第4話

「ごめーん、遅くなったわー。そして何か電車まだ全然駄目らしいわー…………って、あれ?」


 店のドアを開けるや否や、おどけたノリで強引に場に復帰しようとした俺だったが、場に残していた三人は俺に少しも興味を向けなかった。西田にお願いした通りに、場がめっちゃ温まっていた。温まり過ぎて、端から見ておかしな様子になっていた。


「中川さんだって吉村さんだって、俺にとっては充分に頼れる先輩ですけど! でも奥津さんだって、かけがえのない上司なんですよー! あんな、尻の穴がキッツキツな課長なんかに負けないで、俺達と一緒にこれからもやっていきましょうよ-!!」


 酒が回って声の大きくなった西田が、奥津係長の撫で肩をがっつり掴み、上半身をぶんぶんと揺さぶっていた。吉村は西田の下ネタを殴ってでも止めるか、又は「あんたは就職と同時に終わりでしょ」と冷静に突っ込むかと思いきや、両腕を胸に引き寄せた謎可愛らしいポーズで狼狽えており、呆気に取られている俺を見つけて、


「中川、どうしよう!? 奥津係長が、この課からいなくなっちゃう……!!」


 今までに聞いたこともないような、悲愴な声を上げた。


「あっ……ふーん、そうなんだ……。って、一体何の話ですか?」


 俺がいない間に、俺の知りたかった話題が展開されていた様子なので、罪悪感を押し殺して如何にも何気なさそうに、奥津係長へ尋ねる。


「僕は、遂に取り返しの付かない失敗をしてしまってね……。だから、君達と一緒に仕事をするのも、こうやって集まるのも、もう終わりなんだ」

「そんなのおかしいです! 課の最高責任者は課長なんだから、係長だけが責任取らされるなんてあり得ないし、こんな急な異動なんて、絶対納得いかない!!」


 基本人間に肩入れしないタイプの吉村が取り乱している理由は、手続きのおかしい人事異動が発生することによるものらしかった。奥津係長の処遇は異動であるらしいとある程度把握できたことと、吉村は奥津係長へ何か個人的な思い入れを持っているわけでもないらしいことに、俺は安堵し、そんな自分に嫌悪を覚えた。


「俺は会社で働くのはここが初めてだから、手続き的なことは全然わからないですけど、課長が常におかしいってのはわかりますよ! 俺達は仕事終わってなくても強引に定時で帰らせて、残った仕事を引継ぎなしで奥津さんにぶん投げて、それで間違いが起きたらどちらかのせいで……。ちくしょう、あのアナルきつきつ野郎、マジで頭に来た! あいつがいなくなれば良いのに!」


 西田、お前は下ネタを口にし過ぎだし、アナルは形容詞なのでこの場合は名詞のアヌスが正しいし、そんなことは一切合切どうでも良い。……駄目だ、先程から現実逃避ばかりしてしまう。奥津係長は、急遽異動させられてしまうのか。俺の不用意な言葉が後押ししてしまったのか。やはり、俺のせいなのか。


「……こうなってしまったのは、誰のせいでもないよ。強いて言うなら、僕のせいでしかない」


 俺の言葉を読んだかのように、奥津係長が言った。俺は、奥津係長の顔をまじまじと見つめた。横で吉村と西田が、課長なんかを庇うなと喚いていたが、奥津係長は俺の顔を真っ直ぐ見ていた。店に来た時から変わりの無い、血の気のない真っ白な顔。


「冷静に対処すれば、もっと穏当な選択肢だってあった。落ち着いて選べば、大事にならずに済んだ。だが僕は、ここんところずっと仕事と責任に追われていてね。結局のところは、頭が少しも回っていなかったんだ」


 ただ定時内にみっちり仕事をさせられているだけ、今日が久方ぶりの残業だった俺でさえ、昨日一対一で訳のわからない話を暫く浴びせられただけで、頭が回らずに間違えた判断をした。異動してから半年近くずっと、課長に詰められ続けていた奥津係長が、課長の誘導に乗せられても全く不思議ではない。だとしたら、俺のせいではないのか。……いや違う、また現実逃避しようとしている。葛藤する俺をよそに、奥津係長の言葉は続いた。


「ただ僕は、今のままでは、何処にも行けそうにない。どうか餞別代わりに、君達の言葉が欲しい」

「なんだか本当に、グループセラピーみたいですね」


 西田は、乾いた笑いを上げた。


「さっきも言いましたけど、俺はおかしいのは課長だと思っているので、間違えているとしたら、それも課長だと思います! 更に言えば、課長を野放しにしている時点で、この会社もおかしいと思います! 俺はこの会社の社員じゃなくて良かったし、俺が就職する会社はまともであってほしいです!」


 手を高々とあげて、ハキハキと答えて、また乾いた笑いを上げた。


「私は、奥津係長も悪かったと思っています」


 普通は言い難いことでも言ってしまうのが、吉村という女である。


「中川と私は、前にいた部署で揉め事起こして、ここに来ました。中川は女性問題で、私は大事な取引先を怒らせて。とことん詫びたり逆に申し開きをしたり、何だかんだ話し合いの末で、異動を受け入れたんです。でも、奥津係長は違う。望まれてここに来たんだから、課長にも私達にも積極的に交渉を持ちかければ良かったし、課長がパワハラを始めたなら、然るべき機関に相談するべきでした」


 ズバズバ言うのは普段通りだが、奥津係長に指を突きつけたのは、さすがに酔った勢いだろうか。


「……そうだね、吉村さんの言う通りかも知れない。僕は単純な話、僕の職務を全うしていなかったんだね」


 申し訳なさそうに薄く笑った奥津係長の顔は、僅かに憑き物が落ちたように見えた。


「奥津さん、かなりMですね」

「あんたの性的な発言が、いい加減我慢ならない」


 突っ込んだ西田が、間髪入れずに吉村に殴られた。そして、殴られた側と殴った側共に揃って俺を見た。奥津係長は、先程からずっと俺を見ている。場の人間が全員俺を見ていた。俺は何故か不意に緊張して、唇を舐めながら必死に言葉を紡いだ。


「えっと俺は…………。俺から奥津さんに言えるようなことなんて、特にないですけれど……。これまでも今も、係長のお役に立てなくて、心苦しいばかりです。次の異動先では、上司と部下に恵まれますように。本当にすみませんでした」


 何で俺は、こんな謎な挨拶をしてるんだ?と収まりの悪い気持ちで頭を下げると、奥津係長はまたもや申し訳なさげな、薄く儚い笑みを浮かべた。


「いやいや、心苦しいのは僕の方だよ。最後の最後に、君達をこうして長らく足止めしてしまうなんてね。三連休前だから早く帰りたかっただろうに、とても申し訳ない」


 確かに、午後も奥津係長がいてくれれば、西田のPCの件は素人の俺が悪戦苦闘せずとも、係長に任せることができた。その場合、業務を定時内に終わらせ、吉村があの電話を引き当てるより前に、退社できた計算になる。だが、今更言っても詮無きことだ。そう思う俺をよそに、奥津係長の自虐は続いた。


「結局、この選択肢を選ぶんだったら、さっさと決断して実行するべきだった。であれば、君達をこんな時間まで留め置かずに済んだ。或いは、半日といわず、連休をたっぷり使ってでも、もっとしっかり悩んで結論を出すんだった。休み中であれば、もしかすると、ちゃんと頭が働いたかも知れない。……いや、実際の答えは既に出ている。これが、僕の有り様だったというわけだ」


 段々と俯きながら、奥津係長は呟き続けた。


「細切れになった肉体が未練たらしく、この世にしがみ続けようとは、さすがの僕も最後まで自分にうんざりするよ」

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無能な課長のせいで残業する羽目になった俺達一行、いろいろもう遅い 砧 南雲(もぐたぬ) @raccoon_pizza

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