No.4 「黒猫についての考察」
登校中、人混みを避けるために裏道から遠回りをしていると、一軒の民家のコンクリート製の垣根の上に、こちらをじっと見つめる猫がいた。
黒の毛並みが、まるでつい先ほどまで油にどっぷりとつかっていたかのように輝かしい艶を含んでいた。
そして、楕円形の琥珀の中心に、一筋の黒の裂け目が刻まれたような二つの眼。
おおよそ時空の裂け目かなにかだろう。
僕はその裂け目に吸い込まれるようにして、と言うよりも、正に僕の両目はその黒猫の琥珀色に吸い込まれていた。目線を逸らすことは許されていなかった。
「なにか恵んで頂けませんでしょうか?」黒猫の声が人気のない路地に響く。
その声が瞬時に黒猫の声だと分かったのが、自分には不思議でならなかった。
確かに黒猫の声であるのだけれど、黒猫の小さくて愛すべきその口は一切動いていなかったのだ。
僕には黒猫が話しかけてきたという事よりも、黒猫がどうして自分に声を掛けたのかと言う事の方が驚くべきことだった。
黒猫が話した。当たり前だろう。
以前、誰かがそう言っていたような気がしたからだ。
それが誰だったかは、思い出せないけれど、確かにその記憶は正しいものであるという確信があった。
「何をご所望ですか?」と僕は言う。
「今まで人間に貰ったもののなかではツナ缶に勝るものはありませんでしたが……。そうですね、今はパンを食べてみたいですね。おいしい、おいしくないというよりも、あのなんとも言えない素朴さが私の記憶を刺激するのです。パンと言っても、その端っこの耳の部分ですが、あれをミルクに浸して食べた時の記憶と言うのは、なんというか……」
「なんというか?」
「……そう、思い出に近しいものなのです。普段は気にも留めないのに、ふとしたときに懐かしくなって、それを抱きしめなければ落ち着かなくなってしまう……。なるほど生き物とは、不思議なものですね。私にとってそれが、パンだったという訳です。ああ、もちろんパンをお持ちでなくとも、私は一向にかまいません。こう見えても、好き嫌いは無い方なのであります」
そう言っている間も、黒猫の口は微動だにしなかった。
そうか、パンか。確かに、パンの耳は最高においしいわけではないのだけれども、ふとした時に恋しくなるようなものだと思った。
パンの耳をトースターで焦げ目がつくまで焼いたのを、少しだけ食べたくなった。
「黒猫さん。パンは消えました」
「おや、そうですか。それにしては、貴方からはかなり強いパンの匂いがするのですが」と黒猫はなんでもなさそうに答えた。
強いパンの匂いとは何だろう。
そもそもパンが消えたというのに、どうして僕からパンの匂いがするのだろう。
鼻を袖に当てて空気を吸い込んでも、パンの匂いなど一切感じないのだけれど、この黒猫の言う事は本当なのだろうか。パンは消えたのに?
「ちなみに、誰がパンを消したのですか?」と黒猫は尋ねた。
「パンが誰を消したのです」と、僕は何度目か分からない答えをなぞった。
その返答は、昨日の朝食の時から、あらかじめ用意されていたものだった。
僕は少しの申し訳なさを感じた。
それは、この黒猫の望みを叶えられなかったことでも、学校に行くために早々と話を切り上げようと思っていたからでもないような気がした。
それはあくまで気がしただけのことで、おおよそ大体の見当は謎のままだった。
それは正に、いつもと同じようなことだった。
それは正に、いつもと同じようなことだった。
僕は黒猫に謝罪し、黒猫は、謝罪するようなことではないと僕に言った。
僕は、バックパックの横のポケットに入っていたイチゴ味の飴玉を一つ取り出して、黒猫に渡した。
それは僕から黒猫への、せめてもの償いだった。
贖罪に近いものだったのだ。
そうして、僕と黒猫の路地での会合は一過性の渦に飲み込まれた。
僕はその渦から吐き出され、それがはじめからそうであるように、再び学校へ向かった。
最早時間はだいぶ経過していて、おそらくどんなに急いでも遅刻は免れないだろうというような時間帯だった。
パンが誰を消したのか。
せっかくだから、僕はそのことについて考えながら歩いた。
パンが消えた。 雫石 @ShizukuIshiRIA
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