第2話 信濃国・諏訪大社と武蔵国・大國魂神社


 

 呆れるほどの合理主義者のくせにヘンなところで旧弊の断片を持ち出す癖がある母は、東京の志望大学に進むスミレの住居を決めるとき妙な蘊蓄うんちく披歴ひれきしてみせた。

 

 ――北海道から沖縄まで日本列島各地に25,000社を擁する諏訪神社の総本社である信濃国の諏訪大社のご祭神は、建御名方神たけみなかたのかみさまと、夫人の八坂刀売神やさかとめのかみさまだよね。


 かたや、武蔵国の総社を司る大國魂神社おおくにたまじんじゃのご祭神は、建御名方神のご尊父にして元祖神さまでもあられる大国主神おおくにぬしのかみさまでしょう? ということは、武蔵のスミレは信濃のスミレよりずっと偉い神さまのご加護をいただけることになるわけじゃない? その尊い事実に気づいたから、かあさんもようやく安心してあんたを送り出せるよ。


      *

 

 だからと言って、かあさんがとりわけ信心深い性質というわけでは、むろんない。

 むしろ、ふだんはすっかり忘れ去られている神仏が気の毒なくらいである(笑)。


 ただ、ひとり親のハンディを負わせまいと、両羽の下に抱えこむようにして育てた娘たち……とりわけ、生来の虚弱体質の末娘のことになると何から何までが不安で、東京への進学が決まってから眠れない夜を重ねていたらしいから、居住地の守護神のランキングが上がったことで安心できるのならば、それはそれでいいと思っている。

 

      *

 

 そんな母の心配性はひとまず置くとして、高校時代、現国の教師に勧められて俳句同好会に入っていたスミレは、安曇野と武蔵野の差異について思いを巡らせてみた。

 

 ――雪嶺ひらく常念の座を真中に      森 澄雄

   安曇野や窓近くまで田水張る      桂 信子

 

   散るものは散りて武蔵野冬立ちぬ    飯田龍太

   日さかりの列車武蔵野深くあり     角川源義

 

 例句の一部からも容易に推察されるとおり、同じ「野」と呼ばれていても、安曇野には四囲に高い山脈が配置されているが、広大な平野である武蔵野にはそれがない。


 梓川と犀川の西岸から高瀬川流域にかけての複合扇状地である安曇野では、北アルプスから湧き出た豊かな清水は、その土壌性から地表に出る前に地下へ潜ってしまうので、江戸時代の先人たちは「せぎ」と呼ばれる用水路を設けて農業用の灌漑とした。地下の湧き水を利用し、現在も山葵わさびやニジマスの栽培や養殖が盛んに行われている。


 一方、荒川以南、多摩川以北から東京都心まで広がる武蔵野台地(あるいは武蔵国全域)を指す武蔵野は、中世までは一面に四季の野花が咲き乱れる広大な原野だったが、江戸時代に入ると幕府の施策で屋敷林、社寺林、玉川上水や街道沿いの防風林や雑木林が特徴的な景観へと変容を遂げ、それに自然の湧き水が詩的な風趣を添えた。


 そうした事実に思いを馳せると、安曇野から武蔵野への転居にも由縁めいたものが感じられて来て、現国の教師が推奨するふたつの「野」を舞台にした文学作品、臼井吉見の『安曇野』&国木田独歩の『武蔵野』もじっくり読んでみたいと思っていた。

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