第2話

 俺達三人は、駅近くの飲み屋へ移動した。そこそこ安くてメニューも豊富で量が多い、飯屋としても潰しが効く店である。小汚く寂れた雑居ビル内の店なので、人々に見出されておらず穴場となっている。親睦会の予算を極力削りたかった課長が執念で見出した為、我々は課長の数少ない功績としてこれを讃えている。正直、節目のイベントにこの店を利用するセンスを疑うが、日常使いには程良い。しかも今日なら絶対に、課長と鉢合わせすることもない。


 選び放題のテーブル席を適当に陣取り、おしぼりで手を拭きながらメニューを広げる。西田がおしぼりで躊躇いなく顔を拭いたので、あちゃーと思い慌てて吉村を見たが、彼女は西田を一瞥しただけで表情を変えず、メニューへ目を戻した。


「皆、とりあえずビールで良い? 後は、大根サラダと梅水晶と蛸の唐揚げを先に頼んでおいて、来るまでの間に、皆の好物を一品ずついきましょう。各自ちゃんと考えといて」

「吉村さん、さながら食の軍師ですね!」


 吉村が瞬時に下す采配に、大仰に喜んで見せる西田。


「単なる飲み屋の仕切りで褒められるのも複雑な気分だけど、私は手配と工数計算は得意なの。見て把握して判断した結果に基づき、適切な相手に指示や報告を投げて、各工数にかかる時間もパッと頭に浮かぶし。でもねー、電話対応や接客は全然駄目。筋の通らないことを当然のように言われると、頭がバグっちゃうんだよね」


 吉村の注文に負けず劣らず早々と運ばれてきたビールを速攻で半分飲み干して、吉村はボヤいた。


「中川が後を引き取ってくれて、助かったよ。中川はあの客から直接聞いたか知らないけれど、『これだから女は使えない』とか言われて、私もう本当に限界だったから」


 取引先に怒り狂っていた時の座った目が嘘のように、俯きながら感謝の意を口にする。意外な姿を見せられ、ちょっとドキッとする。


「吉村さんは、あの取引先に限らず、今後電話の一切合切出なくて済むように、休み明けに俺から課長へ掛け合ってみるよ。課長もさすがに、自分が火消しをさせられてみたら、『吉村さんを電話に出さないようにしよう』って考えるだろうし?」

「アハハッ!」


 決まりの悪さを誤魔化すように敢えて戯けて話す俺と、無邪気に笑う西田。吉村は我々の顔を一瞥すると、笑いもせず顔を強張らせて口を開きかけたので、西田が先のおしぼり顔拭きの件と合わせ技で、彼女の機嫌を損ねたかと思いきや、


「中川の代わりに奥津係長だったら、更なるドツボにハマってたと思う」


 俺が敢えて、午後半日脳内から消し去っていた人物の名前をポツリと口にした。


「あー、奥津さんは、口下手な上にめっちゃ空回りしちゃいますもんねえ。……あれ? そう言えば奥津さんは、今日何でいないんでしたっけ?」


 ここでちょうど、店員が吉村の注文した前菜類を運んできた。吉村は受け取りながらテーブルに展開し、我々に次の注文を促した。若い西田は揚げ出し豆腐を、俺は焼き鳥盛り合わせとだし巻き卵を、吉村は納豆オムレツを注文した。


「朝イチで課長に呼び出されたのは見たけれど、後は知らない。ホワイトボードに予定が書かれてなかったけれど、奥津係長はその辺ちゃんとする人だから、課長が権力行使して強硬に追い払ったんじゃない?」

「……俺は、昼休み中に奥津さんの姿を見かけたよ。いつも以上に疲れた顔をして、鞄を持って出てったから、また何処かへ謝罪に行かされたかと」

「そう言えば、昨日の帰りに課長がめっちゃ怒ってましたよねえ! でもそしたら、本当なら、奥津さんも今日の午後の辛い戦いの数々を、一緒に乗り切ってくれてた筈ってことですか?」


 課長は、明日からの三連休を存分に満喫するべく、今日の午後から張り切って半休を取っていた。自分が不在の穴は、奥津係長に埋めさせる段取りだったと聞いている。しかし昨日、奥津係長のミスの件で、取引先から電話があった。課長は目上の人間にゴマをするしか能力がない。課長は取引先の言い分を一切の調整なしに飲み込み、今朝一番に斟酌なしで奥津係長に吐き出したのだろう。詳細な内容や対応策が何だったか、管理職ではない我々が預かり知る余地もないが、結果を受けて奥津係長が午後不在だったことは間違いない。そしてその皺寄せと派遣の早退とで、俺達三人はつい先程まで地獄を見ていたわけである。


「課長は、俺みたいなバイト風情も派遣ちゃん達も、吉村さんも中川さんも、みーんな分け隔てなく見下してゴミ同然にあしらいますけど、奥津さんへの当たりは抜きん出て酷いですよね! 何か理由あるんですか?」


 西田は、ハフハフしながら揚げ出し豆腐を瞬時に食べ尽くし、さすがに熱かったのかすぐさまビールを飲み、次のビールと豚角煮を注文した。


「そもそも奥津さんは、課長が自分で見込んで他拠点からもらってきた人材なんだよ。余り物の業務をこなす余り物の人材である俺らをまとめるのに、打って付けだと見込んでさ」


 俺は、テーブルの空きスペースに、焼き鳥盛り合わせの大皿をねじ込んだ。横から吉村が、新しい割り箸を取って焼き鳥を串から外し、我々の取り皿に片っ端から放り込んでいく。


「吉村さん、女子力たかーい!」

「こんなの女子力じゃないわよ。テーブルが片付かないと、私の料理がのらないじゃない」


 吉村は店員を呼び止め、空いた大皿と自分のジョッキを下げさせた。それから、だし巻き卵を皆の取り皿に配り、自分の納豆オムレツは手前に引き寄せて、新しいビールをぐいっと飲んだ。


「あれは、課長が悪いのよ!」


 ジョッキを叩きつけるようにテーブルに置き、叩きつけるように言葉を吐く。吉村は日頃から、感情が昂ると言葉と身振りが強くなりがちであり、特に酔いのせいではない。


「私らが日々、ろくに残業もさせてもらえず必死に業務を回してるところへ、いきなり奥津係長を連れてきて、『管理職を増員した、今後は彼に現場を任せる』って。奥津係長への業務説明も、私達に丸投げで」


 正直、課長が何をしたかったのか、未だにわからない。他部署から押し付けられた、雑多でまとまりない業務の処理に、俺達は日々残業を重ねていた。それを圧縮するよう上層部に求められても、課長は経営数字の計算と、我々の週報を会議でそのまま垂れ流すしか能力がない。そこで、現場を調整する管理者を他から連れてきた。しかし、単に連れてきただけだった。奥津係長も俺達も、「体制を変えた」という説明しか課長から与えられず、共に放置された。俺達は、着任したものの一向に要領を得ない奥津係長に反発した。奥津係長は、非協力的な俺達をまとめられず孤立した。そして課長は、手間暇をかけて引き抜き、俺達の課にとっては高額な経費をかけて据えた奥津係長が、成果を出さないことに苛立ち、事あるごとに奥津係長を責め立て始めた。


「奥津係長だって、それなりに悪いのよ。私たちと違って、請われてここに来た人間だし、係長なのに、何でいつもああまで言われっぱなしのか、全然理解できない」

「奥津さん、バイトの俺や派遣ちゃんがしくじっても、ヒアリングと再発防止の念押しはするけれど、ほとんど怒らないですもんね」


 吉村は新しいビールを持ってきた店員に、だし巻き卵の皿を渡してカルパッチョを注文した。俺も便乗して、豚平焼と鮪ステーキと次のビールを注文した。気付けば先程から、俺の注文ばかりがシェアされている。自分の食べる分を確保しておかなければ。しかし正直なところ、食欲を唆る話題でもない。


「でも、最近はさすがにヤバい感じしません? 奥津さん、見るからに顔色悪いですし、元気がないと言うか、時々受け応えが何か変というか」

「課長は現場のこと全然わからないから、こちらを詰める際に具体的な話が一つもできないで、精神論をリフレインじゃん? あれを奥津係長も、毎日みっちり喰らってるんじゃないかなあ……」


 納豆の糸を切るように箸先を振り回しながら、吉村が呟く。


「俺の時は、中川さんがいなしてくれたり、吉村さんがキレ返してくれて途中で終わりますけど、奥津係長だと課長の気が済むまでなんでしょうねえ」

「…………」

「…………」

 俺と吉村は、揃って黙り込んだ。俺達の苦難は、その都度協力らしきものをして振り払っているが、奥津係長に対しては何ら助け舟を出していないと、西田に指摘された気がしたからだった。他の客もろくにいない店内が、静まり返る。その静寂を打ち破るように、入口から店員の声が響いた。


「ご新規一名様でーす!」


 目の前に突き出された問題から逃げるかのように、揃って入口に目をやった俺と吉村が見たのは、見るからに打ちひしがれた様子で店に入ってきた、奥津係長であった。

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