の血税で生きている私たちが、自分たちの希望を優先して国から出るなどと」
「お前はそう云うところ真っ当だな。俺は平民なんか嫌いだよ。調子のいい時には持ち上げてくるくせに、ちょっと生活が苦しくなれば努力する前に「貴族が悪い」「王が悪い」とグチグチ云いやがる。クロ様の事を何も知らない莫迦のくせに、「第一王子は無能だ」とか「第二王子が王になった方がいい」とか訳知り顔でほざきやがって。そんな奴らに尽くす価値なんかあるか。国家に守られてるくせに税金すら払い渋ってふざけてやがる。そんな奴らの人生なんか預かりたくないね。好きに生きて勝手に死ねばいい。クロ様がのびのび笑って生きて下さる方が、俺にはよっぽど意味と価値がある」
「そう云うところですよ、お兄様……」
はぁ~、と深くため息をつく。
クロヴィスの側に好んでいた兄も、当然ながらクソデカ感情を自分の主へ向けていた。度が過ぎるそれが恋ではなく、ひたむきな忠誠心と云うのがまた厭だ。アイリーンが割っては入れない男の世界なんて嫌いだ。
「そう云う国民ばかりではありませんよ……」
「覚えとけアイリーン。いつの世も、世間には莫迦の方が多い。賢い奴は一握りだよ」
「お兄様……」
もはや人間嫌いの域に達している。人間不信か。どちらでもいいが、この兄を上手いこと扱えるクロヴィスはやはり凄いと思った。アイリーンは蹴飛ばす事しか出来ない。
「……ホリー嬢の事ですが」
「あの子は何も知らないよ。だから利用するだけ利用したら逃がす予定だった」
「あの子、虐められたって云ってましたが?」
「金髪の令嬢がどれだけ居ると思ってる? 我が国の王侯貴族は金髪が多いんだ。ホリー嬢は人を見る目がないから、金髪の女を見かけたら全部お前に見えたんだろ」
「では実際にあった事なのですね、いじめは」
「あったよ。でもあの子の自業自得だ。妾の娘で、継母や異母姉からはいじめられて、唯一大事に愛してくれた父親のためだと自分の意思でクロ殿下に近付いた。本気でクロ殿下を愛していたら、こっちだって対応を考えたさ」
「……」
警備兵に押さえつけられた父親を助けようと、駆けて行った愛らしい少女を思う。
彼女の父親は間違えた。国の情報を他国――仮想敵国へ売り渡すなど、言語道断、許されない大犯罪である。どのような事情があっても、国は彼を許しはしない。ワイト男爵家は犯罪者の家として歴史に名を残し、断絶した。後の世で彼は愚か者と判断されるだろう。
しかしワイト男爵は亡き妾の娘を愛していたし、その愛を受け取った娘は父親の役に立ちたい一心で行動を起こした。そこには確かに、温かな愛情の交流があったのだ。
国家反逆罪の判決が下され、ワイト男爵は既にこの世の人ではない。夫人と長女は財産と身分を剥奪、放逐された。その後【聖地】管理の修道院へ入ったと聞き、アイリーンは勝手ながら安堵したのだ。修道院にさえ入れたなら、殺される事はなかろうと。
そして渦中のホリーはと云えば。
「いやぁ、まさかあそこでエルヴィーラ様が出てくるとはな。俺も想像してなかった」
「私もです、お兄様……」
パパを離してと泣き叫んでいたホリーを押さえたのは、グランフェルト公爵の婚約者であり、“世界一の大富豪”と名高い侯爵令嬢エルヴィーラだった。
国一番や大陸一ではない。“世界一”である。それはつまり、世界中の国々の経済に関わっており、彼女の言葉、気分、行動一つで国家財政に特大の影響が出ると云う事だ。
視線一つで国を滅ぼせると謳われた女傑は、泣き叫ぶホリーを気絶させると“お持ち帰り”してしまった。「この少女にはハニートラップの才能がある。私の手元で育てます」と云って。国王が引き留めていたが、結局ホリーはそのまま連れて行かれた。なんらかの取引もあったようだが、それをアイリーンが知る事は出来なかった。
勘違い甚だしく非常識な少女であったが、根っからの悪党と云う訳ではなかった。妾の子と云う事で苦労もしただろう。最愛の父は犯罪者になってしまったし、国に残った所でホリーの未来は暗いばかりだ。司法関係者が面倒くさがったら、彼女の首は父親と一緒に飛ぶだけである。
そんな風前の灯火であったホリーの命が助かった事に、アイリーンはちょっぴり喜んでいた。ちょっぴりである。本当に。可愛い女の子が死ぬとか、純粋に気分が悪いではないか。
「……いつかエルヴィーラ様のスパイとして、国に帰って来るかも?」
「やめてくれ」
冗談めかしにアイリーンが云えば、兄はげんなりした表情になった。面白かったので笑いながら、お気に入りのパウンドケーキを皿へ乗せる。混ぜ込まれたカボチャの甘い香りが鼻を撫でる。今年もオールディス領のカボチャは出来が良くてなによりだ。
「そう云えば、エルヴィーラ様に絞め落とされていた大商人はなんだったのです?」
そう。ワイト男爵が押さえつけられ、某伯爵が捕らえられていた後方。背景の一部として大商人を締め上げていた藍鉄色の髪に瑠璃色のドレスの美女こそ、件のエルヴィーラであったのだ。あの時は「とんでもない美女が凄いことしてる」としか思わなかったが、今回の騒動に何か関係あったのだろうか。
「あぁ……。あれはワイト男爵たちとは関係ない。別件だ」
「別件ですか」
「……あの大商人の息子が、色々やらかしていただろ?」
「えぇ、存じています」
高位貴族の令嬢に声をかけ、商品をアピールしまくってた件だろうか。
「あの莫迦息子が調子に乗ったのは、やつの父親がエルヴィーラ様と面識があり、我が国の中ではそこそこ取引があったからなんだが」
「あら」
「エルヴィーラ様からしてみれば、我が国の大商人など木っ端、塵芥だ。それよりも、高位貴族との方が懇意にしている。それで侯爵家の一つが、馴れ馴れしい大商人の莫迦息子に娘が困っていると相談したらしくてな。父親の監督責任として「商売もいいが、息子の躾もしろ」と締め上げた、と云う事らしい」
「あらあら……。では、莫迦息子がクロ殿下のお側にいたのは?」
「あぁ……。お前にボコされて以降は多少、大人しくなっていたんだが……クロ様が「婚約者がやりすぎてすまない」と声をかけたらまた調子に乗ってな……。管理する必要があったし、まぁ仲間に莫迦がいた方が国外追放の可能性が高まるだろうと云う事で引き入れた」
「うーん、この」
清々しいまでの利用っぷり、さすがは貴族だと云いたい。兄は先ほど平民へ嫌悪をあらわにしていたが、そうやって平民だって見下して利用するから怨まれるのでは? と思わなくもない。あえて云わないが。
「今は親子共々反省して、常識の範囲内で頑張ってるようだ。エルヴィーラ様に絞め落とされたのが相当効いたらしいな」
「それはそうでしょう……」
「エルヴィーラ様的には、「夜会の後にしようと思ってたけど、捕物帖が発生したので自分もついでにやった」みたいな感じらしい」
「あの方も凄いですわね……。さすがヴェルトたちの上司……」
それで許されると云うか、「あ、そうだったんですね。完璧に理解しました」で済まされるのが怖い。マネーこそパワーと云う事だろう。
「そうそう、ブラッド殿下が武者修行の旅に出たと聞きましたが……」
「お前にフラれたせいでな」
「濡れ衣ですわ」
「ブラッド殿下との結婚を全力でお断り案件とか云った女が何を云う」
「だって事実ですし……」
「別に嫌いでも憎くもありませんでしたよ? ただ、「お前……本当はオレの事好きだろ?」とか「気の強い女は嫌いじゃ無いが……素直になれよ」とか「オレに口説かれて喜ばない女はいなかった」とか、そう云う発言が気持ち悪いなぁ、とは思ってました。こう、目の前に突然見たくもない毛虫の死骸を突きつけられた感があったって云うか」
「お前、だいぶ酷いこと云ってるぞ」
「そうですか?」
勝手に自分に惚れていると思い込んで、勘違い発言かっ飛ばして馴れ馴れしく近付いて来る男とか、される側からしたら全力お断り案件だろうに。嫌いとか憎いとか云うより、気持ち悪いと云う嫌悪感が凄い。
「まぁ、お陰様でクロ様は安泰だがな。正妃様は憑き物が落ちたみたいに穏やかになられて、国王陛下も側妃様方も安心してる。これはこれで良い結末だ。俺としては満足だよ」
「そうですか。まったくお兄様は捻くれていらっしゃること」
計画通りに進み、クロヴィスが王位継承権を剥奪され国外追放されたら、あの場に揃っていた取り巻きたちは全員ついて行く気だったらしい。家よりクロヴィスを取り、冒険者として生きて行く覚悟を決めていたそうだ。
その件について、各家は頭を抱えたり、クロヴィスへの忠誠心に感動したり、ちゃんと家に相談してから動きなさいと叱ったりと、反応は様々だった。
男と男の熱い友情に女は割っては入れない。女はお呼びでない事は分かっているが、それにしたってアイリーンは面白くない。
「……最初から云って下されば、私だって幾らでも協力しましたのに……」
「そりゃダメだ」
「分かってますわ。まったく、男同士の友情と来たら暑苦しい」
「女同士の友情だって粘着質だろ」
「酷い云い草ですわね! そんなだから未だに婚約者も決まらないのですよ、お兄様は!」
「結婚したくねぇ。クロ様に一生尽くすから、女とかいらねぇ。邪魔」
「ダメだこの兄……早急になんとかしないと……」
拗らせっぷりに戦慄する。自分の兄ながら酷い。子孫繁栄させて国の役にも立って欲しい。
テーブルに懐いていた兄は胡乱な目でアイリーンを見た。
「別に女性が嫌いなわけじゃない。華やかに着飾る姿は綺麗だと思うし、お菓子やドレスの話に盛り上がってる姿は可愛いと思う。母となった女性には尊敬の念しかない。だが俺は妻とかいらんと云うだけで」
「拗らせてる……」
「家庭を持つと仕事の邪魔だし……。家の事は使用人がやるし……。跡継ぎなら弟の子供貰えばいいし……。俺は身軽なままクロ様に尽くしたい……」
「お兄様……」
「それならいつ死んでも誰にも迷惑かけないし」
「お兄様」
アイリーンは真顔になって、兄を見つめた。兄も真剣な顔になって、見つめ返してくる。
ため息をまた、大きく一つ。
「……私にとって最大の敵は、王妃様でも、ブラッド殿下でも、ホリー嬢でもなく、お兄様だと思いますわ」
男と女では難しい、男と男だからこそ成立してしまう主従関係に、アイリーンは顔をぎゅぅと顰めた。
アイリーンのしわしわ顔に、兄は大いに笑った。
「お前のその顔が見たかった」、と。
了
非常識 傍若無人で 迎え撃て。 雲麻(くもま) @kumoasa_4410
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