お百度踏み
オダ 暁
第1話
車を車庫に入れ、ドアを閉めると、師走の風の冷たさに思わず身を震わせた。辺りはひっそりと薄暗く、仕事の帰り道で見た、山の稜線をわずかに染めていた夕焼けも今は消えていた。そんな心細い宵闇の風景から逃れるように、百合子は灯りのともった、玄関へ飛び込み、勢いよく開き戸をあけた。
「あっ、びっくりした」
甲高い声が耳元で響き、身体が何かにぶつかった。外出しようとする義母の貴恵と鉢合わせになったのだった。分厚いジャンパーをはおり毛のマフラーを首に巻いた、彼女の防寒姿に、百合子はふたたび驚いた。
「お母さん、これから、どこへ出かけるん?」
「うん・・今日はちょっと遅うなってしまった。神社にね、お参りに行こかと思うて」
「神社って、もしかしてパパの願掛けをしに?」
貴恵は答えるかわりに、小さくうなずいて微笑んだ。心労のせいか精気がなく、やつれてはいたが、人なつこい笑顔は以前と変わらない。おとなしく見かけも華奢な百合子にくらべ、容貌や体躯、そして性格まで、昔からたくましい女であった。
百合子は物心ついた頃から、両親をパパ、ママと呼んでいた。一人娘ということもあって溺愛され、とても幸福だった。ママが突然の交通事故で死んでしまうまでは。
当時、百合子はまだ十歳だった。パパは抜け殻みたいになって、前みたいに笑ったり喋ったりしなくなった。百合子だって負けないくらい辛かったのに、パパは自分の悲しみに精一杯だった。気のいい近所の人や、親戚たちが、あれやこれやと世話をやいてくれたけど、ママが生きていた頃と同じというわけにはいかなかった。家の中は荒れ果て、食事は弁当や外食がふえていき、いいかげんうんざりしていた時に貴恵が来たのだった。
パパの会社のOLだった彼女は、入社してすぐ、ひとまわりも年上のパパに恋をしたそうだ。だけどパパは妻子持ちだったから、せつない片思いだった。あきらめて見合いをしようかと思っていた、その矢先に、パパは妻に先立たれ独り身になってしまった。傷心の彼を目のあたりにして、貴恵は押し掛け女房になることを決心したらしい。ママの一周忌を待って実行に移し、紆余曲折の末、彼女は悲願を達成したのだった。
その一連の顛末を百合子が知ったのは、パパが五十二歳の若さで脳卒中で倒れ、そのまま意識不明になった日の晩だった。貴恵と再婚してから十二年の年月が過ぎていた。一緒に住みだした当初はぎこちない関係がしばらく続いたが、貴恵のあけっぴろげな、それでいて誠実な人柄に次第に心を開いていき、気がつけば百合子は彼女のことを「お母さん」と呼んでいた。「ママ」ではなく「お母さん」と。
貴恵はママの遺品を大切に保管し、思い出を壊すことはしなかった。命日の墓参りはかかさなかったし、パパや百合子には心からの愛情を注いだ。パパはみるみる元気を取り戻し、何かの折につけ口癖のように言ったものだ。
「貴恵はほんとうに変わり者だよ、わざわざコブつきの中年男に嫁に来るんだからね」
にこにこと、いかにも愉快な様子で。
百合子はもちろんパパも、やさしかったママのことを忘れなかったけど、貴恵の存在は日増しに大きくなっていった。
あの晩、消灯時間を看護婦に告げられ、病院の集中治療室に父を残して、百合子と貴恵は家に帰った。不安で胸が押し潰されそうな、闇色の記憶。木枯らしが一晩中ぴゅうぴゅう吹き、電線や木々の葉を揺らしていた。
「あたしは、あんたの父さんのこと愛してるの。昔も、今も。あの人が死んだら、あたしも死ぬわ」
ちゃぶ台に両肘をつき、貴恵はおいおい泣きながら過去の思い出話を百合子に話してくれた。パパのいない家はだだっ広く、空気の色も違って見える。とほうもなく暗くて長いふたりぼっちの夜だった。
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