第2話

「私も神社に一緒に行くから、すこし待ってて」


 百合子は貴恵に声をかけると、家の中に大急ぎで上がり、防寒の態勢を整えた。琵琶湖沿岸のこの地は、雪はまだ序の口程度にしか降っていないが、凍りつくような冷たい風にすさまじい勢いで襲われることもしばしばだった。

 二人は連れ立って外に出た。そして懐中電灯を片手に、真っ暗になった道を神社に向かって急いだ。途中、行き交う人の中に、貴恵と仲のいい主婦がいた。


「お百度踏み、たいへんだねえ。だんなさん、早う良うなればええなあ」


 彼女の思いがけない言葉に、百合子は足を止め、貴恵の寂しげな横顔を見つめた。

もう何日も前から神社に通っているとは、全然気がつかなかった。そういえばパパが倒れて一ヶ月近くがたつのだ。胸が刺すように息苦しくなり、自責の思いが込み上げてくる。目覚めないまま寝たきりでいる彼の姿を見るのが辛く、今日は病院に寄らず、まっすぐ家に帰ってきたのだ。パパの回復をなかば諦めかけていた自分が情けなかった。

 お百度踏みというのは、この地方にある古い習慣だ。一体いつ頃から行われているのか誰もしらない。おそらく最初は豊作を祈って皆で詣でているうちに、それぞれ個人的な祈願へと派生していったのだろう。誰かの命が危うくなった時、或いはどうしても叶えたい望みをもった時、人々はお百度を踏んできた。時代は移っても、それはすたれることなく今に続いている。

 鳥居の所に着くと、参拝に向かう人々の影がぼんやりと見えた。二人は寒風にさらされながら、本殿に向かって歩いていった。重苦しい顔つきの老女と入れかわりに、百合子は貴恵の横に並んで、二礼二拍手一礼をして拝んだ。パパ早く目をさまして元気になって、そう、心の中で叫びつづけた。


 クリスマスイブ。今年はケーキもツリーもない。

 迷路のような病院の廊下を歩いて、百合子はパパの眠っている病室の前に立った。ここのところ毎日、仕事帰りに立ち寄っている。

 軽く息を吸って、中に入ると、貴恵が花束を抱えてベッド脇の椅子に座っていた。はっとするほど鮮やかな真紅のグロリオサ・リリーだった。パパはこの花をことのほか好み、毎年クリスマスには必ず、二人へのプレゼントに買ってきたものだ。

 彼女は百合子に気づくと、嬉しそうに言った。


「今日はなんだか機嫌がいいみたい。きっと、いい夢を見ているのよ」


 ベッドの白い毛布の下で、いつものようにパパは寝ていた。

 身長百八十センチを越え筋肉が盛り上がっていた身体は、すっかり細くなっていた。その腕には点滴のチューブが巻き付き、鼻からは酸素吸入の菅が出ている。その管を鼻の下で止めた絆創膏と同じくらいパパの顔は白かった。かつての小麦色に日焼けした精悍な顔はどこにもなかった。

 百合子はしばしパパの枕元にいた。それから貴恵にあとを頼み、静かに病室を出た。

 廊下を歩きながら、思い出すことがあった。それは、まだ幼い頃、両親と三人で公園にピクニックに行った記憶の風景だ。ひどく昔のことなのに、昨日のことのように鮮明だった。

 時は流れ、今パパの傍らにはママではなく貴恵がいる。

 でも、それでいいのだ・・・この二十年間いろんなことがあったけど、それでも私たちはずっと幸せだったのだから・・・百合子の目に熱い涙がにじんだ。


 パパが亡くなったのは、大雪の日だった。雪は一昼夜降りしきり、地上の色をかき消した。貴恵のお百度踏みを遂げるのを待たず、ママのいる天国に旅立っていった。

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お百度踏み オダ 暁 @odaakatuki

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