第26話 ビニールプール
知り合いの保育士さんから聞いた話。
数年前の梅雨が明けたとはいえ空気はまだジメジメとしていて蒸し暑い夏の頃だったらしい。
園の物置の整理をしていた彼女は部屋の片隅で古びたダンボール箱を見つけた。
何だろうと開けてみると中に入っていたのは古びたビニールプールだった。
青と白を基調とした定番のカラーリング、所々に薄茶色のシミはあるものの目立った傷や破損は無さそうに見えた。
「これは使えるかもしれない。」
そう思った彼女は物置の中を物色して、空気入れを見つけ出すと膨らませてみる事にした。
もちろん園では現役で使っているビニールプールはあった。
だが園児全員が遊べる程大きなものではなかった。
その為、数人のおとなしめな性格の園児は遊びたくても人が多すぎてプールを遠巻きに眺めている様な状態だった。
このプールもさして大きいわけではないが、それでもプールがふたつになればそれだけ遊べる園児も増える。
そう考えた彼女はこのビニールプールが使えるのか確認しようと思ったのだった。
手動の空気入れを額に汗を浮かべながら動かして空気を送り込んでいくと、次第にプールは大きく膨らみ始めた。
空気が抜けていく様な音は聞こえない。
どうやら穴や裂け目等は無さそうだった。
これで園児達も喜んでくれる。
そう思うと自身も自然に笑みが溢れてきたという。
しっかりと空気を入れたビニールプールを手に園庭に向かう。
園庭では既に水遊びを楽しむ園児達がはしゃいでいた。
彼女の手に持ったビニールプールを見た園児の何人かが駆け寄ってくる。
「先生倉庫でまだ使えるプール見つけたから、こっちにもお水入れてね〜」
と声をかけ、園児達にプールを手渡そうとした。
その時、水遊びを監督していた先輩保育士のKさんが血相を変えて駆け寄ってきて彼女の手からビニールプールを奪いとった。
「これはダメ!!」
Kさんは肩で息をしながらそう叫んだ。
普段温厚なKさんからは想像できない行動に彼女は呆気に取られてしまった。
園児達もビックリしてシーンと固まってしまっている。
そんな状況にも気に止めず、Kさんはプールを持って去っていってしまった。
その後は、ぬか喜びをさせられた形になって荒れる園児達をなんとか落ち着かせる為に奔走することになってしまった。
その日の夕方、最後の園児のお迎えを見届けて事務仕事をしながら彼女は迷っていた。
向かいの机で彼女と同じく事務仕事をしているKさんにあのプールについて聞いてみるべきか。
今は他の保育士は帰ってしまい、園にはKさんとふたりきり。
話を聞くにはもってこいの状況だった。
しかし、昼間見せたあの切羽詰まったKさんを思い出すとなんだか聞くのが躊躇われる気がしていた。
「何も聞いてはいけない。」
そんな空気が出ている様に思われたからだ。
そう思い悩んでいると、
彼女はある事に気がついた。
園庭の方からなにやら音が聞こえてくる。
なんの音だろうと立ち上がり音の聞こえた方へむかってみる。
近づくにつれ、音の正体がはっきりとわかる。
水音だ。
バシャバシャと誰かが水遊びをしている様な音。
「いったい誰が?もう園児達は皆帰ったはず。」
そう思いながら音の方を見る。
園庭の端、園舎との境に近いそこには古びたビニールプールが置かれていた。
あの物置き部屋で見つけ、Kさんがどこかへ持ち去ったはずのソレがそこにはあった。
薄暗い為良く見えないが沈みかけた夕陽に照らされたソレには水が並々と張られてバシャリバシャリと波立っている。
だが彼女には水音の主の姿が見えなかった。
波立つプールは確かにソコにあるはずなのに、
彼女はもう少し良く見ようと歩を進める。
プールまで数メートルの距離まで近づいた時、
彼女はある事に気がついて背筋が凍った。
ビニールプールを波々と満たしている水は、
赤黒く染まっていた。
それはまるで、
そう、
まさに、
血の様に。
その光景に足が止まった彼女の耳に声が聞こえた。
「ねぇ、遊ぼう。」
幼い少女の声に彼女には聞こえた。
そして声と同時にプールの縁が誰かが踏んだように凹み、そこから赤く染まった水が溢れ出してくる。
溢れた液体は意志があるかのように彼女の目前まで流れ寄ると水溜りをつくりだす。
赤い水溜りからはポコポコと水泡が浮かびやがて何かが生える様に浮かんできた。
彼女はソレを見てはいけないと目を逸らそうとしたが、身体どころか視線すら動かせない。
黒い髪、土気色の肌。
血に染まった少女の顔が、足元の血溜まりから半分程浮かび上がっていた。
昏い孔の様な眼の目尻を下げて
少女は笑う。
「遊んで、、、」
足元まで広がった血溜まりの淵から指が這い出して彼女の足を掴もうとした。
その時、、、
『ビシャァァァ!!』
細い筋状の水流が血塗れの手を切り裂いた。
ビックリして振り向くとKさんがホースを構えて立っていた。
ホースのノズルからはジェット水流が勢い良く流れ出している。
「離れて!」
Kさんが視線を少女の顔に向けたまま叫ぶ。
反射的に飛び退くとKさんはそのまま水流を少女に向けて浴びせかける。
水をかけられた少女はまるで泥人形の様にあっさりと崩れ落ち水と共に排水溝へと流れ落ちていく。
ゴボゴボと音を立てて流れていく赤黒いヘドロを呆然と眺めている私の脇をKさんは早足で通り抜け、
古びたビニールプールに大きめのカッターナイフを突き立てる。
切り裂かれたビニールプールは空気を失い中の液体を吐き出しながら形を崩していく。
再びホースを手にしたKさんは淡々とその液体も水流で排水溝へ押し込む様に流し込んでしまった。
Kさんは全てをキレイに流し去ると潰れたビニールプールを折りたたんでゴミ袋に投げ込むとスタスタと立ち去っていこうとする。
彼女はそんなKさんを呼び止めるといったいさっきのはなんだったのかと問いかけた。
Kさんは少しの間黙り込んでいたが一言。
「あの娘はね、遊んで欲しいだけなのよ。だけどそれは出来ない。それだけの事よ。」
そう言って立ち去ってしまった。
それ以上は聞ける雰囲気ではなく、彼女は少々混乱しながらも残りの仕事を片付けて帰路についた。
それからあのプールの行方はわからないが暫くしてKさんは家の事情だとかで退職してしまい、あのプールの事はわからずじまいだという。
「最後に、後日談って程でもないんですが。私が就職する数年前に園で事故があって園児が一人亡くなっていたみたいなんです。その子は引っ込み思案で皆が遊んでる時にプールで遊べなくて、皆が帰りだした頃にこっそり出しっぱなしにしていたプールで遊ぼうとして足を滑らせてプールに倒れてしまって。倒れた拍子にプールの底で頭を打ってしまって気を失ってそのまま溺死してしまったらしくて。」
じゃあその子の霊だったんでしょうか?
そう問いかける私に彼女は「わかりません。」と答えたが、続けて。
「でもその時に園児達を見ていた担当の先生方の中にKさんもいたらしくて、その子とはとても仲が良くて当時はかなり落ち込んでいたと聞きました。」
そして最後に彼女はこう言って話を締めくくった。
「あの日、Kさんが去り際にゴミ袋に詰めたビニールプールを抱き締める様にして聞こえないくらいの声で言ってたんです。ごめんね。って。その顔が、今でも忘れられないんです。」
完
迷鳴恐響〜短編怪談集〜 夜蛙キョウ @OccultFrog_Kyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。迷鳴恐響〜短編怪談集〜の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます