第3話

 奥津係長は、社内恋愛から順調に社内結婚した人物、という噂である。実際、奥津係長は何処となく女性に好まれそうな容姿のように見受けられる。派遣と西田とが休憩時間中に、「世界中の歴史を題材にしたクイズ番組に出てくる出題者の内のポンコツなタレントに似ている」「九州から東京に活躍の舞台を広げた兄弟漫才師に似ている」と、話を繰り広げていた覚えがある。


 その優男が、先程西田が指摘した通りの真っ白な顔色をして、俺達の目の前に立っていた。店内は空席が多いので、店員は特定の席に誘導せず「お好きな席へどうぞ」と声を掛け、奥津係長は心細そうに店内を見渡し……俺達と目が合った。合ってしまった。


「奥津係長? こんな時間にこんな場所で、どうなさったんですか?」


 吉村の硬い声に、俺達と向かい合わせに座っていた西田が、慌てて入口を振り向く。


「あっ本当だ、奥津さんだ! おつかれさまです。奥津さんも今から飯ですか?」

「いや、僕は……」

「わかった、飲みたい気分なんですね! 俺達も今ここで、酒池肉林の真っ最中なんです。係長さえ良かったら、是非混ざりませんか?」

「「「えっ」」」


 期せずして、俺と吉村と奥津係長の声がハモった。西田は普段から人懐っこいが、奥津係長に対して、こうグイグイ行く感じではなかった筈である。


「奇しくも、課長抜きで集まっているんですよ? 奥津さんもストレス溜まっているに違いないし、皆で仕事の愚痴を吐いて、自尊心を回復させ合いましょう! グループセラピーみたいな?」


 いや、少なくともバイトのお前に対しては、なるだけ負担をかけないよう、俺は常々配慮しているつもりだが……という言葉が喉まで出掛かるが、奥津係長の手前、それを飲み込む。吉村はどう出るだろうと思いきや、


「では奥津係長。直箸をつけていない料理がまだありますし、飲み物含めて新規に注文なさって構いませんので、我々のテーブルに加わって頂いて、会計は割り勘……ってのは如何でしょうか?」


 意外なことに、受け入れる方向で奥津係長に語り掛けた。


「しかし、君達の邪魔になるのは……」

「別に我々、仲良し三人組ではありませんので。不可抗力で残業にもつれ込み、結局終わらせられずに敵前逃亡してきた烏合の衆です。奥津係長も、似たようなものでしょう? どうぞご遠慮なさらず」


 優しいのか厳しいのか、距離感の掴みかねる言葉を投げ掛ける。案の定、奥津係長も判断に迷ったのか、固まっていたが、すかさず西田が席を立ち、課長の鞄に手を伸ばし、テーブル下の棚に置いてしまった。吉村も連携して、テーブル上の皿を動かし、瞬く間に奥津係長のスペースを確保していた。


「……じゃあ、遠慮なく……」

「まずはビールでよろしいですか?」

「君達と同じもので構わないよ」

「了解しました。二杯目からはお好きなものをどうぞ」


 店員を呼び、ビールと新しい取り皿を注文し、テーブル上にずっと居残っている大根サラダの残りと梅水晶と、新しい箸とを奥津係長の前に回し、メニューを手渡す。広げずに突き付けるのが、如何にも吉村らしい。


「食べながら考えておいて下さい。ビールはすぐ来ますから、時間はさほどありません」

「が、頑張るよ」


 これ以上頑張らせたら倒れてしまいそうな様相の奥津係長は、しかし店員がビールと取り皿を運んでくるまでに何とか決めたらしく、納豆豆腐と山芋ステーキを注文した。


「奥津さん、ベジタリアンですね」


 自分の角煮を頬張りながら、西田が嬉しそうに言った。奥津係長は、いやとか、まあとか、そんなことをもごもごと呟き、運ばれてきたビールを飲んだ。俺は自分の鞄を引き寄せ、財布とライターと、残りが心許ない煙草の箱を取り出した。


「ちょっと俺、外出て煙草吸ってくるね。日中吸えなかった分をまとめて挽回してくるよ。ついでにコンビニで新しいやつも買ってくるから、西田は、俺が戻って来るまでに、バッチリ場を暖めといて」

「了解です!」


 西田はおどけた敬礼のポーズを取った。吉村は煙草と喫煙者が嫌いなので、眉を顰めつつも、俺の自由を尊重して何も言わなかった。奥津係長は、まだビールの効果が現れていない、相変わらず精気の抜けた顔色で、俺を当惑した顔で見上げ、ああとか、まあとか、そんなことをもごもごと呟いた。


「じゃあ行ってきます」


 俺は、入口の扉を引いて外に出た。駅が目と鼻の先にあり、未だ電車は止まり続けている様子で、駅の周りを大勢の人々が所在なさげに取り囲んでいる。その間を縫うようにかき分け、駅前に設置された喫煙スペースへと足を踏み入れた。俺達喫煙者に残された、今となっては残り僅かな安息の地。そして今の俺にとって、誰の目も気にせずに頭の中を整理する為の、束の間の秘密基地であった。左手に握った箱の蓋を親指で押し上げ、やや震える右手で慎重に一本掴み取り、そっと唇に咥え、ライターで慎重に火をつけ、普段よりも深く吸い込む。過集中状態で定時過ぎまで仕事にたっぷり取り組まされ、しかも結局片を付けられなかった徒労感を、ビールでガツンと吹き飛ばすつもりが、逆に負のスパイラル状態のような、悪酔いに近い状態に陥っていた。あいつらの前で醜態を晒す前に何とか抜け出すことができ、ニコチンも間一髪のタイミングで間に合って、脳への血流量を絞ることで意識が冴え、気持ちも楽になってきた気がする。少し気を緩めた俺は、小声で独りごちた。


「奥津さん、何がどうなったんだ……?」


 これまでの課長の断片的な言葉と態度、そして昨夜の決定的な会話を思い出す。奥津係長が犯したミスの件で、取引先からの電話に平身低頭していた課長は、電話が終わるとしかつめらしい顔を作り、俺を会議室に呼び出した。課長は俺達を叱責する際に、人目を避けて別室をセッティングするような気遣いを見せたことなぞない。だから、急に一体何の用なんだと訝しむ俺の様子を一切意に介さず、課長は一方的に馴れ馴れしく愚痴を垂れ流し始めた。曰く、奥津係長がやるべきことをやらないだの、自分との会話が最近は成り立たないだの、あまりにも様子がおかしいので精神科への通院を勧めたが拒まれただの、諸々の後始末で自分の負担が増えており我慢の限界だだの。今まで、同じ部屋にいてもろくに接点のなかった人間から、身構えも何もない情報をたっぷり浴びせられて、俺はみるみる疲弊した。リズムゲームで流れてくる音符に適切に反応するのと同じように、それらしき返答を固定パターンで返してやり過ごした。課長は充分満足なようで、故に愚痴吐きにますます熱がこもってしまい、俺はただひたすら時が過ぎるのを待った。受け身の俺を己に従順と見做した課長は、俺に、唐突な問いを投げかけた。


「もしも、奥津をこの課から異動させたなら、残りの面子で現場回せるか? 中川の考えを聞かせてくれ」


 早くこの時間を終えたかった俺は、投げかけられた問いに対して、反射的かつ機械的に即答した。


「現状、奥津さんは戦力になっていないので、抜けられても即破綻することはないです。西田が就職で抜けると物理的に手が足りなくなるので、むしろそちらに備えて頂けると助かりますが」


 俺の答えを聞いた課長の唇が、非常に不愉快な笑みを形づくり、俺はふと我に返った。……俺は今、何を言ったんだ……? しかし一瞬前の記憶を反芻する間もなく、課長が告げた。


「ありがとう、中川。遅くまで引き止めて悪かったね。今日の残業申請は私が代行で処理しておくから、気にせずに帰りなさい」


 言うや否や、会議室のドアを開けて電気を消して先に部屋を出た。そして俺を振り返り、先の不愉快な笑みを再び浮かべて言ったのだった。


「明日からは忙しくなるだろうが、よろしく頼むな」


 暗い会議室から慌てて飛び出した俺は、遅れ馳せながら、俺が何をしたのか理解した。俺は、課長が奥津係長を放逐することに手を貸した……のかも知れない。いや、ぶっちゃけまだわからない。何せ課長は、今まで俺と吉村の主張や要請に、ろくに耳を貸したことがない。ここで急に、俺の意見を採用するとも思えない。だがしかし、課長はここずっと、奥津係長を間違いなく疎んでいた。課長の中では、既に答えが出ていたのでは? では何故、俺に意見を求める必要があった? 俺に責任をなすりつけるため? 俺を仲間に引き込むため?


 …………いや、考えても埒があかない。俺は急に疲れて思考を投げ出し、課長の指示通りに帰宅した。夕となり、朝となった。今朝一番に、課長は奥津係長をつかまえて、俺を昨日連れ込んだ会議室に立て籠もった。昼が来て、課長は予定通り午後半休を決め込み、奥津係長は疲れた顔で鞄を持って外へと出て行ったのだった。間違いなく、何らかの決断が下された。しかし肝心の内容が、当事者ではない俺にはわからない。……そこまで記憶と思考を辿ったところで、指先の熱に現実へと引き戻された。


「!!」


 見ると、指先に挟んでいた煙草が、フィルター間際まですっかり灰になっていた。灰皿に投げ込んで、新しい煙草に火を付けようとしたが、一本も残っていない。無意識にチェーンスモークを決め込んでいたらしい。尻ポケットのスマホに手を伸ばして時間を見る。飲み屋を出てきてから、三十分弱程も過ぎようとしていた。さすがに中座し過ぎだ、いい加減戻らねば。俺は空の煙草を握り潰し、駅構内のコンビニへ飛び込んだ。煙草を注文する最中、駅のアナウンスが耳に飛び込んできた。


「現在、お客様の救出に難航しております。運転再開まで、今しばらくお待ち下さい」


 店を出て駅のホームに目をやると、駅員がブルーシートを拡げている様が飛び込んできた。


「飛び込みがあったの、この駅なのかよ……しかも、遺体回収に手間取っているのかよ……」


 すぐ近くで人が死んでいるし、肉片が飛び散っているしで、俺はまだまだ家には帰れない。奥津係長を交えた酒席で、時間を潰さなければならない。一体どんな顔をして、奥津係長と話せば良いんだろうか。重い足を引きずり、俺は飲み屋へと舞い戻った。

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