屋上の君は哀しげに笑う(短篇)
文音 憂
屋上の君は哀しげに笑う
【6月1日(月)】
私の勤めている会社は新宿の一等地に地上30階のビルを構える大企業だ。その屋上から下界を見下ろすと、仕事のストレスなどどうでもよくなってくる。この屋上には天気が良い日には富士山が見える位置があって、私はそこを自分の定位置にしている。今日は雲一つない良い天気なのに、この空間には私がひとりぼっち。それでいいのだ。私は人間が嫌いだ。人と触れ合うこと、これは私の人生で最も無駄な時間。どうしてそんな私が会社で働いているのか。私が臆病者だからだ。自分の生き方を貫きたいのに、人の眼が怖い、常識から外れるのが怖い、危険な道を進むのが怖い……ただそれだけ。
この屋上には不思議なものが一つある。神社だ。どこの神様を祀っているのか知らないが、私の背丈ほどの神社がある。きちんと鳥居も、参道もある。賽銭箱をのぞいてみると誰だか知らないが、きちんと賽銭を入れている人間がいるようだ。物好きな輩もいたものだと思う。
昼休みがそろそろ終わる。デスクへ戻ろうとエレベーターホールへ向かったとき、端の方で天を仰いでいる男が立っていた。私はその男を特に気に留めることなく、デスクへ向かった。
【6月2日(火)】
翌日も私は屋上にいた。思い返してみれば入社して間もなく一人でここへ足を運ぶようになっていた。そうだ、人間が嫌いな私が人間のいるところにいたくないのは当然だと改めて思い直す。相変わらず快晴が続くこの新宿という町、この雑踏が渦巻くこの町が何だか妙に気に入ってしまった。深く息を吸って周りを見渡してみる。すると昨日と全く同じところに、昨日見た男が立っていた。確か昨日見た男だ。今日はずっと遠くの方を見ている。同じ空間に他人がいると私はどうも落ち着かない、この空間を独り占めしていたい。彼を異物でも見るような目で見る私、そんな視線はあの男には届いていないのだろう。少々不機嫌になった私は足早に屋上を後にして、午後の仕事に取り組むことにした。
【6月3日(水)】
朝から仕事場は荒れていた。後輩の連絡ミスで業務に大きな支障が出た。私もその後始末に回り、スケジュールが大幅に狂ってしまった。
ようやく落ち着いたころには1時を回っていた。遅めの昼休みの時間、コンビニで買ってきた昼食を持って屋上へ上がる。今日は少し風が強く、空はどんよりとしていた。さて、私だけの空間へ入ろうとしたとき、私の定位置に昨日の男が立っていた。今日は何でこうイライラすることばかり起こるのかと声に出さずに嘆いた。私はわざと足音を大きく立て、男の所へ近づいていった。
「あの~」
男は見向きもしない。さらに私をいらだたせる。
「あの~!そこわたしの場所なんですけど!」
やはり男はこちらを向かない。私は声を荒らげた
「あの~~!!聞いてますか!」
怒りのこもった声が空に向かって響く。しばらくの沈黙があった。風がぴたりと止むと、男はこちらを向いて笑った。悲しそうに、笑っていた。私に向かって笑うと男はまた遠くを見始める。訳が分からなくなった私は屋上から早々に立ち去った。あの男は何なんだ。私の定位置に立っているし、こちらが話しかけてもまるで聞いていないような素振り、それに何であんなに哀しい笑顔ができるのか。分からない。終業のチャイムが鳴るまであの男のことが頭から離れなかった。
【6月4日(木)】
今日の朝、正確には昨日の夜中から雨が降り続いている。通勤電車の中の湿気は凄まじく、今にも息が詰まりそうだった。重苦しい空気に耐えながら出社しデスクに向かう。午前中は顧客の電話対応が5件、来週の会議の資料作成であっという間に過ぎていった。
正午のチャイムと共に私はすぐにコンビニへ向かった。期間限定のスイーツが売り切れる前に。幸いにもお目当ての品を手に入れることができた私は会社の休憩室でゆっくりと味わうことにした。食事を終えると、同僚のミキがやってきた。
「はぁ~マジで仕事だるいわ~。今日雨も降ってるし~仕事する気分じゃないんだよね~」
「ミキは天気に関係なくいつも仕事したくないんじゃない?」
「それな~」
他愛もない会話が続く。他人とのコミュニケーションが苦手な私はこんな時間さえも苦痛で仕方がない。この空間から早く抜け出したい。
「それじゃ、休憩時間終わるからまたね」
「おつかれ~」
ふと気が緩んだ瞬間、昨日の光景を思い出した。まさか、こんな雨の日に・・・。半ば興味本位で屋上へ向かう。エレベーターのドアが開くと、朝よりも雨が激しくなっていた。昨日、男がいた場所をのぞいてみる。まさかと思った。傘もささずに、ずぶ濡れになって・・・。
「あの~風邪ひきますよ~」
大声で叫んで見たが、雨音は私の声をかき消した。何度呼んでも男が反応する素振りはない。仕方なくデスクへ戻り自分の置き傘を持っていくことにした。再び屋上へ向かう間、何であんな男のためにと・・・。
傘を持ちながら男に近づく。
「これ、どうぞ」
男は一回で私の呼びかけに振り向いた。相変わらず悲しそうな笑み浮かべている。
「ありがとう」
優しい声で答えると、また遠くの方へ視線を移した。
「こんな雨の中。傘もささずに何してるんですか?」
「・・・」
「いつも屋上で何してるんですか?」
「・・・」
「着替えとか持ってるんですか?」
「・・・」
雨の降りつける音だけがこの異様な空間に響いていた。徐に男は私の方を向き、こう言った。
「今日はいい天気だ」
男の声は少し震え、目が赤くなっていた。そう言い残し、傘を深くかぶり去っていった。
【6月5日(金)】
【6月7日(月)】
雲一つない晴天が寝起きの私に活力を与えてくれた。いつもより早い電車乗り、一番乗りで出社する。いつかやろうと思っていたデスクの整理も終わり、良い心持ちで仕事を始める準備ができたその瞬間、先日のことが脳裏に過った。時間がともったような感覚が私を襲う。足早にエレベーターで屋上に向かう。なかなか降りてこないエレベーターが私の焦燥感を加速させた。着いた瞬間、先週男と会った位置へ駆け出した。
いなかった。そこに、昨日傘を渡した男はいなかった。思い過ごしだったのだろうか。妙な感覚になりつつ自分のフロアに戻ろうとしたとき、人影が視界に入った。しかも柵の外側に。昨日の男だ。私は一目散に駆け寄った。
「何してるんですか!早くこっちに戻ってください!」
男は天を仰いだままだ。悪いことが起きる前に何とかしなければ。しかし、かける言葉がこれ以上見つからない。私は何を思ったのか、静かに問いかけた。
「あなたはどうして・・・屋上にいるんですか?」
男はこちらを向いた。その表情は今日の空模様に似ていた。
「自分を取り戻すため・・・」
ビルの屋上に強い風が吹く。私と男の間を引き裂くように。乱れる髪を抑えながら、男の方を見続けた。
「他人はいつも私を殺します。私は人が嫌いです。でも、人と触れ合うことも悪くないと思いました」
再び強い風が私たちの間を通り抜けてゆく。
「昨日の傘、お返ししておきました」
優しさと哀しさに満ちた表情を見せたまま、彼は都会の雑踏の中へ落ちていった。
全身の力が抜け、その場に座り込んだ。彼は一体何者だったのか。
まもなく下界ではサイレンが鳴り響き、このつまらない日常がほんの少し、退屈ではなくなった気がした。
終
屋上の君は哀しげに笑う(短篇) 文音 憂 @yu-ayane795
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